夏のまぼろし/side Ryoko

 磨かれたオーク材のフローリングが、夕方の光を反射して飴色にきらめく。
テーブルにかかるタータンチェックのクロスに、アイスティーのグラスに付いた水滴が染みを作る。
彼はまだ来ない。
「あんた達はいつも一緒でいいわね」と床でじゃれあう二匹の看板猫にぼやいたら黒猫はひとつ鳴いてあくびをし、キジトラの方はまるで慰めるみたいに足元に擦り寄ってきた。

 ここのところ事件続きで、彼はほとんど現場に出っ放しだし、あたしは(嫌々ながら)会議やデスクワークで、ほとんど彼と同行できない状態が続いてた。
合間を縫って食事でも、と思ったら直前になってどちらかに呼び出しがかかってドタキャンとか、すれ違いが続くのにウンザリしてた所だったから、夕方で現場の方は一段落しそうだからと珍しく彼の方から誘ってくれたのはそりゃ嬉しかった。現場の仕事は予定通りに終わるとは限らないってことは分かってるけど、それにしたって遅い。
 きっと遅れたお詫びに奢るって言うだろうから、食べたい物考えとこうか。それとも雑貨でも冷やかしてこようかな、と立ち上がりかけたところに声が掛けられた。


「すみません、ここ、よろしいでしょうか?」
よろしいも何も、喫茶スペースのテーブルはこれ一つなんだけど。と見た声の主は高校生位の少年だった。すらっと背が高く、半袖のシャツから程よく日焼けした腕が伸びる。きりっとした顔立ちなのに、温和そうな目をしているせいか柔らかい雰囲気が漂う。ちょっと地味だけどなかなかの男前ねと値踏みしたところで、どことなく彼に似てると気づく。
どうぞ、と笑ってとなりの椅子を勧めると、礼儀正しく一礼してから席についた。

 見計らったようなタイミングで彼にもアイスティーが出され、氷がからんと涼しげな音を立てる。店の雰囲気にはちょっとそぐわない事を自覚しているのか、時折こちらを遠慮がちに見やる。視線が合うと、目を細めてにっこり笑いかけてくれた。やっぱり似てる。
「彼女と待ち合わせ?」からかい半分で声をかけてみたら、愛想良く返事が返ってきた。
「半分当たりです。弟がここでデートの約束してて。」
「あら、偵察?」と聞いてみたら、そんなとこです。とくすくす笑いながら「お姉さんも、彼氏と待ち合わせですか?」と返してきた。そうよ、と答えたら「もしかして彼氏、有名人とかだったりしません?」と意外なことを聞いてきた。
「まさか。ごく普通のひとよ」
「モデルさんかと思ったんで・・・すみません」と照れ笑いした後、思いなおしたように真面目な表情になり、お姉さんみたいなきれいな人なら何か分かるかな、と前置きして相談を持ちかけてきた。
彼が来るまで暇だし、断ってこの子をがっかりさせるのもなんだか後味悪いから「話を聞くだけでも良かったら」と返事したら、「ありがとうございます」と笑って話し始めた。

「・・・弟の彼女、っていうのが、お姉さんみたくすごい美人で、しかもいいとこのお嬢さまだし、大抵の事は完璧にやってのけるわで、その気になればそれこそ有名人でもどっかの御曹司でも片っ端からモノに出来る子なのに、彼女の方から奴に言い寄ったらしくて」
「良かったじゃないの、素敵な彼女ができて」
「それが・・・うちは彼女のとこと違って根っからの庶民だし、弟にしたって見た目や性格はおいといても、鈍感で不器用だから女の子が喜ぶような細やかな心遣いなんて苦手だし。正直、あんな華やかな娘がなんで奴みたいな地味な男に走ったのか不思議で」
 黒い髪を無造作にかきあげ、頬杖をついて大げさにため息をこぼすさまが少し子供っぽい。
「君くらいの年齢で女の扱いに慣れてる方が問題だと思うけど?それに不器用な所がいいっていう事だってあるし。あたしにはそのお嬢様をどうこう言えないわね」
 芸能人?御曹司?自信満々で言い寄ってきた奴らならダース単位でいるけど、ちょっと本性見せてやったら尻尾巻いて退散するような連中ばっかりだったわ。

「彼女が、本気で奴のこと好きならいいんです。だけど――ほら、自分になびかない男だからこそ、ちょっかい出して振り向かせたくなるっていうこともあるじゃないですか。で、いったんモノにしたら飽きちゃってポイ」
 紙を丸めて放り投げる真似をして、肩をすくめて続ける。
「彼女の方は、弟のことひとときの遊び程度にしか思ってないんじゃないかって、心配なんです。遊びの恋と割り切れるほど器用じゃないから、多分奴の方は彼女に本気なんだろうし。二人の問題だから、出る幕じゃないのは承知してるんですけど。彼女が弟のこと本気なのかどうか、話してみたらちょっとは探れるかなって思ったんで」
 だから、彼女に会えるの待ってたところなんです。と言葉を切った。弟思いなのね、と笑いかけると
「・・・兄貴らしい事、ほとんどしてやってないんで。せめてこれ位のことは」
と、なんだか思いつめた表情で見つめ返してきた。
「お姉さんも、それだけ美人なら、金も権力も備えた男捕まえて玉の輿も夢じゃないのに、彼は普通の人なんですよね。どこがいいんですか?―――その、もしご迷惑でなければ参考に」
・・・彼によく似たこの子が相手だから、答えてみる気になったのかもしれない。
弟思いのお兄さんに免じて教えてあげる。と返答して、閉じたまぶたの裏に彼の姿を描きながら言葉を探す。


「お金も権力もあたしが持ってるから、男にまでそれを求めなくてもいいの。だから玉の輿なんて興味ない。
・・・大事なのは敵と戦うときに安心して背中を預けられる男かどうか、ってこと」
「彼は背中を預けるのにふさわしい人、ってことですか?」という問いに、頷きながら記憶を探る。
「-新人の頃初めて剣道で手合わせした時にね、激戦の末とはいえ結局彼に負けちゃったの。・・・それまで初戦の相手でも負け知らずだったから驚いたけど、やっと見つけたかも。ってそのとき思った」

-今思えばあの時も、無意識に彼に惹かれて隙ができてたのかも知れない。でなきゃあたしが負けるなんて。

「一緒に仕事するようになって、その印象は正しかったって確信した。だから、その後は」
いったん言葉を切ったら、-どんどん好きになっていったんですか?と少年が後を続けた。そう言われたら肯定するしかない。その通りだもの。
「何とかして彼に気付いてもらいたかったけど、今思えば回りくどいことばっかりしてた」
「でも彼、すごく鈍い人でね、全然気付いてくれなかったから土壇場では素直になるしかなかったけど。 結局そういう鈍くって野暮で不器用なところも--シャイで嘘がつけないところも好きなの」
 すっかりこの子に気を許してしまっている自分に気づいた。普段なら絶対にこんなこと言わないのに。
・・・脳裏にはっきりと焼きついた彼の姿。穏やかな眼差し、柔らかな笑顔、大きな掌、抱きしめる腕の強さ。
彼の温度が無性に恋しくなる。どうか、早くあたしのそばに。


 上気する頬の熱さに、なんとなく口が重くなって黙り込んだところで「それ、彼氏からのプレゼントですか?」と胸に飾ったブローチを指差して問う。頷いて、「どうしてわかったの」と聞き返すと「こういっては失礼ですが」と前置きしてから「お持ちの時計やバッグに比べると、その・・・ちょっと浮いてるかなーなんて思ったもので」と、返答した。何で「浮いてる」なのかは聞き返さなくても分かった。
「確かに安物だけど、お金なんかじゃ換えられない」
左胸にちょこんと止まった、錫製の小さなフクロウをそっと撫でる。
-彼の笑顔に、仕草に、ひそやかに高鳴る胸の鼓動を知るたったひとつの。
「初めて彼が買ってくれたものだから。」
「愛されてますねぇ、彼」
どこかほっとしたような笑顔で冗談めかして言われ、素直に頷いていた。
「なんかノロケになっちゃった。あんまり参考にならなかったでしょ?」
「いえ、充分過ぎるくらいです。――――――あなたでよかった」


 意味不明の言葉に首を傾げた瞬間、足元にうずくまっていた猫がすばやく身を起こし入り口へ駆けていった。一瞬遅れて、ドアベルの音が静かな店内に響く。少年が入り口に目を向けて、ぽつりと呟いた。
「そろそろおいとましなきゃ」
「だけど、君・・・」
君の待ち人は、まだ来てないんじゃないの?と目で問うと「いいんです。もう用はすみましたから。」と言う。
「涼子さん」
あれ?あたしいつの間に名前を教えたんだろうか。
訝るあたしをよそに、立ち上がりながらにっこり笑って続けた。
「あいつの・・・準一郎のこと、よろしくお願いしますね」
「え?」
呆気にとられたあたしに一礼して、くるりと背中を向けたところまでしか記憶にない。

 そこから先は、彼と一緒に入ってきてこっちを見て微笑んだ女性に目を奪われてしまったから。
ここにいるはずがない、いてはいけない―随分前にこの世を去ったはずの人なのに、どうして。
 反射的に立ち上がってみたけれど、次の行動が取れずに固まってしまったあたしに向かってつかつかとその人は歩み寄ってくる。昔とちっとも変わらない笑顔を浮かべながら。
「涼子」肩をぽんと叩かれて、懐かしい声が響く。
「いい人見つけたわね。しっかり捕まえときなさいよ」
すれちがいざま、その姿が空気に溶けるように、薄れて消えて行く。
「おかあさん!」
待って、と続けようとしたけど、言葉の代わりにこみあげてくるものを抑え切れなくなったから下を向いて誤魔化す。歩み寄る足音とともに、そっと声が降ってくる。柔らかなテノールが耳にしみて、いったん抑えたものがまた溢れそうになる。
「すみません、遅くなりました」
「遅いっ」
 乱暴な口調をものともせず、無言で背中を強く抱く掌が温かく、繰り返し髪を撫でてくれる指の感触がひどく心地いい。今だけ、今だけはこのぬくもりに甘んじてしまおう。
広い胸に顔を埋めてシャツでこっそり涙を拭い、顔を上げてわざと挑むような目つきで彼の瞳を見上げて笑いかけたらもう一度ぎゅっと抱きしめてくれた。


 テーブルの上でふたつのカップが湯気を上げる。温かなミルクティーに、ざわついた心が鎮まる。
 妖怪相手は慣れっこになったけど幽霊と遭うのは初めてね、と二人で話す。
-彼とここまで来た女性は、亡くなったあたしの母さん。見間違えるはずもない。
そしてあの少年-彼の事を"弟"と呼んでたし、高校生の頃の自分とそっくりだったと、彼が言う。だから、死産だったという、彼のお兄さんになるはずだった子に違いないだろうと結論が出た。(そういえば、以前彼の名前の由来を聞いたときにそんな話が出たっけ)

 -夏は、死者が現世に帰ってくる季節だ。二人してあたし達のこと心配して現れたんだろうか。

 でも、お兄さんなんで高校生の格好だったのかしら、とふと口にしたら「生きてたら当然私より年上ですけど、大人よりもあれ位の年恰好の方があなたに警戒されずにいろいろ話してもらえるって思ったんじゃないですか」と彼が分析した。確かに大人相手ならあそこまで喋ってなかっただろうな。そしてもう一つ気になった事を口にした。
「ねえ、母さん君に何て言ってたの?」
「涼子のことよろしく頼みます、って言われました」
あなたのこと、本当に気にかけてらっしゃいましたよ。と付け加えて穏やかに笑う。
陽がさしこむような笑顔。向けられる度に胸が熱くなる。鈍感で不器用。地味な奴。君のお兄さんはそういってたけど、あたしはそこがいいの。
-遊びじゃここまで夢中になれっこない。だから心配しないで。お望み通りしっかり捕まえとくわ、母さん。
「あたしの方も同じ。よろしくお願いしますね、って君の事頼まれちゃった。-とっても弟思いのお兄さんだったわ」
 店内に他に誰もいないのをいいことに、どちらからともなく身を寄せてそっと唇を重ねあう。久しぶりの彼の唇は甘く、とても懐かしい気持ちになる。猫達が「お熱いねぇ」と言わんばかりにニャアと鳴いた。


 帰りがけに、お兄さんのお茶代にと余分にお金を出そうとしたら、店の女主人は「それはサービス。うちは人間のお客様からしかお代は頂かないの」と言う。最初からお見通しだったらしい。「この時期はあの手のお客様が時々お見えになるのよね。お盆とかの関係かしら」と言うもんだから「こんなものばかり置いてるからじゃない?」とレジ脇のジャックランタンを指先でちょんと小突いてやったら、それを見てふふっと笑った。

「ありがとうございましたー」の声に送られて店を出た。街の灯りが夕闇に映え、風が心地良く頬をなでる。ふと思いついて、彼に向かって口をひらく。
「今度の休みに、お墓参り行こうと思うんだけど君も来ない?――母さん、君のこと気に入ったみたいだし」
「ええ、後でお母さんのお好きだった花、教えて下さい。それと、その-うちの兄の墓参りにも来て頂けたら、嬉しいんですけど」
腕を絡めあって歩き出しながら「喜んで」と返事をしたら、はにかんだ笑顔を返してくれた。


 今度はふたりで会いに行くから。今も何処かで見ているかもしれない彼らに、声に出さずに語りかけた。