サムライウィメン/act3

 男は辺りを伺いながら、携帯電話でしきりに何かを話している。声が聞き取りにくいが、あまり近付いては怪しまれるので、由紀子は少し離れた位置からその様子を見ていた。涼子を捜査から外すために"プロ"を雇う、と言っていたが、早速連絡をとっているのだろうか。よほどのことがない限り、涼子がやすやすと敗れることはないだろうが、万にひとつということもある。
 泉田に連絡をとるべきだろうか、と由紀子は考えた。彼ならば事情も話しやすいし、信頼もおける。――だがすぐに、彼の連絡先を知らなかったことを思い出した。他人の部下であり、所属も異なる。そんな相手の連絡先など知っていても仕方ない。そう思っていたこともあるし、そもそもこれまでに聞く機会がなかった。

 ――正確には、機会があっても聞けなかったのだけど。

 由紀子は軽く首を振って、目の前の事態とは関係ない雑念を追い払った。とにかく、彼に連絡がとれないなら別の方法を考えるしかない。
 男が電話を切り、用心深く周囲を見回しながら歩き出す。由紀子の前を通り過ぎたが、彼女に気付いた様子はなかった。警戒しているのは涼子だけ、ということか。
 ――それなら、他にも方法はある。
 由紀子は少し距離を置いて、慎重に男を追った。会場を出て、再びロビーに向かうと、男は先程と同じソファに腰を下ろし、せわしなく煙草を吸い始めた。このホテルは全館禁煙よ。大きな柱の陰からその様子を見ながら内心でそっと呼び掛ける。灰皿がないことにすぐに気付いて煙草を揉み消すと、男は苛立った様子でしきりに時計を気にしだした。
 先程別れたあと、涼子の姿が見当たらないことに由紀子は気づいた。狙われてるというのに、いったいどこへ行ったのかしら。もう帰ったのなら、それでいいのだけど……。
 そこまで考えて、ふいに由紀子は苛立った。これじゃわたしが彼女のことを心配してるみたいじゃない。馬鹿馬鹿しい。
 彼女なら自分の身は自分でなんとかできるだろうし、おそらく既に泉田警部補に連絡をとってるはず。わたしはただ、彼らが彼女に危害を加えようとしている証拠を掴めばいい。

 ロビーの男を見張り始めてから二十分ほど経過した。ふいに男が玄関の方に顔を向けた。その視線を追い掛け、由紀子は男の方にゆっくりと近付いてくる人物の姿をとらえた。肩幅が広く、厚みのある体格。スーツを着てはいるが、目つきや動作に滲み出る荒々しさ――乱暴さ、と言ってもいいかもしれない――が、洗練された雰囲気のロビーで、その人物の異質さを浮き彫りにしていた。由紀子は瞬時に悟った。
 ――あれが"プロ"だ。
 男が立ち上がって何か話しかける。先程と同様、周囲を気にしながら。しかし、どうみてもホテルの雰囲気とは異なるその客はすでに充分目立ってしまっており、男の配慮は徒労に終わりそうだった。様子をうかがっていた彼女の視界に、ふいにロビーを横切って玄関へ歩いて行く後ろ姿が飛び込んできた。

 ――彼らの標的、涼子の後ろ姿が。

 由紀子は息を呑んだ。男が"プロ"に目配せし、その場を離れる。"プロ"は携帯電話を取り出してどこかへ電話をかけながら、涼子のあとをゆっくりと歩き出した。尾行に気づいているのか否か、涼子の足取りは余裕に満ちている。

 ――これから実行する気なの!?

 さらに距離を置いて後を追いながら、由紀子はごくりと唾を飲みこんだ。彼らが相談しているのを聞いたのは、ほんの1時間ほど前のことだ。実行するとしても、今夜すぐではなくもう少し後になると思っていたのに。――つまり、それだけ彼らが追い詰められていると言うことか。捜査はもう大詰めに入っているのだ。
 ホテルの外に出ると、ひんやりとした秋の空気が頬に触れた。涼子が泉田を待たせているかと思ったのだが、そうではなかった。タクシーを拾うでもなく、大通りを一人で駅の方向へ歩き始める。
 まさか、涼子は泉田に連絡をとってないのだろうか。由紀子の胸を不安がかすめた。いくら涼子が格闘慣れしてるといっても、あまりに無防備ではないか。相手がこの男一人とは思えないのに。
 ふいに、涼子が駅への道をそれ、細い脇道に入りこんだ。シャッターの閉じられた小さな店が並ぶその通りは、夜にはほとんど人通りがない。――この男にとっては、これほど都合のいい場所はないはずだ。かならずここで仕掛けるはず。由紀子は素早くあたりを見回し、ひとつの店の外壁に立てかけられていたモップを手にとって握り締めた。
 表通りを歩いていた時は用心していた男だが、裏通りに入ると、途端に獰猛な空気を剥き出しにし始めた。足元に転がってきた空き缶をわざと蹴飛ばす。暗い路地にその音が反響し、涼子がぴたりと足を止めた。由紀子は咄嗟に店の入り口の陰に身を潜めた。
 振り向いた涼子の表情には、驚きも恐怖もなかった。むしろ、スリルを楽しむように瞳を輝かせて、尾行してきた男を正面から見据える。――それは、彼女が完全に戦闘態勢を整えたことを意味していることを、由紀子は知っていた。彼女は尾行されていることを知っていて、わざとここへ誘い込んだのだ。
「何か用? 女の後をついてまわるだけの男は嫌われるわよ」
 からかい混じりの涼子の質問に答えず、男は指を鳴らした。それを合図に、反対側の路地からも五、六人の影が飛び出してきて、涼子の周囲を取り囲む。涼子は特に動じた様子も無く、軽くため息をついた。
「……こんだけ男がいて、美男子が一人もいないってどういうことよ」
 あたしってカワイソ。嘲弄というより本気で嘆いているような口調にかえって怒気を刺激され、男の一人が殴りかかってきた。それを軽くかわし、バランスを崩したところで鳩尾に肘を叩きこむ。地面に倒れこんだ男に構わず二人目に向き直ると、その急所に蹴りを食らわせる。が、背後からあらわれた三人目が涼子の腕を掴んで捩りあげようとした。由紀子は飛び出し、振り向いた三人目の腹にモップを打ちこんだ。鮮やかな胴。

「……あんた、いたの!?」

 由紀子の存在に、涼子は本気で驚いたようだった。目を丸くする彼女に向かって由紀子は軽く微笑んでみせる。こんな状況だが、いつも余裕のある涼子を驚かせることができたという事実は、由紀子を満足させた。
「気づかれなかったなら、わたしの尾行もまずくはないわね」
 呆気にとられていた涼子だが、掴みかかってきた男を張り飛ばすついでに、すぐに憎まれ口をたたいた。
「存在感が希薄なだけでしょ。足引っ張らないでよ、人質になったって助けないわよ」
「ご心配なく」
 涼子と背中合わせに立ち、改めてモップを竹刀代わりに構える。

 ――結構いいコンビだと思うんだけどねえ、君達。

 先程の恩師の言葉が突然思い出された。
 先生、冗談じゃありませんわ。いいコンビだなんて。この人といるといつもトラブルに巻き込まれてしまうんです。こんな人とコンビ組まされるなんて、わたしはまっぴらゴメンです。泉田警部補もほんと苦労が絶えないこと。でもそれ以上に物好きよね!
 しかし、首を突っ込んでしまった以上は、彼女と協力するしかない。覚悟を決めて、由紀子はモップを握る手に力を込めた。