サムライウィメン/act1

 ――来るんじゃなかったな。
 由紀子は何度目かのため息をついた。

 大学時代の恩師の退官を祝う気持ちがないわけではない。しかし、この会場の空気がどうにも肌に合わない。由紀子の他にも、大学時代の教え子達が一堂に会しているわけだが、一流企業や官公庁で頭角を現し始めている彼らの間には、学生時代のような気の置けない会話はもはや存在していなかった。会場のあちこちで名刺を配り歩く者もいるし、壁際で人目を避けるように話し込んでいる一団もいる。警察官僚になった由紀子も何度かそんな会話に参加させられたためか、パーティが始まってからわずか一時間ですでに疲れ切っていた。
 ――わたしはこんな腹の探り合いに来たんじゃない。ただ、久しぶりに先生に会いたかっただけなのに……。
 何度か口をつけても、いっこうに減らないままグラスの中でぬるくなっていくワインに視線を落とし、もう一度ため息をついたとき、横合いから声を掛けられた。
「相変わらずのしかめっ面ね。早く老けるわよ」
 声の主が誰であるか、確認する必要もなかった。視線を向けずにワインを口に運ぶ。もうとても飲めたものではなかった。さぞ高価なワインだったのだろうが。
 由紀子の反応を涼子は気にとめた様子もなく、青く透き通ったカクテルを喉に流し込んだ。悠然たる態度が由紀子の癇に障る。涼子はあきらかに、不機嫌な由紀子の様子を楽しんでいた。
「能天気な顔よりマシだわ。何の用なの」
「あら怖いわ、室町さんたら。殿方が向こうの隅で怯えてらしてよ」
 涼子が顎でかるく示した先で、テーブルを囲んでいる一団がこちらにちらちらと視線を投げてきているのに由紀子は気づいた。彼女と目が合うと、皆あわてて視線を逸らした。どこかおどおどとした様子が由紀子の神経に引っ掛かる。
「用がないならわたしに構わないで」
「いやよ、面白いもの」
 涼子は艶やかな唇に意地の悪い笑みを浮かべた。ああもう。腹の探り合いもゴメンだけど、この人との会話なんてもっとゴメンだわ。

 それにしても、先程まではしつこいほどに会話に加わるよう誘ってきた同級生達が、涼子と並んだ途端、ぱったりと誘いに来なくなった。同じ警察官僚で、しかも一流企業の社長令嬢。コネを作るだけならこれほどうってつけの相手もいないだろうが、学生時代の彼女を知る者たちは、涼子に声をかける気にはなれないようだった。正しい判断だろうとは思う。
 おかげで疲れるばかりで内容のない会話に加わらなくて済むのは有り難いが、遠巻きに様子をうかがわれているような感じがして、これはこれで落ち着かない。涼子との敵対関係は学生時代からよく知られていたから、その二人が並んでいる様は他人にどう映るだろう、と由紀子は考えていた。

「今日は泉田警部補は一緒じゃないの?」
 ふと思いついて尋ねる。大学の同窓会を兼ねている場にまで部下を引っ張ってくるとは思わないが、以前従兄の結婚式に無理矢理連れてきたことがあるのを思い出した。
 ――わずかに期待をこめた質問だったことは、否定しない。
「泉田クン? 来てないわよ」
「……そう」
 何気なく答えたつもりだったが、声が落胆の色をかすかに帯びていたように感じられて、由紀子はややうろたえた。表情に出さないように努力しながら、さらに言葉を探す。
「ま、あなたたちが一緒だといつも変なことに巻き込まれるものね。たまには平和に過ごさせて頂きたいわ」
「大事なことを忘れてない? あたしたちが変なことに巻き込まれる時って、絶対あんたも一緒にいる時なのよね」
「疫病神はわたしだとでもいいたいの?」
「その通りじゃないの!」
「やあ、二人とも相変わらずだね」
 空気が再び険悪になりかけたとき、場違いに明るい、懐かしい声が耳に飛び込んできた。振り返ると、やや小柄な初老の男性が笑みを浮かべて立っている。今日のパーティの主役で、由紀子や涼子にとっても恩師にあたる人物だった。
「先生、ご無沙汰しています」
 由紀子は深々と頭を下げた。グラスを持ったまま、涼子も会釈する。彼女にしては珍しい敬意表現だ。もっとも、涼子は非常識ではあるが礼儀知らずというわけではないことは由紀子もよく知っていた。――非常識な上に礼儀知らずでは、いくら成績優秀でも官僚はやっていけまい。
 社交辞令の嵐から解放されたばかりの恩師は、穏やかに笑って二人の顔を見比べた。
「二人とも元気でやっているようだね、噂はよく聞いているよ」
「噂、ですか」
 恩師の言葉に、涼子が珍しく苦笑する。二人に関する噂がどんなものかは、想像に難くない。学生時代と変わらず、寄ると触るとところ構わず口論になっているし、由紀子はともかく、涼子は優秀ではあってもかなりの異端児だ。その彼女らに関する噂を「元気でやっているようだね」の一言で片付けるとは、この人も只者ではないな、と由紀子は改めて思った。恩師はのんびりと続けた。
「まあ君達は、学生時代から結構いいコンビだったからねえ」
「……ええ!?」
 思いがけない言葉に、由紀子は思わず大声で聞き返していた。カクテルを口に運んでいた涼子が軽く咳き込む。
「い、いいコンビって」
「誰と誰がですか!?」
「だから君達が。……ゼミでのディベートなんて、他の学生が割りこむ余地もないほど活発だったじゃないか」
 歯に衣着せぬ大舌戦で、いやあ、毎週毎週スリリングだったなあ、と恩師は懐かしむように目を細めた。先生、あれは活発な論戦とは少し違うような気がします……。由紀子は言いかけた言葉を飲み込んだ。変わって口を開いたのは涼子だ。
「先生、誤解ですわ。いいコンビなんて言われては困ります」
「そうかい?」
「だって、あたしのほうがずっと優秀ですもの。比較しては室町さんがかわいそう」
「誰がかわいそうですって!? お気の毒なのはそちらでしょ!?」
 恩師の前ではあるが、思わずいつもの調子で反応してしまう。恩師はもう一度二人の顔を見比べて、「そうかなあ、結構いいコンビだと思うんだけどねえ、君達」と呟いた。ですから、と反論しようとしたところで、別の集団に呼ばれ恩師は「それじゃ」とにこやかに歩み去ってしまった。
 奇妙な脱力感がその場に残った。しばしの沈黙のあと、涼子が苛立たしげに溜息をつきながら由紀子を見やる。
「あんまり近寄んないでよ。あんたと仲良しだなんて思われちゃたまんないわ」
「あなたの方から話しかけてきたんじゃないの!」
 手に持ったままだったワイングラスをテーブルに戻すと、由紀子も涼子を睨みつけた。
「化粧室へ行くから、ついて来ないでよね」
「誰がやるもんですか、そんな中学生みたいなこと。あんたと一緒にしないでよ」
「こっちの台詞だわ!」

 パーティ会場を足早にあとにしながら、由紀子は大きく溜息をついた。
 彼女と話しているといつもこう。わたしばかりペースを狂わされて、むきになってしまう。ああもう、ホントに腹が立つ!
 先生と話すことも出来たし、今日はもう帰ろう。これ以上彼女と関わることなんてない。



 ――この晩、さらに涼子と関わりあう羽目になることを、由紀子はまだ知らない。