夏のまぼろし/side Jyun-ichiro
夕暮れの光が辺りを金色に染め、街路樹が地面に長く影を落とす道を歩きながら待たされてご機嫌ななめな筈の彼女に、どう謝ったものかと考えていた。
最近立て続けに事件が起こって、二人が別々の場所で対応に追われていて、約束していてもどちらかに急報が入ってキャンセルになったりと、おちおちデートも出来ない状況だったのだ。
デートがお流れになって何度目の時だったか、薬師寺警視もお気の毒ですよねぇ、と貝塚さとみがしみじみと言った言葉を思い出す。
「ドタキャンされても『仕事と私のどっちが大事なの』って言えないんですから」
俺の仕事は、上司でもある彼女から割り振られたものだから、確かにその通りではあるけれど。
・・・彼女の性格からいって、寂しいなんて直接言う事は勿論、そんなセリフで遠まわしに伝えるようなことも絶対にしないだろう。(大体、寂しいって思ってるかどうかも怪しい)
それでも、あとは鑑識の結果待ちってことで、思ったより早く現場の仕事が終わりそうだと報告ついでに、珍しくこっちから食事に誘ったのはきっと正しかった筈。電話の向こうの声がいつになく弾んでいたから。
そろそろ彼女の少ない忍耐力も底をついてる頃だし、今夜は俺が奢るからってことで許してもらおうかと思い直した所で、後ろから呼び止められ道を尋ねられた。
声の主は品の良い麻のワンピースを着た40代半ば位の女性で、婦人雑誌の表紙を飾ってもおかしくないような優雅な雰囲気が漂う美人だが、好奇心の強そうな瞳のせいか年齢以上に若々しい印象を受ける。女性の目的地が、彼女が待つ店と同じ名前だったので
「見かけはアンティーク風の雑貨屋だけど、扱ってるのホラーグッズばっかりってとこなら心当たりありますが」
と念のため確認する。たぶんそこね、と言うので「-私もそこに向かうところなので、よろしければご一緒に。」と申し出ると、「あら奇遇ね。それじゃ、お言葉に甘えさせて頂こうかしら」と笑い、並んで歩き出した。
背筋をぴんと伸ばして堂々と歩くさまに奇妙な既視感を覚える。
歩きながら、女性が興味深げに訊いてきた。
「娘がね、彼氏とその店よく行ってるらしいの。・・・あなたも、同じクチでしょう?」
「分かりますか?」
「そりゃあね。見たらわかるわ。」と愉しげにくすくす笑う。
それにしても娘のデート現場に母親が乗り込むってのは穏やかじゃないなと思うと、こっちの考えを読んだみたいに「ちょっと彼氏を観察しに行こうって思ってるの」と言った。
「観察、ですか・・・。彼氏がどんな男かご心配とか?」
「ええ、正確には興味と心配が半々ってところかしら」
俺の怪訝そうな顔を目にしてか、笑みを浮かべて事情を語った。
「訳ありでかれこれ10年位会ってないんだけどね、結構美人で何やらせても器用にこなすし、大抵の野郎共はアホに見えるんじゃないかっていう子だったんだけど最近男ができたらしいの。しかも娘の方から惚れたっていうし、あの子がそんなに参っちゃうなんてどんな男なのか気になって」
美人で何でも出来て大抵の男がアホに見える、か。思わず苦笑を浮かべたところを目ざとく見つけられた。
「どうかしたの?」
「すみません。なんか他人事と思えなくって」
「あら。あなたの彼女もそういうタイプとか?」
「そうです。なんでこんな美人が自分なんかを、って時々思いますけど」
と苦笑混じりに答えると、俺を見て悪戯っぽく笑う。
「で、心配っていうのは・・・?」と聞くと、しなやかな指を顎に当ててちょっと考え込む素振りをみせた。
「・・・あの子のこと、安心して任せられる男かどうか確かめたくてね。見た目がいいもんだから寄ってくる男だけは昔からやたら多かったの。あの子は適当にあしらってたけどね」
自由奔放な性格だから、男関係も派手だろうって誤解されやすくってね。とため息をついた。
「実際は見かけや言動と違って、色恋に関してはてんで純情というか不器用でね、その癖プライド高くて意地っ張りだから、気持ちを伝えるだけでもだいぶ苦労したんじゃないかしら。・・・そんな子が何とかして振り向かせようと必死になったんだから、きっと相手の事『これが最初で最後の人』っていう位本気なんだろうし」
一途なんですね、という返事にちょっと笑ったが、「でもね」と表情を曇らせて続けた。
「気性が激しくって束縛されるのが大嫌いな子だから、まず男の思い通りになんてならないし意地っ張りでなかなか他人に可愛いとこ見せないから、彼氏にとってはすごく扱いづらい子だと思うの。でもあの子にだって感情があるから、もし男があの子のこと持て余して離れていったりしたら傷つくわ。プライドが邪魔して表に出せない分、余計に傷が深くなるかもしれない。・・・確かにそこらの男の手には余るじゃじゃ馬だけど、そういうところもひっくるめてあの子のこと受けとめてやれるような男だったらいいなって思うのよ」
言葉を切って、なぜかこちらを真剣な目で見てきた。
「ね、さっきあなたの彼女も同じタイプだって言ってたけど、こういうとこも似てる?」
「不器用かどうかはさておき、美人で何でも出来て、自由奔放で気性が激しいってところまで一緒ですね。」
「じゃあ、振り回されて嫌になった事ある?」
脳裏に彼女の精彩に富んだ表情が、声が、言葉が蘇る。機嫌が悪いときでさえ目が離せない。問いに対する答えはすぐに出てきた。
「・・・振り回されて疲れるって思うことはありますけど、本気で嫌だって思ったことはないですね」
「どうして?」
「たぶん、彼女のそういうとこに魅かれてるんだと思います。-少なくとも、彼女がもっと従順で素直だったらいいななんて一度も思ったことないですから。ワガママ言われても、それがちょっと子供っぽくて可愛い時もあるし、怒っててもそれはそれで魅力的だなんて思ってしまうあたり、我ながら物好きって言われても仕方ないんですけど」
どうみてもこれってノロケだよなとなんだかくすぐったい気持ちになり、髪をくしゃっとかき上げる。
うなずいて聞いていた女性が、なぜか皮肉っぽい微笑を浮かべて問いかけてきた。
「だけど、何でも出来て男がアホに見えるような子、守り甲斐がないって思ったりしない?」
立ち止まった瞬間、通りを突風が吹き抜け街路樹がざわめく。女性の髪が生き物みたいにふわっと舞い上がる。こちらを見てくる目は真剣そのもの。・・・なんだか俺が、その娘の彼氏みたいだ。
だけど気持ちは良く分かる。再び歩き出しながら、言葉を探った。
「彼女、敵が多い人だけど気が強いしケンカも強いから、今まで私の助けを必要とした事なんてないんです。ただ、これからもずっとそうだって保証はないんですよね。・・・でも、敵と戦う場面では自分が先陣きって出ていかなきゃ気が済まないし、『惚れてやるとしたら、戦う時に安心して背中を預けられる男よ』なんて言ってた位だから、男の後ろで守ってもらうなんて発想がまるでないんです。それこそ私が前に出るのは彼女が絶体絶命って時なんじゃないかって思う位。
・・・だけど、強いひとだからって放っておいても大丈夫って事にはならないでしょう?
それに、私が相手でもなかなか弱みを晒そうとはしないから、守り甲斐が無いなんて呑気な事いってたら彼女が本当に必要としてる時に、助けの手を差し伸べられないかも知れない。だから」
なんと続けたものか一瞬迷ってしまい、不意に言葉に詰まってしまう。
デートのドタキャンに対して、ネクタイを引っ張り不平を鳴らしながらも一瞬見せた切なげな眼差し。そして電話の向こうで嬉しそうに弾んでいた声を唐突に思い出す。--なんだ、彼女も寂しいって思っててくれたんじゃないか。
いきいきと光を宿す瞳、耳に甘く響く声、柔らかな唇、しなやかな腕。あなたの温もりが恋しくなる。
もうすぐ、もうすぐそこに行くから。
なんだか中途半端な答えでも女性はどこか満足げな顔をしていたが、次の瞬間ちょっと表情を崩した。
「あ、ちょっと腕貸してくださる?」
左腕を掴もうとした手を、反射的に右手でとって支えていた。靴に小石でも入ったらしく、片方の足を上げて靴を脱ぎながら悪戯っぽい瞳を向けてくる。
「左腕は彼女のために空けてあるってこと?」
そう聞かれてどきりとした。そんなこと考えもしなかったけど、さっき触れられかけたときなんとなく落ち着かない気持ちになったのは事実だ。
「・・・・そうなんでしょうね。そういえば彼女と腕組むときって、いつもこっちの腕だった」
というと、目を細めて微笑んだ。
通りから横道に逸れ、マンションや喫茶店が立ち並ぶ一角に入ると、目指す雑貨店が視界に入った。軒先に吊るされたランプの灯りを見つめながら、彼女が「・・・あの子が選んだ人だもの。心配するだけ余計だったかもね」とぽつりと呟いた。
ドアを引くと、ベルが軽やかな音を立て二匹の看板猫が転がるように駆け寄ってきた。奥の小さな喫茶スペースへ向かうと、こちらを見た涼子の顔にはなぜか驚きの色が広がり椅子を乱暴に鳴らして立ち上がった。女性は彼女にちょっと微笑みかけておいて、こちらを真っ直ぐ見つめ、口を開いた。
「泉田くん」
え。自己紹介した覚えはないんだけどな。
「君なら安心だわ。涼子のこと、よろしく頼みます」
あでやかな笑顔を残し、見事なターンで身を翻して突っ立ったままの彼女の方へ歩いて行く。入れ違いに、彼女の傍らにいた制服姿の少年が歩み寄ってきた。十数年前の俺にそっくりの。戸惑う私を見上げてニッと笑う。
「カノジョ、お前にゃ勿体ないほどいい子だな・・・大事にしろよ」
片手を上げて踵を返したと思いきや、煙みたいに掻き消えた。
今のは一体何だったんだ?とパニックに陥りかけたところで、
「おかあさん!」
と叫ぶ彼女の悲鳴で、現実に引き戻された。
すれちがいざますっと消えていったあの女性の正体にもびっくりしたが、あんな動揺した声を彼女の口から聞いたことの方がよっぽど驚きだった。表情は伺えないが、俯いた姿がいつもとは別人のように危うげだ。
「すみません、遅くなりました」
「遅いっ」
ぶっきらぼうな口調と裏腹に、小さく震える肩が痛々しい。抱きしめて、空いた片手で丁寧に髪を梳く。彼女が一瞬シャツを強く掴み、それからゆっくり顔を上げてきた。口元に不敵な笑みを浮かべているけれど、わずかに赤い目をしているのが愛しくてもう一度腕に力を込める。
-ちゃんとここにいるから。どこにも行かないから。
テーブルの上でミルクティーが白く湯気を立て、香りが辺りに満ちる。
すっかり落ち着きを取り戻した彼女と話し、おおよその事情は分かった。妖怪の類と関わることはもう珍しくなくなったけれど、幽霊-それも自分にごく近い人の幽霊と出会うなんて初めてだ。
女性は、亡くなってもう10年位になる、彼女の母親。(だから"訳ありでかれこれ10年位会ってない"って言ってたのか)
そしてあの少年-高校生の頃の俺にそっくりだったし、彼女との話で「弟が」って言ってたらしいから、死産だった俺の兄に間違いない。
-遺してきた者を思って現れた死者ってことかな。夏だからそういうことがあっても不思議じゃない。
カップを持ち上げようとした手をふと止めて、彼女が呟いた。
「でも、お兄さんなんで高校生の格好だったのかしら」
「生きてたら当然私より年上ですけど、大人よりもあれ位の年恰好の方があなたに警戒されずにいろいろ話してもらえるって思ったんじゃないですか」
納得したような顔をして、更に口を開く。
「ねえ、母さん君に何て言ってたの?」
「涼子のことよろしく頼みます、って言われました。-あなたのこと、本当に気にかけてらっしゃいましたよ」
純情で不器用、意地っ張り、最初で最後。娘を論評していた母親の言葉を反芻する。
とてもそうは見えないけど、そこまで一途に想っててくれるならとても嬉しい。
「あたしの方も同じ。よろしくお願いしますね、って君の事頼まれちゃった」
とっても弟思いのお兄さんだったわ、と花がほころぶように微笑む。こんな笑顔や、さっきみたいに肩を落とした表情――他人の前では絶対に出さない顔を見せてくれてるってことに、ちょっとは自惚れてもいいんだろうか。
-翻弄されてばかり、だけど俺を惹きつけてやまない愛すべきじゃじゃ馬娘。あなたから離れるなんて出来っこない。
確かに俺には過ぎる位のひとだ。言われなくたって大事にするさ、兄さん。
身をのりだしたのはどちらからだったろうか。人目も時間も気にしないで、心行くまで互いの唇を味わう。
床に視線を落とすと、猫達がこちらを見上げて「ごちそうさまー」とでも言いたげに一声鳴いた。
帰りがけに、レジで彼女が余分に代金を払おうとしたら、
「それはサービス。うちは人間のお客様からしかお代は頂かないの。・・・この時期はあの手のお客様が時々お見えになるのよね。お盆とかの関係かしら」と、ここの女性オーナーが笑いながら言う。
「こんなものばかり置いてるからなんじゃないの?」と彼女がレジ脇にあるカボチャお化けの人形を軽く小突いた。軽口が叩けるならもう心配ないか、とほっとする。
外はすっかり夜の帳が下りて、闇に滲む街の明かりが美しい。彼女が何か思い出したようにこっちを見て呟く。
「今度の休みに、お墓参り行こうと思うんだけど君も来ない?――母さん、君のこと気に入ったみたいだし」
「ええ、後でお母さんのお好きだった花、教えて下さい。それと、その---うちの兄の墓参りにも来て頂けたら、嬉しいんですけど」
彼女が腕を絡めてきて「喜んで」とにっこり笑う。
夕闇のどこかで、あの優しき死者たちもそっと笑ったような気がした。