slow love/act3

 スーツを脱いだとき、左の袖から微かに甘い香りが漂った。一瞬のことですぐにその香りは消えたが、涼子の香水の移り香だと気付いた。左腕を包んでいた彼女の温度を思い出す。それから、そこに寄り添う彼女の姿を。その声を、言葉を、表情を。ついさっき別れたばかりとはいえ、それらを鮮明に思い出すことができる自分に、泉田は少し驚く。
 脱いだスーツをハンガーに掛けたとき、足元にエアメールの封筒が落ちていることに気付いた。中身の方はベッドの脇に放り出されている。拾いあげてしばらく眺め、それを封筒に戻してサイドテーブルの引出しに放り込んだ。
 失った恋に未練があるわけじゃない、と思う。実際、結婚するという話を聞いたことも、写真が届くまですっかり忘れていたのだ。――そりゃまあ、自分よりいい男を捕まえた(と彼女が思っている)のか、と思うと多少面白くないものを感じるが。だがそれならそれで、幸せであればいいと思う。写真の裏のメッセージは、昨夜は皮肉とも感じられたが、あれも彼女の本心だろう。自分も今そう思っているのだから。彼女に対するわだかまりはもう残っていない。少なくとも俺の方には。それは泉田の本心だった。
 だが。――さっきの涼子の声が耳に蘇る。

 今日一日ずっとボーっとしてたでしょ。

 涼子に対して、他人に関心がないように見えて、実はものすごい観察眼の持ち主だな、と思うことがある。勿論彼自身、ポーカーフェイスが上手いとはとても言い切れないが。その指摘をされたとき、後ろめたい気分になったのは何故だろう。
 確かに今日は、いまひとつ仕事に身が入らなかった。あのエアメールのせいだと言えないこともない。だが頭を占めていたのはウェディングドレスの彼女ではなく、その前――彼女がシドニーに旅立つ前に交わした会話のことだった。
 昨晩と同じようにネクタイだけはずし、ベッドの上に仰向けに倒れこむ。その重みにベッドがきしむ。――毎日、帰宅するたびにこれを繰り返す。パターン化された生活。そんな中にふと現われた亡霊のような過去。彼は溜息をつき、強く目を閉じた。

 ――先に諦めたのはどっちだったか。

 とんでもない失言で彼女を怒らせてしまったことはすぐ後悔した。心配していたんだ、と素直に言えば良かったのに。だが、その前からも彼が何度か約束を反故にしていたことも手伝って、彼女は機嫌を直してはくれなかった。そのまま連絡が途絶えた。こちらから電話をしても、彼女が出ることはなくなった。途切れない呼び出し音の中に、何かが壊れていく音も混じって聞こえるような気がしていた。
 彼女からやっと電話があったのは、そんな状態が三ヶ月も続いた頃だっただろうか。

 仕事でシドニーに行くことになったの。

 とっさに声を失った。呼吸を落ち着けてからようやく、いつ頃発つのか、期間はどのくらいかと尋ねた。最低でも三年ほどの長期出張だと聞き、戸惑った。――どうしてこんな電話をしてきたのだろう。暗に引き止めて欲しいということなのだろうか。恐らく引き止めなければ、もう彼女とやり直す機会はなくなってしまうと思い、行くな、と喉元まで出かかった。だがそのとき、以前彼女が話していたのを思い出した。
 ――いつか、海外で仕事をしたいの。
 彼女にとっては夢を叶えるチャンスだ、邪魔することはできないと思った。彼は目を閉じ、呼吸を整え、彼女に告げた。

 ………元気で。

 先に手を放したのは彼の方だった。だが、あのとき他にどんな方法があっただろう。あの電話よりも以前に、もう壊れてしまっていたのに。
 第一、と彼は苦笑混じりに思い出す。付き合っていた頃から、彼女が海外で仕事をしたがっていたことは知っていた。それを叶えるために、彼女が資金を貯めていたことも、英会話に通っていたことも。――いずれ離れて行く人だったのだ。どうして、隣にいるのが当たり前だなんて思っていたのだろう。
 ふと、涼子のことが頭をよぎった。隣にいるのが当たり前、か。その連想で涼子を思い浮かべてしまう自分に驚く。彼女は恋人ではない、上司だ。確かに、今一番近くにいる女性であることに変わりはないが。
 もし他人に、涼子を女性としてどう思っているか、と聞かれたら吹き出してしまうだろう、と泉田は思っている。確かに容姿はこの上なく美しいし、頭脳明晰で行動的、警察官としても優秀で才能に溢れた人ではあるけれど、自己中心的でわがままで、気性が激しい。仕事を離れてプライベートでも彼女と付き合うことになったら、こっちは身体がいくつあっても足りやしないよ、と答えるだろう。
 だが一方で、何かと圧力を受けやすい警察という階級社会にあって、権力におもねることなく堂々と自分の主義を貫いてしまう彼女に、抗いがたい魅力を感じているのは事実だ。そして、その彼女がどういうわけか自分に強い信頼を抱いてくれていることを、何となく誇らしく感じることも(もっとも、そのせいで彼は彼女とともに何度か怪事件に巻き込まれているのだが)。それから――今夜のように仕事を離れて二人でいるときの彼女の表情。仕事をしているときの、鋭さと活力に溢れた美しさとはまた別の、肩の力の抜けた柔らかな雰囲気。――それにもまた魅力を感じていることも。
 そんな彼女とともに働く毎日は、それなりに充実していると言えなくもない。たまに非常識な事件にぶつかることはあるけれども。だが、恐らくそう長いことではないだろう、と泉田は考えた。彼女の今の階級は警視だが、キャリアであるから二、三年もすれば昇進する。そうなれば、現在のように現場に出てくることはなくなる。彼女のことだから無理矢理出てくるかもしれないが、まあ間違いなく今よりもその頻度は格段に下がるだろう。昇進は必ずしも行動の自由を意味しない。むしろその逆の場合が多い。
 何にせよ、そうなれば彼と彼女のつながりは消える。今のように、毎日顔を合わせることもなくなる。彼女とともに仕事をすることも、時々食事に付き合わされることも。――その認識は鈍い痛みを伴って訪れた。退庁前に参事官室でさとみが言った言葉を思い出す。

 泉田警部補って、警視がここにいらっしゃらないと必ず「警視は?」って聞くんですよ。

 いずれ離れていく人、か。どうして俺の側にいるのはそんな女ばかりなんだろう。苦い笑みが口元に広がるのを感じた。