slow love/act2

 涼子は食事の手を止め、泉田をじっと見つめた。食べながら何か考え込んでいるらしく、彼は彼女の視線に気付かない。何を考えているのか興味があったが声をかけることはせず、そのまま彼に視線を注ぐ。声には出さずゆっくりと数を数える。どのくらいで気付くかしら。だけどこうして無防備な彼を見るのも楽しい。キリリとした眉、穏やかな瞳。彼自身はそんなに意識してはいないようだけど、とてもハンサムだと思う。二人で歩いているとき向けられる視線は、決してあたしだけに向けられたものではない、と彼女は考えている。
 9まで数えたところで彼が顔をあげたので、視線がぶつかった。彼女がじっと見つめていたことに気付いてやや驚いたようだ。
「何ですか?」
「何でもないわ」
 楽しげに肩を揺らして笑う涼子を泉田が訝しげに見つめる。ウェイターが冷水のピッチャーを持って来た。想像以上に辛い料理に辟易していたらしい泉田がグラスに水を注いでもらう。
 泉田が食べ終えるのを待って会計を済ませ、外へ出る。店に来るときと同じように腕を組もうとすると、彼の腕がわずかに強張った。思わず彼の顔を見上げる。だがちょうど走ってきた車のヘッドライトが逆光になり、彼の表情は分からなかった。涼子は気にとめないふりをして腕を絡めた。彼は拒まなかった。
 さっきの彼の緊張を照れだと感じ、何よ今更、とやや不機嫌になったが、その感覚自体が考えてみると何だか奇妙だと気付き、彼女はこっそり苦笑した。考えてみれば、二人の関係を語る言葉は、上司と部下という職場でのつながりを示すものしかない。そこを離れれば、つながりは何も無くなってしまう。腕を組むのが自然に感じられるほど近くにいるのに。
 そこまで考えてすぐに、そうじゃない、と否定する。他に何もつながりがないから腕を組むんだわ。絡めた右腕に感じる、スーツ越しの彼の温もり。引き締まった硬い腕。あたしのものになればいいのに、と願いながら。
 いつからそう願うようになったのだろうか。彼と出会ったのは警察庁に入って間もなくのことだが、出会ってすぐではなかったように思う。第一、その頃彼には付き合っている女性がいる、と聞いていたから。一度、自宅に呼んで手料理を振舞ったことがあるけど、そのときもそれほど意識していたわけではなかった(そういえばあのときに、あたしには天才的に料理の才能がないことを思い知ったんだったわ、と彼女は苦々しく思い出した)。
 その後二年間のフランス滞在を終えて日本に戻ってきたとき、彼が恋人と別れたと聞いて嬉しさを感じたことに、彼女は自分でも驚いていた。ことさら他人の不幸を願ったことはなく(蜜の味だとは思っているけれど)、彼を気遣う気持ちもないわけでもなかったが、チャンスだという気持ちの方が強かった。帰国後用意された刑事部参事官のポストについたとき、彼を直属の部下に指名した経緯には、彼の有能さの他にこうした事情が絡んでいることは否めない。勿論、彼は知るはずもないことだけど。……それが、半年以上前の話。
 それなのに、と彼女は忌々しく考える。いまだに他に何のつながりもないというのはどういうことかしら。彼がその手のことに恐ろしく鈍感だということを差し引いても、ちょっと時間が掛かりすぎている。だがともかく、立場上は職場だけの関係とは言っても、実際にはこうして二人で食事に出かけることもあるし、恋人のように腕を組むことも彼は拒まない。異性としてどう思っているかはわからないが、少なくとも彼が彼女に対してある程度の好意を持ってくれていることは感じられる。今の二人の関係も、不満は色々あるが概ね悪くはない、と彼女は感じていた。
 だが突然、ある可能性に気付いて彼女は愕然とした。

 ――あたしは、実はとんでもなく臆病な人間なんじゃないか?

 絡めた腕に無意識のうちに力を入れていたらしく、泉田が涼子の顔を覗きこんだ。どうかしましたか、という気遣わしげな声に、何でもない、と平静を装って答える。気がつくと、彼女のマンションの近くまで来ていた。絡めた腕をほどく。彼の温もりが消える。
「ありがと。ここでいいわ」
「本当に大丈夫ですか?疲れてらっしゃるんじゃないですか」
 あたしはよっぽど様子が変だったらしい、と彼女は苦笑した。彼にこんなに気遣ってもらったことがあったかしら?
「大丈夫だってば。……君こそ疲れてるんじゃない?今日一日ずっとボーっとしてたでしょ」
 彼が驚いた表情を浮かべた。彼女は微笑んでみせる。気付いてないと思ってた?
「さっさと帰って、ゆっくり休む!明日も仕事はあるんだからね」
 そう言い残すと、踵を返して歩き出す。背後で「それじゃ、おやすみなさい」という彼の声に振り向き、右手を軽くあげて応えた。平静を装っていたが、心臓が激しく高鳴っていた。



 マンションの自分の部屋に戻り、バッグやジャケットを乱暴に放り出す。浴室へ行き、熱いシャワーを浴びる。全身を丹念に洗い流しながら、彼女は先程の考えを反芻していた。
 ――本当は、とてもたやすいことだ。彼に想いを告げればそれで済む。そうすれば今のような、言ってみれば中途半端な状態は終わる。彼が彼女を受け入れればそれでいいし、恐らく拒絶されても、彼女は割り切って職場での関係を続けていけるつもりだ。どうして自分はそうしないのだろう?
 答えはわかりきっている。――もし拒絶されたら、たとえ割り切れると思っていても、ショックは大きいに違いない。それを考えると怯んでしまうのを感じる。傷つくのを恐れる臆病な女。決して認めたくはないが、事実かもしれないと涼子は自嘲的に考えた。
 彼との今の関係を壊したくない。たとえ、それが中途半端な危ういものだったとしても。
 シャワーを止め、浴室から出る。バスローブを羽織り、髪は軽く拭くだけにしてキッチンへ向かう。ほとんど使うことのないキッチンだが、冷蔵庫だけは一般家庭の倍以上の容量がある。もっとも食材はほとんど入っておらず、飲み物やデザートを冷やすのが主な用途だ。彼女は少し悩んでから缶ビールを取り出し、栓を開けてそれを一気に飲み干した。火照った身体に冷たいビールが心地よい。
 ベッドに飛び込むと、スプリングが彼女の身体を揺らした。ビールの酔いとスプリング振動を、目を閉じて感じる。――眠りにつく前、いつも考えるのは彼のこと。その日交わした会話、仕草、彼女に向けられた表情。そのひとつひとつを思い出しては幸せな気分になる。こんなささいなことに喜びを感じる自分だとは思わなかった。――だからこそ、彼に受け入れられなかったとき、この幸せな気分も失われてしまうと思い、踏み出せないのだ。こんな臆病な女だということも彼に知られたくない。彼はきっと、あたしのことを強い女だと思っているに違いないから。――彼のあたしへの好意(恋人としてじゃないにせよ)は、そこに理由があるのだと思っているから。
 横になっているうちに眠気がおそってきた。ビールがまわったのだろう。心地よい疲労感が全身を包む。
「泉田クン」
 小さな声で呼んでみる。勿論返事があるはずもない。
「大好きよ」
 呟いてから、その響きの子供っぽさに苦笑する。訪れた睡魔に全身を委ねる。