サムライウィメン/act4
最後の一人の顔に強烈な肘鉄を叩き込み、地面に這わせてしまうと、由紀子は乱れた呼吸を整えながら手にしたモップに視線を落とした。乱闘の最中に柄が半分から折れてしまっている。無断で借りたうえにこれだわ。あとで持ち主に謝らなくちゃ。
涼子の方は、呼吸も乱れておらず平然とした様子だった。体力や運動能力に自分とそれほど差があるとは思わないが、場数が違うということなのだろう、と由紀子は思った。――こんなことで場数を踏むことが自慢になるとは思えないが、どんなことであれ彼女との間に差がついてしまうことは何だか悔しい。この感情ばかりは理性ではどうしようもない。苛立つ一方で、そんな自分がどこか可笑しくもあった。
倒れた男の胸ポケットを探って涼子が携帯電話を取り出した。着信履歴に同級生の名前を見つけ、意地の悪い笑みをひらめかせる。
「証拠品押収、っと。……わざわざ逮捕を早めるなんて、何考えてんのかしらね。ま、手間は省けたけど」
呟きながら、携帯電話をハンカチで包んでコートのポケットにしまい込む。横目でその様子をちらりと見やり、溜息をついてから由紀子は口を開いた。
「まったく……無事だったからいいようなものの、わざわざこんなところに誘い込むなんて。あなたってどうしてこう、やり方が乱暴なのかしら」
由紀子の口調に、涼子は明らかに気分を害したようだった。眉間に皺を寄せて由紀子を睨むと、わざとらしく溜息をついて応じる。
「……ほら始まった。あんたこそどうしてこう、いつもいつも説教ばっかりしたがるのよ。さっきだって結構ノリノリでこいつら叩きのめしてたじゃないの。楽しんだくせに常識家ぶらないでよ」
「誰がノリノリよ! 大体わたしがいなかったら、あなたどうなってたと思うの!?」
「何よ恩着せがましく! あんたがいなかったらどうだっての!? 見くびらないでよ、あんなやつら五人でも十人でも小指の先で……」
声を荒げかけた涼子の表情が一瞬強張った。それを訝しく思う間もなく、
「きゃ……!」
いつものように束ねて背中に垂らしていた髪を掴まれ、力任せに後ろへ引っ張られた。すぐに冷たいものが首筋に触れる。耳元で獣じみた声がした。
「……携帯をこっちへよこせ」
――暴漢の一人だ。顔を動かすことはできないが、確認するまでもない。完全に戦闘能力を奪ったわけではなかったのだ。由紀子は唇を噛んだ。油断してた……!
「早くしろ、この女を殺すぞ」
由紀子の白い首筋にナイフを当てながら、男は涼子を恫喝した。凄味のある声、といってもよかったかもしれない。だが涼子は、動じる様子もなく肩をすくめて応えた。
「……別にどうだっていいわよ、そんな奴。好きにしたら」
「……な……?」
涼子の返答は男にとっては予定外のものだったらしかった。呆気にとられ、由紀子の髪を掴む力がわずかに緩んだ。その隙を逃さず、涼子がハンドバッグを男の顔めがけて投げつけた。
「がっ!」
バッグの角が男の眉間に命中し、由紀子の髪を掴んでいた手が力を失う。男の手から逃れた由紀子は、その鳩尾に渾身の力を込めて肘打ちを食らわせた。こんな相手に容赦は要らない。さらに間合いを詰めた涼子が急所に蹴りを叩きこみ、男は地面に崩れ落ちた。今度こそ戦闘能力を失ったことを確認して、由紀子は大きく息を吐き出した。髪を軽く整えながら、涼子に視線を向ける。
「……人質になっても助けない、って言わなかった?」
由紀子が問うと、涼子は不機嫌そうに眉を寄せ、地面に落ちたバッグを拾いながらぶっきらぼうに答えた。
「勘違いしないでよ。助けたんじゃなくて、借りを返したの。恨みがましく毎晩枕元に立たれたりしてもウザイし」
「借り?」
涼子の言葉の意味を一瞬掴みそこねたが、由紀子が格闘に加わったときのことと思い当たった。一応、借りだと思っていたのか。
「……それに、あんたを見捨てるとあとで泉田クンに怒られそうだし。最近口うるさくてやだわ、誰に似たんだか」
「……泉田警部補が?」
ふいに飛び出した名前に思わず心臓が跳ね上がる。涼子はますます不機嫌そうに由紀子を睨みつけた。
「言っとくけど、あいつは単に心配性なだけだからね。あんたが要領悪いってだけなんだから」
それだけ言うと、涼子はぷいと横を向き、仏頂面のまま自分の携帯電話を取り出してどこかへ電話を掛け始めた。ボタンを押す動作が鬱憤をぶつけるかのように荒々しく、どこか子供っぽさを感じさせる。由紀子は意外な思いでその様子を見つめた。
――わたしだけかと思っていた。いつもいつも、わたしだけが一方的に苛立って、嫉妬して、悔しがってばかりいるのか、と。
だって、事態はいつだって、結局あなたの思う通りに動くじゃない。わたしのやり方とはまるで正反対の方法で、あなたは全てを手に入れる。事件の真相も、勝利も。――そしてきっと、いずれあの人も。
それなのに、何故。
あなたがわたしにそんな感情を向けるの?
「あ、泉田クン? 連絡遅れてごめんね。ちょっとトラブルがあったけど予定通りよ。……うん、そう。場所は……」
涼子の声がふいに由紀子を我に返らせた。
「ちょっと待って! 予定通りってどういうこと!?」
電話を切った涼子に慌てて問い掛ける。振り向いた涼子が、しまったと言いたげな表情を浮かべた。
「あなた、まさか最初からこのつもりだったの!? 信じられない、何考えてるのよ!! 捜査責任者が囮になるなんて!!」
「うるさいなあ、もう済んだことだしいいじゃない」
「良くないわよ! それに、こういうことするならするで、どうして近くに捜査員を配置しておかないのよ! 危ないじゃないの! あなた、捜査にかこつけて暴れたかっただけなんじゃないの!?」
「じゃあ聞くけど、危ないと思ったんならどうしてあんたが通報しなかったのよ。あんたこそ暴れたかったんじゃないの? やあね、欲求不満って」
「誰が欲求不満よ、あなたと一緒にしないで!!」
――力を合わせて暴漢を撃退したはずの二人の口論は、五分後にパトカーが駆け付けるまで続いた。