かけひき/オマケ
「ちょっとぐらい年上だからって余裕ぶらないで。……軽く流したりしないで、あたしのこと」
深く考えて言ったわけじゃない。勢いに任せて、なんとなく口をついて出てきてしまっただけだ。だから、その言葉に彼がひどく考え込むような様子を見せたので、少し驚いてしまった。さっきまでの不機嫌な気分はどこかへ行ってしまって、丁度信号が変わって動き出した人波の中、突っ立ったまま動かない彼をあたしはじっと見つめた。
そうしているうちに、信号が赤になってしまった。軽く息をついて、もう一度交差点の向こうに視線を向けた瞬間、彼の掌があたしの掌を包んだ。学生時代から剣道をしていたという彼の掌は、そのせいかほんの少し硬い。そして、温かくて大きい。
「機嫌を直してくれませんか」
穏やかで、それでいて艶のある低い声が耳元で響く。
「さっきはすみません。調子に乗りすぎました。あなたが嫌なら、もう聞かないから」
生真面目な謝罪に口元がほころびかける。――駄目。笑ってはいけない。簡単に許してはいけない。そう自分に言い聞かせなければならないほど、あたしはもう許してしまいそうになっていた。掌の温度と柔らかい声のせいで。こんな武器を持っているのに、彼はあまりにもそのことに無自覚すぎる。あたしはそこに惹かれながら、同時に苛立ちも感じている。
――いや、違う。あたしは無理矢理苛立っている。意識して反抗を試みている。そうしないと、その声や温度に全部すっぽりと包み込まれて安心してしまいそうだから。すべてを預けきってしまいそうだから。それを当然だと思ってしまいそうだから。だからあたしはいつも必死に抵抗する。
違うの。あたしは包んで欲しいんじゃないの。安心させて欲しいんじゃないのよ。
包まれて安心してしまうと、同時に自分自身がとても小さく弱い存在になったみたいに感じる。その感覚に、どうしても違和感を覚えてしまう。
意識してそうあろうとしたことはなかったけれど、周りからは強い人だと言われることが多かったし、あたし自身もそうだと思っていた。ひとりでちゃんと立っていられる。誰かに頼りきって安心することなんてありえない。そう思っていたし、そうであるべきなのに。
彼に包み込まれた掌を強く握り締める。その指の間に、彼の長い指が割り込んできた。固く拳をつくったあたしの手を開かせようとする。抵抗も空しく、少しずつ指がほぐれてくる。強い力だけど強引さを感じないのは、何かツボを心得ているのか、それとも、あたしの抵抗がハッタリに過ぎないからなのか。そして――彼がそれを知っているからなのか。
そう。ハッタリに過ぎないの。どんなに抵抗しても、包み込まれているときの居心地の良さに結局は抗えない。そうでなかったら、自分は強いという認識に疑いを抱く理由がない。誰かの腕に守られて安心していられるような自分じゃない、とはっきり言えるのに。
どうして。指をほぐそうとする掌の持ち主に、八つ当たりに近い感情を覚える。どうして、そうやっていつもあたしを簡単に包んでしまえるの。年上だからって、そんな風に包容力とか見せつけないでよ、悔しくなるじゃない、剣道だってかなわないのに。あたしは、君が年上の男だから好きになったんじゃないのよ。包容力のある大人の男だから好きになったんじゃないの。だから、あんまり安心させないで。
あたしを弱くさせないで。
とうとう拳は完全に開かれてしまい、あたしと彼はお互いの指を絡ませる形になった。
「……警視」
完全降伏。つまらない意地はすっかり剥がれ落ちてしまった。
「機嫌直して下さい、お願いですから」
「……もう直った」
わざと唇を尖らせて呟くと、彼はほっとしたように笑った。こうやって笑うと、少年っぽい雰囲気が漂う。ほんの少し混乱する。さっきまでは間違いなく年上の、大人の男だったのに。でも、どっちが本当の彼なのかなんてことは考えない。どっちも間違いなく彼だと知ってるもの。
年上の男が好きなわけでも、少年っぽい男が好きなわけでもないの。――あたしはただ、泉田準一郎という男が好きなのよ。そこんとこ、ちゃんと分かってる?
掌の温度を確かめながら、でもこのままなだめられてしまうのは悔しくて、あたしは再反撃を試みる。
「さっきの賭けだけど、次の機会に持ち越しにしない?」
「え、まだやるんですか?」
「そうよ、当然でしょ。あたしが勝つまでやるわよ」
「……一体何をさせる気なんですか」
「それはヒミツ」
もういい加減、素直にこの温もりに全部預けてしまってもいいのかもしれないけど、でも大人しく君の腕の中にいるだけでは物足りないってのも正直な気持ち。
あたしは絶対大人しくなんかしない。だから。
あたしをちゃんと捕まえて、いつでも包めるようにしてて欲しい。なんてね。
彼はしばらく考え込んでいるようだったが、やがてゆっくりと笑顔を作った。また、大人の男の顔になった。
「いいですよ。やりましょう」
そうやって笑っていられるのも、今のうちだけだからね。覚悟してなさい。