Letters




 神威ちゃん、お元気ですか? 私とお兄ちゃんは元気です。
 4月から中学生になりました。新しい友達もできて、毎日とても楽しいです。お兄ちゃんと自転車で通っています。学校へ行く途中に、きれいな桜並木があるの。神威ちゃんと一緒に歩けたらいいなっていつも思っています。
 神威ちゃんの学校は、どんなところですか?



 手を止めて、小鳥はため息をついた。便箋に並んだ文字を読み返す。
 書いている間は、伝えたいことがあとからあとから溢れてくるように思えるのに、一度手を止めて読み返してみると、書かれたことはどれもつまらないことのように感じられた。本当に伝えたいのは、こんなことじゃない。そんな気がする。でも、何を本当に伝えたいのか、小鳥自身にもはっきりとは分からなかった。
「小鳥? まだ起きてるのか」
 呼びかける声に振り返る。開いたドアの向こうに封真が立っていた。
「明日、日直なんだろ。もう寝ないと」
「うん。手紙書いてから寝ようと思ってたの」
 小鳥の返事に、封真の表情がやわらいだ。誰に手紙を書いていたのか、封真も知っていた。
「そうか。じゃあ、あんまり遅くならないようにな」
「うん。おやすみなさい、お兄ちゃん」
「おやすみ」
 妹の頭を軽く撫でると、封真は自室へ戻っていった。中学生になってから日ごとに身長が伸び、もうすぐ父と同じくらいになるはずの兄の後姿を見ながら、神威ちゃんが見たらびっくりするだろうな、と小鳥は思った。神威ちゃんはどうかしら。私と同じくらいの身長だったけど、今はもう大きくなっているかしら。
 机に戻り、もう一度便箋を読み返してから、机の一番上の抽斗を開けた。便箋をそろえて、そこへ入れる。
 その下には、同じような書きかけの手紙が何枚も重なっていた。

 それほど長い時間を過ごしたわけではない。小さくて大人しかった男の子のことを、同じ小学校に通っていた友人たちももう覚えてはいない。しかし、小鳥にとって、神威と過ごした時間は、何よりも大切な思い出だった。封真にとってもそうだろう。
 その神威が引っ越してしまったことに気がついたのは、小鳥と封真の母の葬儀が終わったあとのことだった。他に付き合いもなく、ひっそりと暮らしていた母子の行き先を知っている人は誰もいなかった。
 ――でも、必ず戻ってくる。そのときにはきっと逢えるさ。
 父も行き先を知らなかったが、静かに、確信に満ちた口調で言った。
 ――ほんとう? また神威ちゃんにあえる? ほんとに?
 泣きながら父の膝にすがりついて尋ねた小鳥と、その傍に佇む封真に、何故か悲しげなまなざしを向けたあと、父は頷いた。その後、父のほうから神威たちのことを話題にすることはなかった。

 それから、小鳥は手紙を書くようになった。
 どこに住んでいるのかも分からない相手に、実際に届けることはできない。分かっていても、書かずにはいられなかった。

 神威ちゃん、お元気ですか。
 今日はこんなことがあったよ。
 お兄ちゃんが、剣道の大会で優勝しました。
 雪が降ったよ。
 桜が咲いたよ。

 そばで過ごしていれば、当たり前に話せるようなこと。そんなことばかりを、小鳥は書き綴った。当たり前に話せるようなことを、神威に伝えたいと思った。
 けれど、その手紙が書き上げられたことはなかった。いつも途中で、本当はこんなことを伝えたいんじゃない、という思いにとらわれてしまう。しかし捨てることもできずに、抽斗の中に言葉は積もっていった。

 小鳥は抽斗を閉じて、小さくため息をついた。明かりを消して、ベッドにもぐりこむ。眼を閉じて、神威の姿を描いた。いなくなったのは、小学校三年生のとき。そのときの姿のまま、神威は小鳥に笑いかけていた。今、どんな姿に成長しているのか、小鳥には想像もできない。同じクラスの少年たちとも、兄とも違う、大好きな男の子。

 ――逢いたいな。
 思い出じゃなく、今の神威ちゃんに。逢いたい……。

 胸の中で呟きながら、小鳥は眠りに落ちた。



 目の前にいる少年を、小鳥はじっと見つめた。彼は小鳥の視線に気づかないのか、物思いに沈むように俯いている。再会したのは何日か前のことだったが、今やっと彼に逢えたような気がする。そう感じるのは、あまりにも多くのことが起こったせいかも知れない。
 わずか数日のうちに、小鳥の世界はあまりにも変わってしまった。

 高校生になったこの春、父の言った通り、神威は戻ってきた。
 優しかったはずの男の子は、鋭い眼差しと、人を寄せ付けない雰囲気を身につけていた。投げつけられた冷たい言葉に、小鳥は戸惑い、胸を痛めた。大好きだった男の子は、もういなくなってしまった。そう思った。
 その晩、大怪我をした神威を封真が連れて帰ってきた。何があったのかは分からなかったけれど、小鳥は懸命に看病した。どんなに変わってしまったとしても、神威は大切な人だった。苦しげな表情で眠っているその姿に、小鳥の胸はまた痛んだ。神威が目を覚ました直後、彼を知っているという人が訪ねて来た。封真と同い年くらいだっただろうか。関西弁で親しく話しかけてくれたその人を、神威と封真は何故か警戒しているようだった。
 深夜、父が亡くなった。ショックで倒れてしまい、葬儀は封真に任せきりにしてしまった。その間に、神威は姿を消してしまっていた。
 それから、今日。定期健診へ出かける途中、神威が以前住んでいた家の前を通りかかったところで、突然、ケーブルが意志を持った生き物のように襲い掛かってきた。常軌を逸した出来事から小鳥を救ってくれたのは、初めて会う大柄な男だった。不思議な能力を持ったその人も、神威を知っていた。

 そして、今。混乱している小鳥の前に、再び神威は現れた。
 驚いた拍子に転びかけた小鳥を、神威は優しく抱きとめた。言葉少なに小鳥を気遣う様子からは、再会したときのような冷たさは感じなかった。

 ――俺にかかわるのはやめろ。

 あの時言われた冷たい言葉は、彼の本心ではなかった。確かなことは何も分からないけれど、神威はきっと今、大きな嵐の中心にいるのだろう。小鳥や封真を巻き込むまいと、距離を置こうとしていたのだ、と小鳥はおぼろげながら感じた。

 大好きな神威ちゃんは、いなくなってなんかなかった。ちゃんとここにいた。

 その実感が、小鳥の胸をあたたかく満たした。
 お父さんはいなくなってしまったけど、私のそばにはお兄ちゃんと神威ちゃんがいてくれる。悲しいことも、きっと乗り越えていける。
 小鳥はふと、手紙のことを考えた。机の中にしまわれたまま、届けられることのなかった言葉。届けたかった相手は、いま目の前にいる。
 けれど、それを渡す必要はもうなかった。伝えたかった言葉は、本当はただ一言だけだった、ということに気づいた。小鳥は、軽く息を整えた。
「神威ちゃん」
 子どもの頃と同じように呼びかける。神威は顔をあげて、小鳥を見つめた。その瞳に、今は射るような鋭さはない。戸惑ったような表情で、けれどまっすぐに、神威は小鳥を見ていた。胸が高鳴り、頬が熱くなるのを感じながら、小鳥は言った。

「ずっと逢いたかったの。逢えて、とても嬉しい」

 神威は、眩しそうに目を細めた。それから、少しだけ口元を綻ばせた。優しい微笑みは、思い出の中よりも少し大人びていた。

 そう。ずっと、この人に逢いたかった。やっと伝えられた。

 溢れてくる幸せな気持ちに促されるように、小鳥も心からの笑顔で神威に答えた。




2009.4.20