控え室の扉を開くと、純白のドレスに身を包んだ新婦が満面に笑みを浮かべて振り返った。
「どうよ」
 得意げに胸をそらしていきなり尋ねる。私は意味を掴み損ねた。
「どう、って」
「似合う?」
 言いながら、彼女は目の前でくるりと一回転して見せた。髪にかぶせたヴェールがふわりと舞った。
「え、ええ」
「ちゃんと言って」
「……よく似合ってます」
「それだけ?」
「え」
「もっとさあ、他に気のきいた言葉あるでしょ?花嫁に対して」
 彼女は唇を尖らせて不満そうに言った。気のきいた言葉、ね。無理なこと言わないでくれ。
「……とても、綺麗だ」
 考えつかなかったので、仕方なく思ったことを正直に口にした。こんなこと、言わなくても察してくれ。頼むから。満足そうに微笑む彼女の背後で、着付けとメイクを手伝ったらしいマリアンヌとリュシエンヌがクスクス笑っている。――フランス人の男なら、何の気負いもなくこんなことを言ってしまえるのだろうか。
 照れを隠すつもりで窓の外に目をやると、青空の下に料理や飲み物のボトルが並んだテーブルがいくつも用意されていた。来賓の姿はここからは見えない。来賓、といっても新郎新婦、つまり私と彼女の家族にごく親しい友人だけだ。郊外の小さなホテルでガーデンパーティ風の挙式、というのはいかにもささやかで悪くないと思う。――というより、あまり仰々しいのは嫌だ。本当は式なんて挙げなくてもいい、とさえ思っていたのだ。
 式を挙げたい気分になれなかったのは、彼女の実家に理由がある。――いや、ご家族と気が合わない、とかそんな理由ではない。まあ、父親に紹介されたときはかなり緊張したけどね、そりゃ。その父親は大会社の社長で、警察関係者にも知り合いが多い。そんなお偉方が続々と出席する披露宴なんて、肩がこって仕方がない。彼女もそれは同様だったようで(まあ彼女の場合は肩がこるというより面倒なだけだろうが)、話し合った末、現在のような形に落ち着いたのだ。
 何で嫌がってたくせに式を挙げることにしたか、って。そりゃ決まってるじゃないか。見たかったんだよ、ウェディングドレス姿の彼女が。……笑ってもいいぞ。
 シンプルで丈の短いデザインのドレスを着た彼女は、それに合わせて彼女が選んだスーツを着た私を厳しくチェックするように見つめていたが、やがて口を開いた。
「ちょっとさ、首まわり寂しくない?飾りがなくて」
「そうですか?」
 彼女はゆっくりと襟元に顔を近づけ、それから突然そこに唇を押し付けた。
「……!」
 あまりのことに驚く私を楽しそうに眺めて唇をはなす。淡いピンクのキスマークがくっきりと残った。彼女自身の唇の方はやや色が薄くなっている。
「ん、これでよし、と」
「何がよしですか!これから式ですよ!?」
「いいじゃない、他の女につけられたわけじゃないんだし。花嫁本人の愛のしるしよ?」
「……まったくもう。これだから油断できないんだ、あなたって人は」
 憮然として呟くと、彼女はからかうように笑った。
「スリル満点の結婚生活よ。素敵じゃない」
 ああまったくだね。結婚することを告げたときに、すでに結婚していた友人からは一様にこんなことを言われた。「人生の墓場へようこそ」。墓場どころか、天国だか地獄も分からないよ。退屈しないことだけは間違いないな。――だけど、俺だけスリル満点ってのは不公平だ。
 口紅を直そうと身体の向きを変えかけた彼女を抱き寄せる。驚いて顔をあげた彼女の唇にキスをする。甘く柔らかな感触に、思わず腕に力がこもった。――何度唇を重ねても、その甘さと柔らかさに、そしてその唇が紡ぎ出す言葉に、胸が熱くなる。これから先も、きっと。たとえ、長い時間が過ぎて身体を重ねなくなっても。
 唇をはなして彼女の顔を覗きこむと、彼女が不敵に笑った。
「……やるじゃない、不意打ちなんて。君も油断ならなくなってきたわね」
「まあね、やられっぱなしじゃ面白くないですから」
「ほんと、退屈せずにすみそうだわ」
 後ろから小さな咳ばらいが聞こえた。マリアンヌがメイクボックスを持って笑っている。人前でラブシーンを演じてしまったことに気づいて、慌てて彼女を抱きしめていた腕をはなした。彼女が不満そうに睨み付ける。仕方ないだろ。
 そのとき、軽いノックの音に続いて、扉の向こうから声がした。
「ふたりとも、準備はいい?そろそろ時間よ」
「わかってるわよ」
 不機嫌そうに答える彼女に、思わず笑みがこぼれる。声の主は室町警視だ。――彼女との結婚が決まったとき、手伝わせて、と申し出てくれた。彼女とは犬猿の仲なので、意外な気がしたが。そう言うと、ちょっと苦笑して「わたしは寛容なの」と答えていた。
 扉を開けて入ってきた室町警視は、私の襟元に目をやって一瞬眉をひそめたが、口に出しては何も言わなかった。
「段取りの確認はもういいわね。――じゃ、あと5分だから」
 それだけ告げてくるりと背を向ける。その背中に向かって彼女が軽く舌を出した。子供ですかあなたは。
 再び閉じられた扉の前に、口紅を直した彼女と並んで立つ。ふと、彼女が口を開いた。
「ひとつ、聞きたいことがあるんだけど」
「何ですか?」
「君は、自分の妻に敬語を使うの?」
 ああ、そういえばさっきからずっと職場にいるときと同じ口調だった。彼女に対してはいつもこんな調子なのであまり気にしたことはなかったが、考えてみたら変だよな。だけど、いきなりフランクに話すなんてできるもんか。――ま、さすがにベッドにいるときは名前で呼んでたけどさ。
 彼女の皮肉っぽい質問にどう答えたものか迷っていると、扉の向こうから音楽が聞こえてきた。新郎新婦入場の合図だ。彼女が小さく呼吸を整えて、私の顔をじっと見つめた。いつになく、真剣な表情で。頬がやや紅潮している。緊張しているのだろうか。珍しいな。微笑んで、ややぎこちなく右手を差し出した。――俺だって、かなり緊張してるんだ。知ってた?

「行こうか、涼子」

 言葉は、意外と自然に滑り落ちてきた。自分でも驚いた。差し出した掌に、彼女がゆっくりと左手をのせ、握り締めてきた。応えて、強く握り返す。彼女の顔に笑みが広がる。挑戦的ではない、やわらかな微笑み。彼女がこんな表情をすると知ったら、皆どんなに驚くことだろう。――教えてやらないけど。
 涼子。愛してる。愛してるよ。言葉ではとても言い尽くせないほど。
 だから、言わなくても察して欲しいのが本音だけど、それが怠惰だと言うなら、この掌で、腕で、唇で、言葉よりも雄弁に伝えたい。きっと、とても時間がかかってしまうだろうけど、呆れないでつきあってくれるだろうか。

「うん。行こう、準一郎」

 彼女が初めて私の名前を呼んだ。目の前の扉が開く。強く彼女の手を握ったまま、溢れる光の中に踏み出した。



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