slow love/act1
封筒の中身は1枚の写真。明るい青空の下で微笑む、ウェディング姿の新郎新婦。
スーツの上着を脱ぎ捨て、ネクタイだけはずし、ベッドの上に仰向けに倒れこむ。その姿勢のまま、写真をぼんやりと眺めた。そういえば、そろそろ結婚するらしい、という話を聞いたような気がする。パリに発つ直前だったか。もう3ヶ月も前だ。
純白のドレスに身を包んだ花嫁の微笑は、かつて彼の隣で見せていたものよりもずっと華やかで幸せそうに見えた。少なくともあの頃より幸せだということか。彼は新郎に淡い嫉妬を感じた。
別れた男にこんな写真を送りつける、その意図について考えてみる。答えは一つしかないと思った。
「ささやかな復讐、ってことかな」
ふと思いたって写真を裏返してみる。懐かしい文字で、短いメッセージが記されていた。
――あなたの人生にも幸多からんことを。
やっぱり復讐だ。彼は苦笑した。表情とは裏腹に、ちくりと小さな棘が刺さったような痛みを覚えた。
「でね、この報告書なんだけど………泉田クン?」
呼びかける声に我に返ると、涼子の顔が目の前にあった。
「あ、すみません。何ですか」
「ちゃんと聞いてた?もー、しっかりしてよ。もう時差ボケは治ってもいい頃よ?」
不機嫌そうに言いながら、彼の額を軽くはたく。その手を額に添えたまま、もう一方の手は彼女自身の額にあてる。やや唐突な彼女の行動に彼は戸惑った。
「……熱なんかないですよ」
「そうみたいね」
あっさり言って手をはなし、デスクに放り出していた報告書を取り上げて彼に差し出す。
「これ、スペルが二、三ヶ所間違ってるから、それだけ直して出しといて」
「わかりました」
「……それと、美味しいタイ料理の店を見つけたの。今夜どう?」
悪戯っぽく微笑みながら付け足す。料理全般が全く苦手な彼女は、その代わりレストラン情報に精通していて、その幅は泉田の給料ではとても入れないような高級レストランからタクシードライバー御用達のラーメン屋までと、とんでもなく幅広い。だが、彼女が彼を誘う店はたいてい値段もそこそこの店に限られている。
「タイ料理……ですか。あまり食べたことないんですが」
「辛いの別に苦手じゃないでしょ?大丈夫よ。じゃあ決まりね」
彼の返事も聞かずさっさと決めてしまうと、彼女は「あとでね」と右手をあげて歩き去った。その後ろ姿を見送りながら、しょうがないな、と彼は苦笑を浮かべた。
報告書を提出して戻ってくると、参事官室に涼子の姿はなかった。
「薬師寺警視は?」
貝塚さとみ巡査に尋ねると、さとみは「ほらね?」と笑って参事官室のメンバーを振り返った。訝しく思う間もなく、すぐに泉田に向き直って答える。
「警視は先に出て待ってる、っておっしゃってましたよ」
「ありがとう。……ところで何の話をしてたんだ?」
泉田の問いに、さとみは内緒話をする少女のような笑みを向けて答えた。
「ふふ。今ね、みんなで話してたんですよぉ。泉田警部補って、警視が参事官室にいらっしゃらないと必ず『警視は?』って聞くんですよ、って」
「……な、何言ってるんだ、そんなこと……」
「今だってそうだったじゃないですかぁ」
思いがけない指摘に動揺した泉田を楽しげに見やって、さとみはさらに付け足した。
「薬師寺警視もね、泉田警部補がいらっしゃらないと必ず『泉田クンは?』って聞くんですよぉ。他の人のときは聞きませんけど」
「……つまらない話なんかしてないで、仕事終わったらさっさと帰りなさいって」
無理矢理話題を打ちきって、椅子に掛けた上着を取る。「つまんなくないけどなぁ」と呟いていたさとみが、参事官室を足早に出て行く泉田の背中に声を投げかける。
「頑張ってくださいねっ!」
「頑張ることなんか何もない!」
一階のロビーで待っていた涼子が、歩み寄ってきた泉田を見つけ「遅い」と唇を尖らせた。それから訝しげな表情を浮かべる。
「顔が赤いわよ。やっぱり熱があるんじゃない?」
「いえ、大丈夫です。行きましょう」
参事官室での会話については語らないことにした。涼子はなおも訝しげだったが、「ま、いっか」と呟き、泉田の左腕に右腕を絡めて歩き出した。
二人で歩くとき、その間ずっと話題が尽きないこともあれば、ずっと黙っていることもある。どちらになるかは涼子の気分次第だ。ただ、喋っているからと言って機嫌がいいとは限らないし、また黙っているからと言って不機嫌だというわけでもない。もっとも、会話の有無ではかるまでもなく、彼女の感情は表情にストレートにあらわれるので、気分屋で気まぐれではあってもわかりやすい、というのが彼女に対する彼の印象だ。
右腕を絡めたまま涼子が今喋っているのは、昨日見たというホラー映画の内容だ。これから食事に行くというときに適切な話題だろうか、と考えながら相槌を打つ。つまんない映画だったわ、と言うわりに表情は明るい。その彼女を、すれ違う人が皆振り返って見ている。その視線にこめられた憧憬や嫉妬を彼女は気にもとめない。もともと視線を浴びることには慣れているのだろうけれど。
この状況にもだいぶ慣れたな、と泉田は思う。食事に誘われ、涼子と二人で歩く。左腕に彼女の温度。集中する視線。何もかもが珍しいことではなくなった。隣に彼女がいることが当たり前のように感じられてしまう。
何の脈絡もなく、昨夜のエアメールを思い出す。隣にいるのが当たり前。あの時もそう思っていた。その感覚にどこか惰性が潜んでいたかもしれない。だから失ってしまったのだろうか。
「ここよ」
涼子の声に足を止める。広くはないが落ち着いた店で、平日の夜ということもあって混んではいなかった。店の外にあるメニューを涼子が真剣に見つめている。
「これどう?『シェフのオススメ・タイ風激辛フルコース』試してみてよ」
「ご自分で召し上がったらいいでしょう。フルコース食べられるような経済状態じゃないんですよ」
「ヤダ。せっかく毒見役がいるのに、なんで自分で試さなきゃいけないのよ」
涼子がむくれて見せたので、泉田は思わず吹き出してしまった。店のドアを開く。ウェイターが出てきて、彼らを席へ案内した。