控えめなノックに続いて入ってきた新郎は、あたしを見て目を丸くした。
「どうよ」
 その反応が嬉しくて、あたしは得意げに聞いてみる。
「どう、って」
「似合う?」
 言いながら、目の前でくるりと一回転して見せた。
「え、ええ」
「ちゃんと言って」
「……よく似合ってます」
「それだけ?」
「え」
「もっとさあ、他に気のきいた言葉あるでしょ?花嫁に対して」
 不満たらしくそう言うと、彼は少し躊躇ってから、次の言葉をくれた。
「……とても、綺麗だ」
 結婚の決め手は、って聞かれたら間違いなくこう答えるわ。「シャイなところ」。勿論それだけじゃないけどね。整った顔が耳まで真っ赤に染まっていて、すごく愛しくなった。着付けとメイクを手伝ってくれたマリアンヌとリュシエンヌがクスクス笑っている。
 庭に面した窓から、パーティの準備の様子が見える。もうほとんど終わっているみたいだ。――ホテルでの派手な披露宴は彼が嫌がったし、あたしもそれだと父の会社の関係者を呼ばなければならなくて面倒だった。見たこともないオッサンに長ったらしい挨拶文を読まれるなんて、冗談じゃないわ。あんたの世話になったことなんか一回たりともないわよ。
 かといって、チャペルでの結婚式も趣味じゃない。あたし達がクリスチャンじゃないから、ではない。――自分で選んだ相手なのに、何で信じてもいない神様の了解を得なきゃならないのよ。
 というわけで、郊外にある小さなホテルを借りきって、家族やごく親しい人達だけを呼んでガーデンパーティ風の式をあげることにした。なんかまあ地味だけど、あたし達には一番相応しい形なんじゃないかしら。それに、二人の門出に必要なのは、薄っぺらくて退屈な美辞麗句でも信仰心のかけらもない神の前での誓いの言葉でもなく、シンプルながらも心からの祝福の言葉なんだもの。ね。
 あたしのドレスに合わせて選んだスーツに身を包んだ彼は、本人の照れ臭そうな態度を別にすれば、ファッション誌の表紙も飾れるんじゃないかと思うくらい素敵だった。でも。
「ちょっとさ、首まわり寂しくない?飾りがなくて」
「そうですか?」
 白いスタンドカラーの襟元を覗きこむ振りをして、そこに唇を押し付けた。
「……!」
 唇をはなすと、淡いピンクのキスマークがくっきりと残った。マーキング完了。
「ん、これでよし、と」
「何がよしですか!これから式ですよ!?」
「いいじゃない、他の女につけられたわけじゃないんだし。花嫁本人の愛のしるしよ?」
「……まったくもう。これだから油断できないんだ、あなたって人は」
「スリル満点の結婚生活よ。素敵じゃない」
 憮然として呟く彼に笑みを投げて答える。マーキングのせいで口紅が薄くなってしまったので、塗り直そうと彼に背を向けるよりも早く、強い力で引き寄せられ、抱きしめられた。すぐに唇を塞がれる。抱きしめる腕の力強さとはまるでちぐはぐな優しい感触。唇がはなれると、あたしは不敵に笑って見せた。
「……やるじゃない、不意打ちなんて。君も油断ならなくなってきたわね」
「まあね、やられっぱなしじゃ面白くないですから」
「ほんと、退屈せずにすみそうだわ」
 後ろから小さな咳ばらいが聞こえた。マリアンヌがメイクボックスを持って笑っている。人前でラブシーンを演じてしまったことに気づいた彼が、慌ててあたしを抱きしめていた腕をはなした。今更照れることもないでしょうに――まだまだ教育の必要があるわね、うん。
 軽いノックの音に続いて、扉の向こうから声がした。
「ふたりとも、準備はいい?そろそろ時間よ」
「わかってるわよ」
 答える声につい不機嫌な空気が混じる。室町由紀子――お由紀だ。今日、色々と手伝ってくれてるんだけど、なんで仲の悪い相手に結婚式を手伝ってもらっているのか、こればっかりは謎だわ。扉を開けて入ってきた彼女は、彼の襟元を見てちょっと眉をひそめた。堅苦しい女だから何か説教くさいことを言うかもしれないけど、かまうもんか。――だけど、意外にもそれについては何も言わず、
「段取りの確認はもういいわね。――じゃ、あと5分だから」
 言い残して、さっさと出て行ってしまった。その背中に向かって、軽く舌を出す。べぇ。
 マリアンヌに口紅を直してもらって、彼と並んで扉の前に立つ。
「ひとつ、聞きたいことがあるんだけど」
「何ですか?」
「君は、自分の妻に敬語を使うの?」
 彼は一瞬、困った顔をした。まあ、あたしはずっと彼の上司だったし、これからも職場ではそうだし。でもさ、ていうことは、よ。これからはほとんどの時間を一緒に過ごすことになるわけじゃない。家に帰っても敬語使われちゃ、なんか夫婦って気分になれるか心配。――以前から、二人だけでいるときは敬語なんか使わないでって言ってたんだけど、なかなか実行してくれなかった。今日からはばしっと言っとかないと。公私混同は避けなきゃね。
 彼がためらいがちに口を開こうとしたそのとき、扉の向こうから音楽が聞こえてきた。新郎新婦登場の合図だ。少し体温が上がった気がする。柄にもなく緊張してきたらしい。ちょっと呼吸を整えて、隣に立つ彼の顔を見つめた。――今日から、あたしの夫になる人。あたしが選んだ、人生の最良のパートナー。この次の瞬間からの未来を、この人と作っていくんだ。なんてスリリングなんだろう。結婚は人生の牢獄。そんなこと誰が言ったのかしら。
 あたしの視線に気づいた彼も、あたしを見つめて微笑んだ。右手を差し出し、ゆっくりと口を開く。

「行こうか、涼子」

 ああ。こんなときに心臓を跳ねさせるなんて反則だわ。この男は、シャイなくせに時々予想もつかないタイミングであたしを動揺させやがる。まったく、先の読めない未来になりそうね。上等じゃないの。
 おずおずと左手を差し出し、彼の掌にあたしの掌を重ねる。その温かさが手袋ごしに感じられて、それを強く握り締めた。彼が応えるように握り返す。瞳を見つめ、微笑みながらあたしは先ほどの彼の言葉に答えた。

「うん。行こう、準一郎」

 目の前の扉が開いて、光が溢れ出した。



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