祝祭前夜




 降り注ぐ花の下で、二人の人物が向かい合っている。
 その情景を、雪華は少し離れたところから眺めていた。

 ――あれは、星史郎。
 学生服の青年に目を向け、雪華は確認するように胸中に呟いた。間違いない。しかし、彼女の記憶にある姿よりも、幾分か大人びている。見るたびに大きくなっているような気はしていたけど、急に大人になってしまったみたいねえ、と彼女はぼんやりと考えた。
 星史郎と向かい合っているのは、白い着物を着た子どもだった。漆黒の、癖のない艶やかな髪に、象牙色の肌をしている。大きな瞳をまっすぐに星史郎に向けながら、彼が何か言うのに頷いたり、首を振ったりしている。少年か少女か判断し難い、散り降る花そのもののように美しい子どもだった。
 星史郎の足元には、同じ年頃と思しき少女の骸が無造作に打ち棄てられているのだが、子どもの瞳にはそれは映っていないようだった。二人が何を話しているのか、雪華には聞こえなかった。遠くて聞こえないのではなく、音そのものが存在しないかのようだった。
 星史郎の言葉を聞いていた子どもの瞳が、ふいに潤んだ。小さな唇が何かを告げる。途端に星史郎の様子が変わった。笑みを浮かべてはいても、何の感情も宿していなかった彼の瞳に、興味の光が宿る。
 愉しげな笑みを口元にひらめかせると、星史郎は膝をついて、子どもの瞳を正面から覗き込んだ。ゆっくりと唇が動く。瞬きをするのも忘れたように星史郎を見つめながら、子どもはじっとそれを聞いている。やがて、子どもの両手を掌におさめると、星史郎は一方の手の甲に唇を当てた。子どもの意識が遠のき、小さな身体が崩れ落ちる。捉えた両手でそれを支えながら、星史郎はもう片方の手にも唇を当て、静かに顔を上げた。白く小さな手の甲から血が滴り落ちた。柔らかな肌の上に、星の形をした傷が残された。その傷が持つ意味を雪華は知っていた。“獲物”の印だ。
 ――その子を殺すのは、今ではないのね。もう一度会いたいの?
 雪華がそう考えたとき、星史郎が雪華を振り向いた。口元には笑みが残っている。しかしそれは、子どもの言葉を聞いたときに見せた愉しげなものではなく、何の感情も宿していないただの仮面だった。雪華が見慣れている表情だった。

 強い風がふいに起こり、花弁が舞い上がる。雪華は袖で顔を覆った。

 降り注ぐ花の下に、また星史郎が佇んでいる。
 今度は学生服ではなかった。黒いコートに、黒いスーツ。均整の取れた長身には、もう少年の影は残っていない。右目を包帯が覆っている。怪我をしたのね、と雪華は思った。なぜ、何のために? ――誰のために?
 星史郎の足元には白いものが転がっている。白いジャケットを着た、華奢な少年。それはあの子どもだった。虚ろな両の眼から涙が溢れている。力なく投げ出された手の甲に、印が残っていた。
 桜の枝が少年の身体を絡め取り、磔にするように幹へ取り込んでいく。少年は無抵抗でそれを受け入れている。星史郎は少年に語りかけている。先程と同じように、笑みを浮かべながら。少年は、両眼に悲しみを湛えて星史郎を見つめていた。濡れた瞳に、今にも消えそうな弱々しい光があった。唇がかすかに、ゆっくりと動いた。名前を呼んでいるのだろうと雪華は思った。どんな声をしているのかしら。
 雪華は自分の“獲物”に、あんなに悲しげな、美しい瞳で見つめられたことはなかった。名前を呼ばれたこともない。多くの獲物にとって、彼女は“雪華”ではなく“桜塚護”だった。だから、少年が星史郎を呼ぶ声を聞いてみたいと思った。
 星史郎はなおも少年に語りかける。やがてその手が、少年の細い首にかかった。少年は静かに目を閉じた。
 ――本当に壊してしまうの? その子はもういらないの?
 雪華の問いかけに、星史郎がまた振り返る。口元に笑みを刻んで。
 左眼に、雪華が見たことのない揺らぎがあった。

 再び、強い風が起こった。

 今度は、花は舞っていなかった。
 崩壊しかかっている巨大な橋の上だった。遥か下方に、暗い水面が見える。海の上なのだろうと思ったが、潮の香りも、波の音もしなかった。
 星史郎は倒れていた。コートの背中に穴が開いて、周囲が赤黒く汚れている。横たわる身体を、別の腕が抱きかかえていた。白いコートを着た細身の青年だった。左の袖口が赤く染まっている。星史郎の血ね、と雪華は思った。その瞬間、それまで静かだった胸が騒ぎ出すのを感じた。今、星史郎は死へ向かいつつある。この青年の手によって。その事実が示す“意味”に思い当たり、雪華は我知らず、強く手を握り締めた。
 今度は、星史郎の顔は雪華には見えない。自分より大きな身体を抱きかかえ、呆然としている青年の表情だけが見えた。こんなはずではなかったのに。声にはならないその思いが、雪華には聞こえた気がした。星史郎が何か言ったのだろう、青年の唇が動いた。長い言葉を彼は紡いだ。やがて、その眼から涙が溢れ出した。いつしか星史郎を強く抱きしめていたその手の上に、透明な雫がいくつも落ちた。自らの血に染まった星史郎の手がゆっくりあがって、青年の頬を愛おしげに撫でた。最後の力を振り絞って身体を起こすと、青年の耳元に顔を寄せる。ほんのわずかの間そのままの姿勢でいたが、やがて再びその身体が崩れ落ちた。もう起きあがることがないのは確かだった。青年は再び、その身体を抱きしめた。
 もう星史郎は動かない。その様子を目の当たりにしても、雪華自身には悲しみはなかった。重要なのはそのことではなかった。初めて雪華は声を発した。
「貴方はだあれ?」
 そのとき、雪華の声に答えるように青年が顔を上げた。涙に濡れたままの瞳が、正面から雪華を見つめた。右目は白く濁り、光を映さないのは明らかだが、その様が左目に残る澄んだ輝きを際立たせていた。冬の星空みたいだわ、と雪華は思った。とてもきれい。雪華はしばらく、その瞳に見入った。そして、ようやくその青年が、あの子どもであり、あの少年であることに気づいた。
 ――そう、貴方なのね。
 その刹那、雪華の胸の内に激しい波が起こった。それと呼応するように風が吹き始める。雪華は袖で顔を覆うことはせず、黒髪を風になぶらせながら青年の顔をひたと見据えた。
 青年の唇が微かに動いた。その声を、言葉を、雪華は捉えようとした。



「……さん、母さん」
 呼びかける声にゆっくりと目を開く。ぼんやりと霞んだ視界の中心で、星史郎が笑みを向けていた。庭に面した縁側は、ひんやりとした清浄な空気に満ちていた。すでに日は落ちて、薄闇が覆い始めている。制服のままの星史郎は、その中に溶け込んでいくように見えた。
「こんなところで寝たら、風邪を引いてしまいますよ」
 見慣れているはずの姿に違和感を覚え、雪華は身を起こしてじっと星史郎を見つめた。そして、首をかしげて尋ねた。
「なんだか縮んでない?」
「縮んではいない……と思いますが」
 唐突に問いかけられ、星史郎もわずかに首をかしげた。年齢の割に大人びた印象のある彼だが(もっとも、大人びているというのは周囲の人間の評で、彼と同じ年頃の少年が平均的にどういうものなのか雪華自身は知らなかった)、首をかしげるしぐさにはまだ幼さが残っていた。星史郎が、先月十五歳を迎えたばかりだということを思い出し、ようやく雪華は、先程まで夢を見ていたのだと悟った。
 夢だとすぐに認識するには、何もかもが鮮明だった。降り注ぐ花の色、白い袖を濡らした鮮血、冬の星空のようなあの瞳。――そして、その情景を見つめていた雪華の胸に生まれた、荒れ狂う波。雪華は、自分の胸元にそっと手を当てた。今は凪いだように穏やかになっている。
「……そうね、あれは夢だものね」
 安堵したように呟いた雪華に、星史郎が尋ねた。
「どんな夢ですか?」
「教えてあげない」
 口元に悪戯っぽく笑みを浮かべながら言うと、星史郎は「そうですか」とあっさり諦めた。雪華の隣に座り、庭に目を向ける。星史郎の視線の先で寒椿が開いていたが、彼はそれに興味がないようだった。いや、そうではない。
「……星史郎は、私がどんな夢を見たのかも、縁側で寝てて肺炎になっても、本当にどうでもいいのね」
 拗ねた口調で呟くと、星史郎はやや大げさに、口ぶりだけは困ったように言った。
「ひどい言われようだなあ」
「本当のことでしょう」
 星史郎は、今度は苦笑で答えただけで、雪華の言葉を否定はしなかった。この少年は本当に、この世のどんなことにも、誰のことにも興味がないのだと、雪華はよく知っていた。この“家”が、彼をそのように育ててきたのではない。その必要さえなかったのだ。

 ――そうだとしても、私は貴方が好き。

 雪華は星史郎の手の上に、そっと自分の手を重ねた。冷たく、滑らかな感触。まだ少年らしさを失っていないこの手は、いずれ多くの人の血に染まることになる。その最初の贄は雪華自身だ。間もなく訪れるはずのその日を、雪華は胸をときめかせて待ち続けてきた。貴方に最初に血の味を教えるのは私、と。そして、愛する人の手が自分の命を絶ち、その腕に抱かれて息絶える甘美な瞬間を、何度も思い描いた。今もその瞬間を空想しながら、雪華は何度も指を滑らせ、星史郎の手の甲を撫でた。くすぐるような愛撫を星史郎は黙って受け入れていたが、やがて口を開いた。
「僕は、貴方が聞いて欲しい話なら黙って聞きますし、貴方が望むことなら、その通りにしたいと思っていますよ」
 雪華は手を止め、星史郎を見上げた。濃くなってきた闇の中で、星史郎も彼女を見つめていた。口元に優しげな微笑を浮かべて。雪華を見つめる瞳は硝子のように透明で、あたたかくはなかったが、ひとかけらの嘘もなかった。雪華にはそれで充分だった。艶やかな紅い唇で笑みを返すと、雪華は星史郎の肩に頭を乗せた。目を閉じて、うっとりと胸中に呟く。

 ――そうね。今の貴方は、まだ私だけのもの。私にだけ忠実な、からっぽのお人形さん。

 けれどそれは、雪華が生きている間だけのこと。“継承式”が終われば――雪華が死ねば、彼女はもう星史郎を縛ることは出来ない。分かっていたことだ。それでいい、と彼女は思っていた。つい先程までは。

 楓の葉のような、小さく愛らしい手。そこに刻まれた“獲物”の印――所有の証。
 星史郎が選ぶのだ。自らの意志で。あの子が欲しい、と。
 そして夢見るのだ。あの手が彼の血に染まる瞬間を。その腕に抱かれて迎える最期を。
 雪華が星史郎を望むように、星史郎はあの子を望むのだ。

 いずれ、星史郎も他の誰かに命を明け渡す日が来ると、雪華は知っていたはずだった。けれど、それは遠い未来のこと。自分が関わることのできない星史郎の未来には、興味はない。そう思ってきた。あの光景を見るまでは。あれはただの夢ではなく、未来の情景なのだと、雪華は悟ってしまった。
 凪いでいた胸が、再びざわめき始める。唇を一度きゅっと噛むと、雪華は目を開いた。
「星史郎」
「何でしょう」
「お部屋に戻るわ、連れて行って」
「はい」
 素直に頷くと、星史郎は雪華を抱き上げた。その腕が持つしなやかさと強さを心地よく感じながら、雪華は星史郎の胸元へ頬を寄せた。制服越しに感じる、規則正しい心音。――機械のように、正確な。

 いつか、私じゃない人をこの腕が抱く。
 私じゃない人のそばで、この心臓が止まる日が来る。

 見上げると、星史郎も雪華を見つめていた。あたたかさのない、けれど澄んだ眼差し。

 私じゃない人を、この眼は最期に見つめる。
 何もかも、私の手の届かない未来。そう、分かっていたこと。だけど――。

 雪華はうつむき、再び星史郎の胸元に頬を寄せて目を閉じた。彼が最期に見つめていた人の姿が、鮮明に脳裏に甦った。

 見たくなんてなかった。知らないままでいたかったのに。

 冬の星空みたいにきれいな瞳をしていた人。
 私が辿り着けない未来で、星史郎の心を奪っていく人。

 ――知りたくなんてなかったのに。

 目を閉じたまま、深く息をつく。
 星史郎は足を止めなかった。どうかしましたか、と尋ねることもしなかった。




2008.5.2