かけひき

 一瞬わずかに体勢が崩れたのを見逃さず、空いた右手に竹刀を振り下ろした。が、そのまま叩きつけることはせず、篭手の二センチほど上でそれを止める。――勝負有り。
 ゆっくりと竹刀をおさめ、面や防具をはずす。新鮮な空気を深く吸い込んだ。
「――三連敗」
 勝負の相手は、乱暴に面を脱ぎ捨てながら吐き捨てるように呟いた。息を弾ませ、滑らかな頬を上気させている。顎から滴る汗を手の甲でぬぐう。
「畜生。最近負けっぱなしだわ」
 心底悔しそうに呟くその横顔に、気づかれないように笑みを漏らす。悔しがる彼女なんてなかなか見られない。これはこれで魅力的だ、と思うのだが、そう言ったら余計に機嫌を悪くするに違いない。
「泉田クンさ、腕上げたんじゃない?ホントに三段?」
「そのはずですが」
「絶対四段くらいあるはずよ。低めに申告するなんてズルイ」
「そんなことはないですよ」
 そう言うと、涼子は不機嫌そうにこちらを睨んだ。
「じゃあ、あたしが弱くなったとでも言いたいわけ?」
「いえ、そんなことは」
 思いもよらない質問を浴びせられて、芸のない返答をしてしまった。確かにここのところ連勝中だが、軽々と勝っているわけじゃない。いつも辛うじて勝っているのだ。だから、彼女が弱くなったということはないはずだ。手応えは以前とあまり変わらないし、勝っているのはまぐれとしか思えない。の、だが。
「謙虚さもイヤミになることがあるんだから。素直に勝ち誇ればいいじゃない。可愛くないなあ」
「……すみません」
 何で勝ったのに謝ってしまうんだろう。その理不尽さに戸惑わないでもないが、いい加減慣れた。不機嫌そうな口調に、また笑みを誘われる。
「でさ、何がいい?」
「え?」
「負けた方が勝った方の言うことを聞くことになってたでしょ。――何でもいいわよ」
 ああ、そうだった。何か賭けるものがあった方が面白いから、と彼女がそう提案したのだ。ふてくされて私を睨みつける表情は、とても「何でも言うことを聞く」人間の態度には見えない。――それはともかく、要求。何かあっただろうか。
「えーっと……ちょっと待って下さい。……うーん」
「何よ、考えてないの?……もういい。着替えて下で待ってるから、考えといて」
 不機嫌そうな口調のままそう言い残し、彼女はくるりと背を向けて更衣室へ歩き出した。真っ直ぐに伸びた道着姿の背中に中性的な凛々しさが漂う。――剣道着や防具がその優美な体躯を覆ってしまうと、彼女の容姿はどこか少年めいて見えることがある。それは、柔らかさよりもむしろ鋭さを感じさせる、その表情のせいかもしれない。
 彼女の後ろ姿を見送ってから、私も更衣室へ向かう。その途中で、声をかけられた。
「よ、物好き」
 同期入庁の同僚だった。確か今は捜査二課にいたはずだ。
「さっきの見てたけど、何かすげえな、お前らの稽古って」
「実際の試合だったら違反だらけだけどな」
「……いや、そうじゃなくて。何つーか、相手が恋人だからって全然遠慮ないしさ。お前らの痴話喧嘩ってどっちかが死にそうで怖ぇよ」
 ややオーバーな表現に苦笑する。
「そうなったら、死ぬのは多分俺だろうな。弔辞は任せた」
「バカ言え」
 ひとしきり笑ってから、同僚はふと話題を変えた。
「だけどさ、お前の気持ちも分からんでもないな、さっきの見てると」
「何が」
「あの女だよ、お涼。結構可愛いとこあるよな」
「……さっき物好きって言わなかったか、俺のこと」
「まあな。生意気だし我侭だし、気が強いし格闘技も強いし。正直どこがいいんだか分からん、と思ってるんだけどな」
 そこで一度言葉を切って、くすりと笑った。
「でもさっきの見てたらさ、なんか本性知っててもちょっと参りそうだったよ。ちょっと子供っぽくてさ。ああいう女にあんな風に甘えられるのって、悪くないよな」
 その言葉に、何となく反感めいたものを感じた。
「言っとくけど、本性知ってて参るってのはかなり馬鹿だぞ」
「お前のことだろ」
「俺はいいんだ、自覚してるから」
 何でもないことのように言ったつもりだった。けれど、同僚は一瞬黙り込んでから、さも可笑しそうに言った。
「……そんな一生懸命予防線張らなくても。大丈夫だって、あの女が仔猫に見えてるのなんかお前だけだ」
 安心させようとするような口ぶりだった。その言葉に、皮肉っぽく口元が緩む。これから稽古に入るという彼と入れ替わりに稽古場を出る。
「なあ、さっきのアレさ、結婚してって頼んでみろよ」
「いきなり何言ってんだ」
「お偉方が泣いて喜ぶぞ。ドラよけお涼が寿退職。犯人逮捕より大手柄かもしれないぞ」
「バカ言え。第一、結婚したからって退職するとは限らないぞ」
「そりゃそうだ」
 同僚の笑い声を背に更衣室へ戻る。先刻の言葉を反芻する。

 ――ああいう女にあんな風に甘えられるのって、悪くないよな。

 人の気も知らないで、勝手なことを言ってくれるじゃないか。そんな風に感じられるほど余裕を持って彼女と接したことはないと思う。奔放な言動と溢れる行動力に、いつも振り回されて、疲れさせられて。――本当なら、そう思えるだけの余裕があって然るべきなのに。何と言っても、私は彼女より6歳も年上なのだから。年上の彼氏って包容力があっていいよね、と言っていたのは誰だったか。だとすると、「年上の彼氏」としては失格ってわけだ、俺は。まあ、彼女を特別に「年下の女性」として意識したこともないけど。守ってあげたい気分にさせられるだろ。年下の女性と付き合っていると知った友人にそんなことを言われたが、苦笑するしかなかった。仕事の上でもプライベートでも、彼女が私の庇護を必要としたことはない。聡明で行動的。そして、気性が激しく攻撃的。仔猫だって?冗談じゃない。

 シャワーと着替えを済ませてロビーに下りると、彼女はまだ来ていなかった。柱に軽くもたれて目を閉じる。さて、どうしようか。彼女にしてほしいこと。これは結構難問かもしれない。非の打ち所のない恋人とは決して言えないが、何かして欲しいことはないかと問われると困ってしまう。
 リズミカルな足音が近付いてくるのに気づいて振り返る。剣道着からタイトなスーツに着替えた彼女がこちらへ歩いてくる。――こうして見ると、先ほど少年めいて見えたのが嘘のようだ。活気に満ちた鋭い表情なのは変わらないが、今は誰が見ても間違いなく大人の女性――それもとびきりの美人。こんなにも印象が違って見えるのは、剣道着とは対照的にボディラインを強調しがちな、タイトなブランドスーツの所為だろうか。あるいは、薄く色づいた瞼や唇の所為だろうか。
「お待たせ」
 目の前で足を止め微笑む。シャンプーがふわりと香った。
「で、考えた?」
「……すみません、まだです」
「えー?……何よもうっ。あたしに何かしてほしいことがあったからあんなに一生懸命だったんじゃないの!?」
 彼女はまたも機嫌を損ねてしまった。何だか、喜ばせるよりも怒らせることの方が圧倒的に多い気がする。
 ふと、どうして彼女があんな賭けを持ち出したのか気になった。彼女の性格なら、私にしてほしいことがあればストレートに言うはずだ。どんな無理難題でも。それなのに、どうして勝負など持ち出したのだろう。
「……ひとつ聞いてもいいですか」
「何」
「あなたは、私に何をして欲しかったんですか?」

 途端に、彼女の様子が変わった。視線を床に落とし、黙り込んでしまう。

「……別に、関係ないでしょ」
 ややあって、視線を落としたまま彼女が答えた。ぶっきらぼうだが、声は小さい。
「教えてくれてもいいじゃないですか」
「言う必要ないじゃない。それより、君の要求を聞いてるの。何して欲しいの」
 彼女にしては珍しく、苦しげな言い訳だった。相変わらず下を向いたままの彼女を見ているうちに、悪戯心が動いた。
「だから、あなたが何をして欲しかったか聞きたいんです。……何でも聞いてくれるんでしょう?」
「……言ったら、やってくれるの」
「それとこれとは別です」
「この根性曲がり。もういい、あんな賭け無効よ」
 言い捨てると、彼女は先に立ってさっさと歩き出してしまった。足音でも、彼女が完全に怒っていることがわかる。ちょっとからかいすぎたか、と思ったが、すぐに追いついて謝ることはせず、少し後ろからゆっくりついて行く。さて、どうやって機嫌を直してもらおうか。
 赤信号の交差点でようやく彼女に追いついた。横に並んで立ち止まったそのとき、彼女が小さな声で呟いた。
「何でもないって思ってるんでしょ」
「え?」
 問い返すと、彼女は顔を上げて私を睨みつけ、やや声を高くした。
「あたしが機嫌悪くたって、何でもないって思ってるんでしょ。簡単にあやせるって」
「急に何言い出すんですか。そんなこと思ってませんよ」
「だったら何でそんなに平静なの?ちょっとぐらい年上だからって余裕ぶらないで」
 叩きつけるように言い放つと、視線をはずして今度は交差点の向こうを睨みつける。なかなか変わらない信号に苛立ちをぶつけるかのように。雑踏の中で、二人の周囲にだけ奇妙な沈黙が落ちた。
 何か言うべきだろうか。だけど、うまく言葉が出てこない。何でそんなに平静なの。余裕ぶらないで。彼女の声が耳の奥でまだ震えていた。平静?余裕?どこが。
 目の前の車の流れが止まった。排気音が弱くなり、信号が変わる直前の独特の緊張感が周囲に満ちた。その中で、彼女が不意にぽつりと呟いた。

「……軽く流したりしないで、あたしのこと」

 その言葉が合図であったかのようなタイミングで、信号が青に変わった。だが、動けなかった。彼女も動かない。真剣な眼差しで私の顔を見つめる。人波が次々に二人を追いぬいて行った。何人かがちらちらとこちらに視線を向けるのが分かったが、それどころではなかった。
 余裕ぶらないで。軽く流したりしないで。――彼女にはそう見えたのだろうか。さっき、珍しく照れたような様子を見せたのに乗じてからかったり、すぐに追いかけて謝ったりしなかったのが、余裕に見えたのだろうか。子供のワガママを聞き流すような態度に。
 だとしたら、彼女が怒るのは当然のように思えた。どんな形であれ、たとえそれが好意に基づいたものであっても、それは彼女を低く見ているということなのだから。見下ろされるのを何より嫌がる彼女。

 誤解なんだよ。あなたといて、余裕を感じたことなど一度もない。

 いつでも、余裕があるのは彼女の方。勝ち誇って喜ぶのも。だから――と、そのとき不意に思った。ほんの少しでも、余裕のある振りをしたかったのかもしれない。いつでも必死に歩幅を合わせようとするのではなく、振りまわされるばかりでもなく。わがままで活動的なあなたを笑って受けとめるだけの余裕が、本当はいつでも欲しくて堪らない。――だって、俺はあなたより6歳も年上なんだから。それぐらい、許してくれてもいいだろう?

 気がつくと、信号はもう赤に変わっていた。人波が止まり、車が動き出す。彼女が軽く息を吐いて交差点の向こうに再び視線を向けた。その掌を、自分の掌で包む。
「機嫌を直してくれませんか」
 思っていたよりずっと滑らかな感触を確かめながら、さらに言葉を探す。
「さっきはすみません。調子に乗りすぎました。あなたが嫌なら、もう聞かないから」
 彼女は前を向いたまま、口を開かない。掌の中で、彼女の手が強く握り締められる。この程度じゃ許さない。そう言われている気がした。硬く閉じられた指の間に、自分の指をもぐりこませ、拳を少しずつ開かせていく。彼女の掌が完全に開くと、今度は指を絡ませた。もう一度声をかける。
「……警視、機嫌を直して下さい、お願いですから」
「……もう直った」
 唇を尖らせながら、それでもようやく彼女が呟いた。口調はまだ不機嫌そうに聞こえるが、返事をしたのならもう機嫌が直っていると思っていい。そう確信してほっとする。だけど、そもそもどうして俺が謝らなければいけないんだろう。からかってしまったことは事実だけど。でもそんなに怒ることじゃないだろ、普通。
 でも、とその一方で考える。こう言う場面で先に謝ることができるのが、もしかしたら彼女には余裕があるように見えるのかもしれない。ならば、もうしばらくそう見せかけておこうか。いつか、その見せかけが本物になるまでは。
「さっきの賭けだけど」
 彼女が私の顔を見上げながら口を開く。その口元にはもう笑みが浮かんでいる。いつもと同じ、余裕たっぷりの微笑。
「次の機会に持ち越しにしない?」
「え、まだやるんですか?」
 全身に残っている疲労感を改めて感じながら、思わず問い返す。
「そうよ、当然でしょ。あたしが勝つまでやるわよ」
「……一体何をさせる気なんですか」
「それはヒミツ」
 くすくすと楽しげに笑う彼女に、幾ばくかの不安をかきたてられる。どうもとんでもないことを頼まれそうな気がする。だけど、こんな勝負を持ちかけられては、引き下がるわけにはいかない。男としてのプライドもあるし、このまま勝ち逃げしては、また彼女が拗ねてしまうだろうし。それに、知りたい。彼女が何を望んでいるのか。言葉には出さず、こんな形で何を伝えようとしているのか。
 つまらない見栄と、いくつかの打算。それ以上に、彼女への興味。それらが表にあらわれないように細心の注意を払って、ゆっくりと笑みを浮かべる。余裕たっぷりに見えるだろうか。

「……いいですよ。やりましょう」

  彼女が嬉しそうに笑う。絡めていた指をほどき、今度はその手をそのまま私の腕に回してきた。再び車の流れが止まり、人波が動き出す。もう一度笑みを交わし、今度は並んで歩き出した。