slow love/act5
缶コーヒーを一気に飲み干す。独特の甘ったるさが口の中に広がったが、苦い気分は去らない。泉田は壁に背中を寄りかからせて長い溜息をついた。先程の涼子の様子が頭から離れない。胸元で震える手、驚きに大きくみはられた瞳。そして――その瞳の上で、普段はカーヴを描いて外側に吊りあがっている眉が寄せられていくのを、スローモーションのように思い出す。今まで、彼女があんな表情をするのを見たことがなかった。普段見せる気の強そうな表情とはあまりにも違って、どこか頼りなげな……。
――今にも、泣き出しそうな。
まさか、あんな顔をするなんて。彼の行動に、彼女があんなにショックを受けるとは思っていなかった。予想外の事態に彼は動揺していた。
傷つけるつもりじゃなかったんだ。言葉には出さず呟く。――そう、あなたを傷つけたかったんじゃない。
俺が、傷つきたくなかったんだ。
空になった缶をゴミ箱に向かって放り投げる。軌道はわずかに逸れて、缶は壁に当たって跳ね返り、床に落ちた。カラン、という金属音が、無人のロビーにやけに大きく響く。舌打ちしたい気分になったのは、コントロールの悪さに対してではなかった。
何度同じ間違いを繰り返せば気が済むのだろう。口の端に自嘲めいた笑みが浮かぶ。ふと、昨夜サイドテーブルに放り込んだ封筒を思い出す。――最後の電話のとき、自分から別れを切り出したのは、彼女の将来を思ってのことじゃなかった。全くの嘘でもないが。それよりも、彼女にとどめを刺されたくなかった。その前に、すでにもう十分ぼろぼろだったから。だから自分から手を放してしまったのだ。いずれ離れていく人だった、と自分に言い聞かせながら。今また、同じことを繰り返している。
本当は手放したくなどないのに。
腕時計に目をやり、溜息をつく。仕事が滞ってしまうし、あまり長く席をはずすわけにもいかない。終業時間までもう少しだから、今日はもう涼子と顔を合わせなくても済むだろう。――だが、明日以降も彼女を避けつづけるわけにはいかない。
許してはくれないだろうな。諦めに似た気分でそう考える。涼子を怒らせたことは何度かあっても、あんなに傷つけたことはなかった。――彼女のことだから、もしかしたら明日にも自分を異動させるかもしれない。二、三年先かと思ってたが、案外短い付き合いだったな。
傷つくまいと思っていたはずなのに、鋭い痛みが胸を走る。何もかも大失敗だ。わざと苦笑いを浮かべてみたが、うまく表情を作れている自信はなかった。
泉田が執務室を出て行った後も、涼子はその場から動けずにいた。乱暴に振り払われた手の痛みはとうに消えたが、締めつけられるような胸の痛みは、消えるどころか強くなるばかりで息苦しいほどだ。――心臓を掴まれているみたい。こんな痛みは初めてだ。
「…………何よ、もう…っ」
やっとの思いで、絞り出すように呟く。脳裏に明滅するのはただひとつの言葉。
――どうして。
彼が突然よそよそしくなった理由も、いま何故手を振り払われたのかも全く分からない。ただ、彼が彼女と殊更に距離をおこうとしていることだけは分かった。事態の変化だけが分かっていても、その原因が分からなければ対処のしようがない。分からない、ということに彼女は慣れていなかった。足元から潮のように不安が満ちてくる。
どうしよう。彼があたしから離れていってしまう。
落ち着け、よく考えなきゃ。両目をぎゅっと閉じ、胸に手をあてて呼吸を整える。痛みは消えないが、何度か繰り返すうちにいくらか気分が落ち着いてきた。彼女の手を振り払ったときの彼の表情が脳裏に蘇った。彼女の声に降り返ったときの表情。最初にあったのは驚き。彼女の表情に驚いていたように見えたけれど――あのとき、あたしはどんな顔をしていたのかしら。それから、苦しげに眉をひそめて……。
……後悔しているみたいだった。
そっと目を開け、溜息をこぼす。――馬鹿ね。女を振りたいなら、徹底的に悪役を演じ切らないと。あんな顔されちゃ憎めないじゃない。
「……馬鹿。鈍感。大根役者」
ことさら意地の悪い笑みを浮かべ、わざと吐き捨てるような口調で呟く。だが目の縁が熱くなってくるのを感じ、右手で両目を覆ってさらに呟いた。
「正直者……っ」
あとは何も言葉にならなかった。肩が震え出すのが分かった。彼女は片手で目を覆ったまま俯き、しばらくその場に佇んでいた。