slow love/act4
エレベーターに乗り込み、「閉」ボタンを押そうとしたとき、「待って!」という声に続いて涼子が駆け込んで来た。頬を紅潮させ、やや息を切らしながらも泉田に微笑みかける。
「おはよ」
「おはようございます。寝坊ですか、警視」
応えながら「閉」ボタンと階数ボタンを押す。扉が閉まり、エレベーターが動き出す。
「違うわよ。別に遅刻じゃないでしょ」
「時間ギリギリですよ」
「うるさいな。君だって同じじゃないの」
毒づいてから、涼子が何かを思い出したように彼の顔を見上げた。
「……ちょっと、寝不足なんじゃないの?」
「え?」
何か見透かされたような気がしてぎくりとする。「いえ、そんなことは」と慌てて否定したが、涼子は見逃さなかった。
「嘘、顔色が悪いわ。……駄目じゃない、昨日ゆっくり休めって言ったでしょ?」
「……すみません」
「眠れないの?悩みがあるなら相談に乗ってあげてもいいわよ」
泉田は驚いた。今まで彼女に気遣ってもらったことがあっただろうか。
「…………何よ、その顔」
「いえ、何でもありません」
「もしかして、あたしを想って夜も眠れない?」
一瞬垣間見せた気遣わしげな表情を一変させ、意地悪く唇の片側を吊り上げて彼女が笑う。
「全然」
「何で即否定なの。かわいくないわね」
機嫌を損ねた様子で涼子が横を向く。その子供っぽい仕草に思わず苦笑しかけて、それを抑えた。――彼女とのこんなやりとりに、いつから楽しさを感じるようになってしまったのだろう。その表情に、声に、言葉にーーその中に滲む気性に、何時の間にか魅了されてしまっている。昨夜の苦い気分がふっと蘇る。――いずれ離れていく人なのに。
横を向いていた涼子が、黙り込んだ彼に気づいて訝しげに彼を見上げる。
「どうかしたの?」
「……いえ、別に」
特に取り繕ったわけでもなかったが、その声には意外なほど温度がなかった。それを察した涼子が何か言いかけようとしたとき、エレベーターが止まり、扉が開いた。彼女を促し、エレベーターを降りる。背後で扉が閉まる音がした。
「あれ?泉田クンは?」
トイレから戻ってきて、参事官室に泉田の姿がないことに気づき問いかけると、参事官室のメンバーが顔を見合わせて笑った。
「……何?」
「いえ。泉田警部補なら、さっき捜査資料を取りに行かれましたよぉ」
さとみがにっこりと笑って答える。
「何かご用でしたら伝えておきますけどぉ」
「ん、別に用ってワケじゃないんだけど……いないならいいわ」
昨日といい今日といい、彼の様子がどこかいつもと違っているのが気に掛かっていた。昨日は一日中なんだかぼんやりしていたし、今日は……どこがどうとは言えないがとにかくいつもと違う、と朝のエレベーターでの会話を思い出しながら涼子は思った。特に気に障るようなことを言った覚えもないけど、急にそっけなくなってしまったような……。考え込んでいる涼子にさとみが逆に尋ねた。
「どうしたんですか?ケンカでもなさったんですかぁ?」
「へ?何で?」
「いえ、なんか今日、テンション低いって言うかヘコんでらっしゃるっていうか。警視だけじゃなく、泉田警部補も」
そのとき、視界がふいに翳った。続いて「何の話ですか?」と言う声が背後から投げかけられる。涼子が振り返るより早く「あ、泉田警部補」とさとみが呼びかけた。
「ちょうど良かった。警視がご用ですって」
「警視が?何でしょうか」
その声が、涼子に先程の感覚を呼び起こさせた。やっぱり、今日はどこかよそよそしい。すぐにでも問い詰めたいのをこらえ、つとめて冷静なふりをして告げる。
「……たいした用じゃないの。あとでその資料、あたしにも見せて」
「わかりました」
答えて、彼女の横を通りデスクへ向かう。その姿を見送りつつ、あることに気づいて胸の鼓動が早くなるのを感じた。無意識のうちに手を強く握り締めていた。
今の会話のあいだ、一度もあたしの方を見なかった。不自然なほどかたくなに。
やや呆然と彼の姿を見つめる。感覚が麻痺してしまったように、頭の中は空白だった。彼がそんな態度をとったことは今まで一度もない。椅子に座った彼が、何気なく視線を上げた。彼女の視線と交差した。が、次の瞬間顔をそむけ視線をそらした。さりげなさを装ったつもりだったろうが、その瞬間浮かべた気まずげな表情を彼女は見逃さなかった。
「先程の資料です、どうぞ」
「………………」
涼子のデスクの上に捜査資料のファイルを置く。涼子が無言で泉田を睨みつける。今日一日の彼の態度に不満を通り越して怒りを感じているようだ。ややあって、低い声で涼子が告げる。
「内容を説明して」
「……簡単に、概略をまとめたものが挟んでありますので。失礼します」
早口に告げて退室しようとする。これ以上長居すれば、彼女に詰問されるに決まっている。それは避けたかった。しかし彼が一礼して背を向けた瞬間、彼女が勢い良く立ちあがって彼の正面に回り込んだ。
「じゃあ別のことを説明して。何で今日はあたしを避けるの」
腕を組んで射抜くような視線で彼を睨みつけ、唇を開く。氷のように冷え切った声だった。
「別に避けてなんか……」
「嘘。さっきあからさまに視線を避けたし、今だって一回もあたしの目を見なかったわ」
彼は黙り込んだ。そう、確かに今日は彼女を避けている。だが、その理由は言えなかった。彼女に知られたくない。
涼子は苛立たしげに溜息をついた。
「……こういうのが一番むかつくのよ。何かあたしに不満があるならはっきり言えば?こんな中学生女子みたいなやり方、鬱陶しいし君らしくない」
そうだろうな、とどこか冷静な気分で彼は考えた。彼女の物言いはいつも単刀直入、ストレートだ。こんな態度をとるのもとられるのも我慢できないのだろう。場違いにも口元がほころびかけ、慌ててそれを引き結ぶ。
「別に不満はありません。……私らしくないとおっしゃいましたが、過大評価だったんですよ。失礼します」
「待ちなさいよ、話はまだ終わってないわ」
涼子の横をすり抜けドアを開けようとした瞬間、涼子が泉田の左腕をつかんだ。それと前後して、微かな香りが鼻先をかすめる。――香水。左腕に彼女の温度。そう認識した瞬間、無意識のうちに彼女の手を振り払っていた。
「……ッ!」
小さく叫ぶ声に振り向く。朝のエレベーター以来初めて、彼女の顔を正面から見つめた。彼女は驚きに目を大きくみはっていた。振り払われた手を胸元で握り締める。その手が小さく微かに震えている。表情が、次第に驚きから別のものに変わっていく。それを見た瞬間、胸を鋭い痛みが走った。苦い後悔が口の中に広がる。だが、今更その行動を取り消すことは出来なかった。立ちつくす彼女を残し、逃げるように彼女の執務室をあとにした。