サムライウィメン/act2
化粧を軽く直して、ホテルを出ようとしていた由紀子の耳が、ふいに微かなざわめきをとらえた。週末ということもあって、ホテルのロビーには人が溢れている。会話などそこかしこで交わされているが、由紀子が足を止めたのは、そのざわめきの中によく知った人物の名前を聞いたからであり、そして――その名を口にした声に、小さいながらもはっきりとした悪意を感じ取ったからだった。
何気なさを装ってロビーを見回し、由紀子はその隅のテーブルに陣取った五人ほどの集団に目をとめた。そして、彼らが先程パーティ会場で由紀子の視線に気づいて顔を逸らせた者達だと気づいた。先程といい、あたりを必要以上に気にしているのが気になって、由紀子はそっと彼らに近づき、その近くのソファに腰を下ろした。ちょうど植え込みの影になっており、彼らからは由紀子の姿は見えない。彼女は注意深く彼らの会話に耳を傾けた。
「……それにしても、薬師寺がこんなところに来るなんてな」
由紀子の注意を引いた名前がいきなり飛び出したので、彼女は思わず身体を強張らせた。この場に薬師寺と言う姓を持つ人間がどれほどいるかは知らないが、先程の様子から考えても、彼らが話しているのは涼子のことに違いない。どこか怯えた調子の声が続いた。
「あいつは同窓会なんか来ないと思っていたのに……やっぱり、あの件についてなのかな」
「それはそうだろう。捜査の指揮をとっているんだから」
「だとしたら、こんな場所で集まってるのを見られたらまずいんじゃないか」
「今更言っても仕方ないだろ。それに、警察はもうとっくに俺達にも目をつけてるさ」
彼らの会話の内容に、由紀子は思わず両手を握り締めていた。
涼子が現在、複数の企業と議員が関係する汚職事件の捜査を指揮していることは由紀子も知っていた。警察官としての人間性には問題がありすぎる彼女だが、能力については疑う余地はない。良きにつけ悪しきにつけ何かと目立つ存在である彼女を責任者に据えたと言うことは、警察はこの事件に関して妥協を許すつもりはない、ということなのだろうと由紀子は思った。――あるいは「どうにでもなれ」かも知れないが。
今の会話から考えると、彼らはその汚職に関わった企業や議員の関係者――それもかなり密接に関わっている――ということか。由紀子の全身に緊張が走る。握り締めた両手に視線を落としながら、彼女はさらに彼らの会話に意識を集中した。
「先生に頼んで何とかしてもらえないのか?」
怯えた声の男がそう提案した。議員に頼んで警察に圧力をかけようというのだろうか。だが、その提案はすぐに却下された。
「とっくにやったさ。……けど、珍しく警察幹部がうんと言わないそうなんだ。どうも、あの女に何か弱みでもあるらしい」
「へ……?」
呆気にとられた声がする。由紀子も少し馬鹿馬鹿しい気分になった。他人の弱みを掴んで脅しをかけている涼子も涼子だが、そもそもそんな材料をもっている幹部もどうかしている。そのおかげで圧力も受けずに捜査できるわけだが、それで全て良しとする気にも勿論なれなかった。
「それじゃ……もう実力行使しかないんじゃないか」
何となく気が抜けてしまった瞬間に飛び込んできた台詞に、由紀子は耳を疑った。ひそめた声にこめられた響き同様に陰湿な内容に、彼らの間にも同様が広がるのが分かった。
「実力行使って……まさか」
「先生の力も使えないんだ、こうなったら物理的にご退場頂くしかないだろう。このままでは俺達みんな逮捕されちまうぞ」
――なんてことを……!!
膝の上で、赤くなるほど強く握り締められた拳がぶるぶると震えた。恐怖ではなく、怒りのせいで。全身を焼き尽くすような激しい感情に眩暈がするほどだ。
同窓会も兼ねているはずのこんな場で、かつての同級生、しかも(いくら破天荒だとは言え)女性に危害を加える相談をするなんて。こんなこと、絶対に許してはいけない!
涼子に対する個人的な感情はこの際問題ではなかった。目の前で犯罪の相談が行われているのを見過ごしたとあっては、彼女は自分自身を許すことは出来ないだろう。
「……けど、実力つってもどうするんだ? 俺達じゃあの女をどうこうするのは無理だぞ」
ためらいを含んだ声が問いかけ、軽蔑したような響きの声がそれに答えた。
「俺達がやったんじゃアシがつくだろ。プロに任せんだよ。アテはある、心配すんな」
――もう黙っていられない。由紀子が立ち上がろうとしたそのとき、からかい混じりの女の声が投げ掛けられた。
「話が弾んでるみたいね。よかったらあたしも混ぜてくれない?」
彼らが凍りついたのがわかった。声の方に視線を向けると、美しい顔に悠然とした微笑を浮かべて、彼らの話題の中心人物がそこに立っていた。
「あ、いや、たいしたことじゃないよ。昨日の野球の結果をね」
「なんだ、そうなの? あたしはてっきり、みんなで一緒にやってる"仕事"のことだとばかり思ってたわ。日本シリーズもメジャーもとっくに終わったしね」
痛烈な皮肉に、彼らが再び黙り込んでしまう。涼子の口元は笑みを浮かべているが、その視線は刃のように鋭かった。適当な理由をつけてあたふたとその場をあとにする彼らの背中に、涼子がとどめの一言を投げつけた。
「近いうちに、ゆっくりお話しましょうね」
――取調室でね。言葉の続きをそう予測した途端、涼子がくるりと振り向いて由紀子を睨みつけた。
「かくれんぼは終わりよ。――あんたに気が付かないんじゃ、あいつらもうダメね」
「……そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! あの人達、あなたに危害を加える相談をしてたのよ!?」
「そんなことお見通しだってば。ぎゃんぎゃん喚かないでよ」
うるさげに髪をかきあげ、涼子は軽く息をついた。人を小馬鹿にしたような表情ですら魅力的に見えるのも、由紀子には憎たらしい。
「だいたい、こんなところでも群れてなきゃ不安でしょうがないなんて奴ら、あたしの敵じゃないわ」
「そうかしら。一応、用心に越したことはないんじゃない」
「余計なお世話よ。心配したフリして恩を売ろうったってそうはいかないわよ」
「なんですって!?」
涼子の台詞に、由紀子の頬がさっと紅潮した。
「そんな考え方しかできないなんてお気の毒だこと。もういいわ、勝手にしたら!?」
「あんたの許可なんかなくたって勝手にするわよ。それじゃ、ごきげんよう」
ふん、と軽く鼻を鳴らし、優雅に身を翻して歩き去って行く後ろ姿を睨みつけながら、由紀子は再び両手を強く握り締めた。
――心配してるわけじゃない。誰が心配なんかするものですか。
わたしはただ、犯罪を見過ごせないだけよ。
涼子の態度は気に入らないが、放ってはおけない。由紀子も踵を返し、パーティ会場へ向かった。彼らのリーダー格らしい男がそこへ戻ったのはすでに確認していた。
――わたしはわたしのやり方で、彼らを止めて見せる。