slow love/act6
エレベーターの扉が閉じられようとしていた。「すみません、乗ります」と声をかけると、中の人物が「開」のボタンを押したらしく、閉じかけた扉はまた開いた。礼を言いながら乗りこもうとしたところで足が止まる。中にいたのは涼子だった。昼過ぎからのぎこちない空気が再び漂った。
乗りこむのをためらい、彼は踵を返そうとした。だがそれより早く、涼子が彼に向かって両腕を伸ばした。スーツの襟を掴んでエレベーターへ引っ張り込む。不意をつかれ、勢い余ってつまづきそうになってしまい、とっさに内壁に手をついて体を支えた。
「何を……」
乱暴な行為への抗議は途中で中断された。唇をなにか柔らかいものが塞いだ。微かな甘い香りが鼻先をくすぐる。キス、と気付くまでしばらくかかった。息苦しさを感じたのは、唇を塞がれていたせいだけだろうか。
長い時間のように感じられたが、実際はほんの数秒のことだっただろう。やがて彼女の身体が離れた。襟を掴んだ手はそのままに、彼を睨み付ける。頬が紅潮し、やや息が乱れている。両目のふちがわずかに赤く染まっていた。
「……わかってるんだから」
低い声で彼女が告げた。語調は強気だが、声は微かに震えていた。
「全部じゃないけど、君のことなんか大体わかってるんだから。何年付き合ってきたと思ってるの?急にあんな態度とったって、本心じゃないことくらいお見通しなのよ。何考えてんだか知らないけど、あたしを遠ざけようったってそうはいかないから。君がいくら逃げたって、必ず捕まえてやるんだからね!」
一気にそれだけ言うと、涼子は息を切らして黙り込んだ。まっすぐに彼を睨み付けていた瞳をそらし、頬を染めたまま横を向いた彼女を、彼は半ば呆気にとられたように見つめた。あまりにも突然すぎる彼女の行動に、思考が停止してしまったように感じられる。ただ、その言葉だけが耳の奥で反響していた。
いくら逃げたって、必ず捕まえてやる、か。……参ったな。唇に苦笑が浮かぶ。彼女のストレートで力強い攻撃の前には、どんな防御も紙の盾に等しい。まして自分は、それが向けられることを喜ばしくさえ感じていたのだから。最初から、勝ち目などなかったのだ。
彼女の頬に触れ、そっと自分のほうに向けさせる。今度は彼女の方が、彼の行動に戸惑ったようだ。長い睫毛に縁取られた瞳には、先程彼を睨み付けていたときの鋭さはなく、水面のように揺れて彼女の困惑をうかがわせていた。彼はゆっくりと彼女の唇に自分のそれを重ねた。
「ん……」
触れ合った唇から彼女の吐息がこぼれる。襟に掛かっていた手の力が一瞬強まった。襟を掴んでいるというよりしがみつくような状態だ。彼女の頬に添えていた手を、顎から首筋、肩へと滑らせる。それから背中へ。もう片方の手も彼女の背中へ回す。いったん唇をはなし、瞳を覗きこんで微笑んだ。彼女が彼の襟から手を放した。その手を彼の首に回しながら彼女も微笑む。もう一度唇を重ねる。背中に回した腕に力を込める。また唇をはなし、重ねる。もう一度、もう一度……。
頭の片隅でふと考える。このエレベーターはまだ一階に着かないのだろうか。先に乗っていたのは彼女だが、そもそも彼女は階数ボタンを押していたのだろうか……?
背後でエレベーターの扉が開く音がした。小さな咳払いに振り返ると、丸岡警部が苦笑を浮かべて立っていた。まだ六階だ。
「…………お邪魔だったかな」
一階で丸岡警部と別れた後、並んで歩きながら涼子が肩をすくめて笑った。
「噂になるかしらね」
「さあ、どうでしょう」
「ま、あたしは別にかまわないけど」
言いながら右腕を泉田の左腕に絡める。泉田が答えないので、彼女は彼の顔を見上げた。
「……気にしてる?」
「いえ、別に」
「嘘」
彼女はニッと笑った。
「言ったでしょ、君のことは大体わかってるって。どっちかって言えば噂とか立てられるの嫌なのよね、君は」
「……ええ、まあ。でももう仕方ないでしょう」
「そうね、今更だもんね」
涼子は声を立てて笑った。……実のところ、そういった噂はかなり以前から囁かれていた。彼は知らないかもしれないけれど。ようやく事実が噂に追いついたってところかしら。
笑いをおさめ、真面目な表情を作って彼を見上げる。
「ところで、さっきの続きはどうする?」
「え?」
質問の意味を把握しそこねて泉田が一瞬戸惑った表情を浮かべる。涼子はからかうように微笑んで見せた。続き、の意味に思い至って泉田が狼狽する。
「……展開が早すぎませんか?」
「そう?今までが遅すぎたってだけで普通じゃない?」
「私には急展開です」
憮然とした口調で呟く彼の頬が赤みを帯びている。それを見やって、涼子は内心で溜息をついた。――ま、しょうがないか。ここまで来るのだって相当時間がかかったし、これからだって何もかも順調にいくわけでもないだろう。自分でも意外なことだけど、時間をかけるのは苦痛じゃない。持久戦も得意になったのよ、君のせいで。
絡めていた腕を解き、彼の正面に立つ。今日、何度彼を睨み付けたかわからない。今度は「睨み付ける」ではなく、――瞳をじっと見つめる。
「それじゃ、続きはまた今度にしてあげる。……その代わり」
言葉を途中で止めて微笑む。
「今日はイタリアンでどう?」
「賛成」
彼が即答し、ふたりで同時に笑い合った。彼が腕を伸ばして彼女を抱き寄せる。彼女の腕が彼の首に回される。互いの瞳を覗きこんで微笑み合い、唇を重ねる。
今度こそ、自分から手を放したりしない。決して。
腕に力を込め、強く抱きしめた。