無敵のヴィーナス/act2

 去年の秋――わたしがここに配属されて間もない頃、中国人らしいグループによる連続強盗事件があって、捜査本部がここに置かれていた。そのとき捜査の指揮をとったのが、本庁から来た泉田警部補だった。そのとき32歳だったかな。わたしよりは12歳も年上だけど、指揮官としては随分若いから、オジサン刑事たちにはあんまり人気がなかった。けど、指示は的確だったし判断が早かったので、所轄だけで捜査してたときには一ヶ月かかっても犯人を捕まえられなかったのが、応援が来てからたった二週間で逮捕できてしまった。
 というわけで、泉田警部補がすごく優秀な人であることは分かったんだけど、でも相変わらずオジサンたちには人気がなかった。何故かというと、署内の女子職員がみんな(といっても事務も合わせて十人くらいしかいないんだけど)彼に夢中になってしまったからだ。なんといっても30代そこそこで警部補ってくらい優秀だし、背が高くてスーツがいつも様になってた(といっても洗練されたブランドスーツじゃなくて、デパートなんかで普通に売ってるヤツだったけど)。顔立ちだって結構きりっとしてて男前。おまけに噂によると、その頃彼女と別れたばかりでフリーだった。こりゃ狙わないわけないよねぇ。
 というわけで彼が本庁に戻るまでの間、ウチの署の独身女性たちは先を争ってお茶を淹れたり捜査資料を揃えたりお弁当を作ってみたり――とはいっても、彼は聞き込みやら何やらでお昼時は外出してることがほとんどだったから、お弁当はたいてい無駄になって、結局みんなで頂いた――と、結構壮絶な戦いを繰り広げていたのだった(わたしも独身だけど、カッコイイとは思っても好みのタイプではなかったので、彼女たちの仁義なき戦いを楽しく観戦していた)。既婚の人や、あるいはけっこう年配の事務のおばちゃまたちにしても、何かと彼の世話を焼きたがった。本人はその状況にものすごく戸惑っていたが、見かけによらずスレてないそんな様子がまた可愛い、と人気はヒートアップする一方だった。
 事件が解決して捜査本部が解散になったとき、オジサンたちは目障りなヤツがいなくなったと喜んだけど、案外一番ほっとしたのは彼だったかもしれない。

 ところで、警察学校卒業したてホヤホヤの新人だったわたしも、その捜査活動に加わることができた。犯人が捕まったあと、取調べのときだ。犯人グループは広東語を使う中国人だったので、通訳が必要だったのだ。そのときまでわたしが広東語喋れるなんて署内の誰も知らなかったし、新人な上に小柄で童顔のわたしが取り調べに加わると犯人たちにナメられるんじゃないかって言われてたらしいんだけど、他に通訳の人を呼んでいる時間は惜しかったし、泉田警部補は自分が責任を取ると言った上で、わたしの安全に対しても最大限の配慮をはらってくれた。
 まあ、そもそも逮捕劇が結構派手だったみたいで、すっかり抵抗する気をなくしていた犯人たちはかよわい(ように見える)わたしを人質にとって脱走したりすることもなく、無事に取り調べは終わったのだった。それでも深夜までかかって取り調べを終え、女の子の一人歩きは危ないからと言って(一応警察官なんだけどなあ)部下にわたしを送っていくよう手配してくれたあと、握手を求めるように右手を差し出しながら泉田警部補は言った。

「ありがとう、助かったよ」

 敏腕刑事というより、面倒見のいいお兄さんといった感じの笑顔だった。あー、みんなが夢中になるの分かる気がするなあ、と思った。そういえばこの人は、女の子たちの攻撃に戸惑いつつも、いつもちゃんと「ありがとう」と言っていた。ウチの署のオジサンたちは、若い部下に手伝ってもらったり、女子職員がお茶を淹れたりするのは当然だと思ってるらしく、そんなふうにこまめにお礼を言ってくれることはなかった。
 あとで聞いたら、このとき彼は警部補に昇進して日が浅く、捜査の指揮をとるのは初めてだったらしい。そういうことをしてもらうのが当然だと思うほど慣れていなかった、ということなら、ああやってお礼をこまめに言うのも分かる気がする。でもそのとき、初めて警察官としてちゃんと認められたような気がして、凄く嬉しかった。なので、差し出された右手を両手で掴んでぶんぶんと揺さぶりながら、わたしはほとんど叫ぶように言った。
「いえ、あの、こちらこそ、ありがとうございましたあ!」
 警察官になって良かったぁ、と思ったのはあのときが初めてだった。

 ……で、そのあと現在に至るまでのほぼ一年間、そんな感想を持てたことは一度もない。



 わたしが本庁に異動するという話は、翌日には署内に広まっていたらしかった。「異動する前にこのデータベース整理しといて!」とか言われて押しつけられる雑用が増える一方、「なんか手伝うことある?」「おごってやろうか?」とか言われることも増えた。気になるのは、そうやってわたしを気遣う人の目が、どこか哀れみをたたえていること。なんで?だって本庁の精鋭チーム(と聞いているトコロ)に行くのに、哀れまれる理由なんて想像つかない。
 あと、オジサンたちなら知ってるかなあ、と思って、「薬師寺警視ってどんな人ですか?」と何人かに聞いてみた。すると、途端に目をそらしたり、鳴ってもいない携帯に耳を当てて「おぅ、俺だ」とか言ったりする人が続出した。……これって、どういうことですかあ?
 様々の不可解な現象の理由は、その日のお昼休みに判明した。同期の女の子とハンバーガーショップでお昼を食べているとき、彼女が不意に切り出したのだ。
「そういえばさー、本庁に島流しだってー?」
「ふぁ?」

 島流し?ナニソレ。

 ライスバーガーをほおばったまま呆気にとられたわたしに構わず、彼女は深く溜息をついて言った。
「さとみもホンット、ついてないよねえ……雑用係の次は、魔女のもとで飼い殺しなんてさ」
「ちょ、ちょっと待って。魔女って何?薬師寺警視のこと?」
 あわてて口を挟むと、彼女の方が驚いたようだった。
「え?何、知らなかったの?」
「知らないよお。だって、誰に聞いても教えてくれないんだもん」
 彼女は気まずげに話題を変えようとしたが、そんなことは許さなかった。さあ吐け!
 もっとも、うっかり口を滑らせるくらいだから、彼女から話を聞き出すことはそんなに難しくなかった。わたしは署長から聞いた薬師寺警視の情報が、嘘ではないけれど事実のほんの一部に過ぎなかったことを知ってしまった。傍若無人、傲岸不遜、警察庁きってのデストロイヤー。刑事部参事官室への異動はすなわち、階級社会での死を意味する……。彼女がオジサンたちから聞きこんできたそれらの情報に、絶望的な気分になった。わたし、まだ21なんですけどお。もう死んだも同然なんですか?遠回しにクビってことですかあ?
「あ、でもさあ、泉田さんも一緒なんでしょ?よかったじゃん」
 とってつけたように言われた気休めに、力なくこっくりと頷く。……あれぇ?泉田警部補って出世頭じゃなかったっけ?どうしてそんな部署に配置されるんだろ。
「ねえねえ、さとみは別に泉田さん狙ってなかったよね?じゃあさぁ、さりげなくあたしのこと宣伝しといてよー。あ、デートのセッティングもしてくれると嬉しいな」
 秘密を打ち明けたことで開き直ってしまった彼女は、落ち込むわたしにお構いナシにそんなことを頼んできた。女の友情なんてこんなもん。