誰そ彼




 病室の窓に切り取られた空は、鮮やかな赤に染まっている。
 ――燃えているみたいだ。
 普段なら美しいと感じるはずのその色に、その日はそんな印象を抱いた。よく晴れた夕暮れなのに、嵐の前のように胸が騒ぐ。どうしてそんな風に感じるのか分からず、昴流は戸惑った。
「……暗くなってきましたね」
 不安になるのは、そのせいかも知れない。明かりをつけようと立ち上がりかけた昴流の手を、星史郎が軽く押さえた。
「大丈夫ですよ、昴流くん」
「でも」
 振り向いた昴流に、星史郎は穏やかに微笑んだ。その右目は包帯に覆われたままだ。光を失うほどの深い傷が、そう簡単に癒えるはずもない。それでも、昴流の前では星史郎はいつも微笑んでいた。以前と同じように。胸が詰まって、昴流は俯いた。
「暗いと、目に負担が……」
「このくらいなら、まだ大丈夫ですよ。ですから」
 あたたかい掌が昴流の頬に触れた。促されるままに顔を上げた昴流の瞳を、星史郎が正面から見つめた。
「もう少しだけ、ここにいてくれませんか」
 彼はそう言った。いつもと同じように、優しい声で。
 けれど、いつもなら昴流を安心させてくれるはずのその声は、昴流の不安を拭ってはくれなかった。昴流は少しだけ躊躇ったあと、小さく頷いた。



「今日はお仕事の帰りですか?」
「……いえ、今日は学校に」
「お忙しそうですね。無理をなさっては駄目ですよ」
「はい」
 昴流の短い返事のあと、室内には沈黙が満ちた。街路樹の風に揺れる音が、微かに耳に届く。何か話さなければ、と、昴流は口を開きかけたが、言葉は何も思い浮かばなかった。唇を引き結んで、手元に視線を落とす。昴流の手の上には、星史郎の手が重ねられたままだった。
 何か話して欲しい。大きな手を見つめながら、昴流は願った。
 沈黙が怖い。
 そう思ったのは初めてだった。

 星史郎は話し上手で話題が豊富だ。彼と過ごしていて、話題に困ったことはなかった。かといって、必要以上に喋りすぎるということもない。会話が途切れて、ただ静かに過ごす時間も、昴流にとって安らげる時間になっていた。これまでは。
 けれど今は、星史郎との間にある沈黙が、昴流に重くのしかかってくるように感じられる。息苦しいほどの感覚にとらわれながら、昴流は、もう星史郎と以前のような時間を過ごすことはできないだろうと思った。昴流自身が招いたことだった。星史郎は昴流のせいではないと何度も言ってくれたが、星史郎の右目から光を奪ったのは、昴流の行動の結果なのだから。大切なものを奪っておいて、今までのように過ごしたいなんて虫が良すぎる。そう考えて、昴流は唇を噛んだ。
 いつもなら、昴流の感情を敏感に察して細やかな気遣いを見せる星史郎は、俯いて黙り込んだままの昴流に、声をかけることはしなかった。ただ、昴流の手を引きとめたまま、その手を動かすこともしなかった。大きな手に包まれる感覚を手袋越しに受け入れていた昴流は、あることにふと気がついた。

 もう少しだけ、ここにいてくれませんか。
 そう言って、いま昴流を引き止めているのは、星史郎の方だった。

「……星史郎さん」
 おずおずと呼びかける声は、少し掠れていた。何でしょう、と答える星史郎の声は、相変わらず穏やかだ。
「何か、僕にできることはありませんか」
 俯いたまま尋ねる。少し間をおいて、星史郎が明るく答えた。
「エンゼルクリームなら、ちゃんと買ってきて下さったじゃありませんか。僕は食べられませんでしたけど」
「そんなことじゃなくて」
 顔を上げると、星史郎の視線と正面からぶつかった。続く言葉が思い浮かばず、昴流はまた黙り込んでしまった。星史郎は笑みを向けながら、静かに言った。
「僕は、昴流くんに償って欲しいとは思っていません。昴流くんのせいではないんですから」
「……でも、何かしたいんです」
 何でもいい、何かさせて欲しい。切実な思いに駆られながら、昴流は繰り返した。自分の手を包んだままの、この温かさに答えたい。そうできるなら、きっとこの息苦しさを忘れられる。不安を拭い去れる。以前と同じように、この人のそばで安心して過ごせる。
 星史郎は、昴流を黙って見つめていたが、やがて言った。優しい微笑を浮かべたまま、穏やかな口調で。

「昴流くんは、僕のそばにいるのがつらいんですね」

 その言葉は、昴流の胸に深く突き刺さった。答えることも忘れ、呆然と星史郎を見つめる。星史郎は、もう一方の掌で、昴流の頬をそっと包んだ。
「僕は、償いを求めているわけじゃありません。ただ、昴流くんにそばにいて欲しいだけです。……でも、昴流くんには、“償う”という理由が必要なんですね。理由がないと、僕のそばにいるのがつらいから」
 穏やかな声にもかかわらず、星史郎の言葉は、針を打ち込むような痛みをもたらした。違います、とようやく答えた昴流の声は震えていた。
「つらいなら、無理にここへ来なくてもいいんですよ」
「違うんです……」
 昴流の両眼から涙が溢れた。頬を包んだ星史郎の手が濡れた。俯いた昴流の頬からその手が離れた次の瞬間、肩を引き寄せられた。昴流は逆らうことなく、星史郎の胸元へ身を寄せた。
 そばにいるのがつらい。そうかも知れない。息苦しさや不安を抱えたままでいるのはつらい。それが、星史郎に対して感じている罪悪感から来るものなら、償うことで拭い去れるのではないか。そう考えたことは否定できない。
 でも、ただそばにいるのがつらいから、理由を必要としているわけじゃない。つらくても、理由を作ってでも、星史郎のそばにいたい。星史郎のためではなく、昴流自身のためだった。
「違うんです。ごめんなさい、ごめんなさい……」
 パジャマの胸元を涙で濡らしながら、昴流は何度も繰り返した。星史郎が入院した翌日、初めてこの病室を訪れたときと同じように。
「昴流くんのせいじゃないんですよ」
 昴流の背中を撫でさすりながら、星史郎も同じようにそう言った。
「昴流くんが、責任を感じることは何もないんです。……これからも」
 最後に付け加えられた言葉は、昴流の耳には届かなかった。



「ああ、もうこんな時間だ」
 星史郎の声に、昴流は顔を上げた。日はとうに沈んでしまっていて、明かりのついていない病室には、外からの街灯がかすかに差し込むばかりだ。
「あ……すみません、こんな時間まで」
 昴流は慌てて星史郎から離れた。「遅くまで引き止めてしまったのは僕ですから」と星史郎は笑った。暗い病室の中では表情はよく見えなかったが、声は明るかった。
「電気、つけますね」
 立ち上がる昴流を、今度は星史郎は引き止めなかった。電灯のスイッチを探し、明かりをつける前に、昴流はふと振り返った。ベッドの上に身を起こしている星史郎の影が、窓の外からのわずかな明かりを背にして浮かんでいる。

 ――暗いのは、光を背にしているせいだろうか?
 昴流に視線を向けているはずの星史郎の顔がよく見えないのは、そのせいだけだろうか。
 急に闇が濃くなってしまったように感じるのは、ただ日が暮れてしまったから、というだけのことなのだろうか。
 窓からの風が、急に冷たくなったように感じられるのも、そのせいだろうか。
 身を射るような、冷たく鋭い視線。いつか、どこかで受けたような気がするのはどうしてだろう。

 いま、昴流を見つめているのは、本当に星史郎だろうか?

「昴流くん?」
 訝しげな星史郎の声に、昴流は我に返った。明かりをつけると、ベッドの上で星史郎はさっきと同じように昴流に笑みを向けていた。
「スイッチ、探しにくかったですか?」
「いえ、大丈夫です。すみません」
 謝りながらも、昴流は安堵していた。最初から、この病室には昴流と星史郎しかいなかった。どうして今、あんな考えが浮かんだのだろう。星史郎の手が、昴流の目元にそっと触れた。
「目が赤くなってますね。泣かせたと北都ちゃんにばれたら、怒られてしまいます」
「星史郎さんのせいじゃないですから」
 困ったような星史郎の口調に、つい笑みを誘われながら昴流は答えた。さっきまで感じていた息苦しさも不安も、今はもう感じない。星史郎が拭い去ってくれたように、昴流には感じられた。
「そうでなくても、今日は遅くまで引き止めてしまいましたし」
「それも、星史郎さんのせいじゃないです。遅くまでお邪魔してすみません」
 昴流はぺこりと頭を下げると、少し躊躇ってから続けた。
「明日、また来ます。来てもいいですか」
 笑みを浮かべていた星史郎の表情が、明日、という言葉が出たとき、わずかに緊張を帯びたように見えた。
「あ……すみません、ご迷惑なら」
 慌ててそう言いかけた昴流に、星史郎はすぐに微笑を浮かべた。
「いえ、でも、さっきも言いましたが、無理に来なくてもいいんですよ」
「無理じゃありません。……来たいんです」
 昴流は、星史郎を正面から見つめて言った。星史郎は優しく微笑んだまま昴流の視線を受け、頷いた。
「ありがとうございます。待ってますね」



 病院を出た昴流は、立ち止まって、今出てきた建物を見上げた。明かりのついた窓がいくつも並ぶ壁面を、視線でゆっくりとたどって行く。それが星史郎の病室にとまった瞬間、昴流は息を呑んだ。

 明かりが消えている。

 明るい光の並ぶ壁面で、その一室だけが闇に閉ざされていた。そこが星史郎の病室であることは間違いない。さっき明かりをつけたばかりなのに、どうして消えているんだろう。
 たいした理由ではないのかもしれない、と思いながらも、昴流の脳裏に、あの影が甦った。光を背にして、昴流を見つめていたあの影。
 あの部屋には、昴流と星史郎しかいなかった。でも、あの影から感じた気配は、星史郎のものとは思えなかった。だから思ったのだ。あれは本当に星史郎か、と。
 気のせいでしかなかったはずのあの一瞬の感覚が、鮮明に甦った。拭い去られたはずの息苦しさが、再び昴流を襲った。嵐の前のように胸が騒ぎ始める。

 四角く切り取られた闇の向こうから、確かに誰かが昴流を見つめている。

 昴流は、その視線を受けたまま、その場に立ち尽くしていた。
 あの部屋にいた人の表情を、声を、掌の温度を、背中を抱き寄せた優しい腕の感覚を、脳裏に思い浮かべる。そのどれも、いま昴流を見つめている視線の主とは重ならなかった。冷たく鋭いその視線は、昴流が思い浮かべているものとは対極にあった。そんな気配を持つ人物を、昴流は知らないはずだった。なのにどうして、どこかでその視線を受けた気がしているのだろう。――どうして僕は、いま視線をそらせずにいるのだろう。
 記憶にある人の姿と、視線。どちらも同じくらいの存在感を持って、昴流を翻弄した。

 あの人は、誰。

 ぐっと拳を握り締めると、昴流は踵を返した。そうしなければ、あの視線に捕らわれたまま、永久に動き出せないような気がした。昴流が背を向けた途端、視線の主の気配はそこから消えた。安堵したような、その一方で見放されたような気分が昴流を包んだ。
 もう一度振り返って、あの窓に明かりがついていることを確かめたかったけれど、それもできなかった。明かりがついているのを見れば、きっと安心できるけれど、それを確かめれば、いま感じていた気配との差に、ますます混乱してしまうかもしれない。昴流は振り返ることなく、歩みを速めた。

 あの人は、違う。
 あれは、僕がそばにいたいと願っている人の気配ではない。

 そう信じていたかった。
 あの闇に、魅入られそうになったことも忘れたかった。




2009.4.16