無敵のヴィーナス/act4

 薬師寺警視は、答えるように軽く敬礼した。――軽い動作だったけれど、肘から指先までのラインがまっすぐ伸びた、お手本のようにかっこいい敬礼だった。すぐに腕を下ろして、ざっと一同を眺め渡す。わたしに視線を合わせると、ニッと悪戯っぽく笑った。わたしは慌てて口を開いた。
「あ、あの……先程は失礼しました」
 エレベーターで会ったこの人が、わたしの新しい上司だったなんて。顔を知らなかったとはいえ、挨拶もしないで失礼なヤツだと思われてたらどうしよう。非常にばつの悪い気分でわたしは落ちつかなかった。
「あなたが貝塚巡査ね、よろしく。――あたしのことは何て聞いてたの?」
「へ?」
 思いがけない質問にどきりとする。署のオジサンや友達から聞いた噂が脳内を駆け巡った。――い、言えないよぉ。いくらなんでも。
「いいから、正直に答えて」
 あでやかな笑顔なのに、視線が矢のように鋭い。仕方なく、恐る恐る口を開いた。
「えーと……とても優秀な方だと」
「それだけ?」
「……そのー……問題児だと」
 言葉を選んだつもりだけど、これはさすがに正直過ぎたかな。怒られるかと思ったが、彼女は楽しげに笑った。もう一度、一同を見渡して言う。
「ま、いろんな噂聞いてると思うけど。とにかく今日からよろしく」



 運びこまれた荷物だとか書類だとかがまだ片付いてないので、仕事はとにかくそれを片付けることから、ということになって取りあえず初日の挨拶はおしまい。自分のデスクに向かおうとして何気なく視線を向けると、薬師寺警視が泉田警部補の前に立っているのが見えた。
「久しぶり、泉田クン」
「どうも、お久しぶりです」
 ん? 二人は前からの知り合い?
「新人研修のとき以来よね。――あたしと一緒に仕事できて嬉しいでしょ」
「ええ、そりゃあもう非常に」
「言葉と表情が噛み合ってないわよ、この正直者」
 そう言うと、手を伸ばして彼のネクタイを軽く引っ張る。何だか子供っぽい仕草だったが、彼女には不思議と似合っていた。
「ま、これから長い付き合いになりそうだし、楽しくやりましょ」
 ネクタイから手を放してそう言うと、彼女は微笑んでみせた。――先程見せた、あの悪戯っぽい表情によく似ていたけれど、先程よりも幾分やわらかな、素直な笑顔のように見えた。

 ――もしかして。

 いや、もしかしなくても多分そうだと思う。それにしても、こんなに分かりやすく感情を表に出す人だとはちょっと意外。もっと手練手管を駆使して男の人に近づきそうなタイプに見えたんだけど。でも、なんかすっごく可愛い。
 花のような笑顔を向けられた泉田警部補の方は、でも軽く苦笑しただけで、あんまり感銘を受けたようには見えなかった。あの笑顔を見てなんとも思わないなんて、ちょっと信じられない。……もしかして、実はすごく鈍かったりするのかなあ。これはまた意外――でもないか。所轄に応援に来た時の、女の子達に押され気味だった様子を思い出して、なんとなく納得した。カッコイイのに、女の子慣れはしてないんだ。
 とりあえず、わたしは所轄の友達に心の中で謝っておくことにした。どうみても勝てる見込みがなさそうなので、援護射撃はあてにしないで下さい。ごめん。