診察室に入ってくるなり、シェパードは牙を剥いて星史郎を威嚇した。
「こら、だめよ、レオ。――すみません、どうしたのかしら」
 飼い主の女性はシェパードを叱りつけてから、困ったような笑みを星史郎に向けた。
「慣れないところに連れてこられたから不安なんでしょう。構いませんよ」
 そう返事して、星史郎はシェパードの目の高さに屈み込んだ。獰猛な視線が星史郎を射る。唸り声が漏れる。レオは恐らく、本能的に星史郎が何者であるか感づいたのだろう。賢い犬だ。
「大丈夫ですよ、レオ君。すぐによくなりますからね」
 目をそらさないまま穏やかに語りかけつつ、星史郎はレオに触れた。途端に唸り声がやみ、レオはおとなしく診察台に上がった。
「まあ、よかった。さすが獣医さんですね」
 見違えるように従順になったレオの姿に、飼い主の女性は安堵の声を漏らした。彼女は知らない。レオが星史郎に従っているのは、星史郎が術を使ったためだ。
 動物病院にやってくる患畜の中には、時折レオのような反応を見せるものがいる。人間には感じ取れないものも、彼らは敏感に察するのだろう。しかし、簡単な術を用いれば、診察の間はおとなしくさせておくことが出来るので、星史郎は気にしたことはなかった。表向きの職業に獣医を選んだのは、本来の職業にとって都合がいいというだけの理由だったから、僕は本当は獣医に向いていないのだろう、とは思ったが、それもただの事実の認識で、気に病むようなことでもない。
 レオの診察を始めようとしたとき、病院の玄関のドアが開く音がした。誰が来たのかは気配で分かる。星史郎は診察室から顔を出した。待合室のソファには、仔犬を連れた女性とその娘らしい幼い少女の二人連れが座っている。その向こうのドアの側に佇む人物に声をかけた。
「昴流くん、もう少しで終わりますから、座って待っていてくださいね」
「あ、はい。すみません、お忙しいときにお邪魔して」
 昴流は申し訳なさそうにそう言うと、ぺこりと頭を下げた。待合室のソファの母子にも会釈し、同じソファに少し間を空けて座る。母親の膝に抱かれた仔犬の頭をなでていた少女は、顔をあげて人懐っこく昴流に話しかけた。
「あのね、クウがげんきないの。ごはんたべないの」
「クウ? その子の名前かな? そう、心配だね。でも大丈夫、きっとよくなるよ」
 診察室へ戻る星史郎の耳に、少女に応える昴流の声が届いた。
 昴流は、診察時間帯には決して診察室へは入ってこない。星史郎の仕事の邪魔にならないように、と気を遣っているらしかった。優しい彼らしい心遣いは、星史郎にとっても都合がよかった。昴流が診察の様子を見たら、星史郎の術にも気づくだろう。人を疑うことを知らない昴流でも、さすがに不審に思うに違いない。昴流が見ている「桜塚星史郎」は、弱っている動物を、術で従わせるようなことはしない人物であるはずだから。
 今はまだ、不審に思われるのはあまり好ましくない。
 胸中に呟きながら、星史郎はレオの診察を再開した。



 診察を終えたレオが、飼い主の女性とともに診察室を出て行く。昴流が顔を綻ばせた。一方、仔犬を撫でていた少女は、大きな犬に怯えた目を向けて、母親にしがみついた。
 昴流はレオの側へ近づくと、触ってもいいですか、と主人に尋ねた。主人が微笑んで頷くと、昴流はレオの側に膝をつき、いたわるように頭を撫でた。レオはくつろいだ様子で、じっと眼を閉じている。
 診察を終えた時点で星史郎は術を解いていた。今、レオが昴流に身を任せているのは、昴流が術を用いたせいではない。やはり賢い犬だな、と星史郎は思った。目の前の少年が、彼に危害を加える人間ではないこと、犬に敬意と愛情を持っている人間だということを瞬時に見抜いている。
 レオの背を撫でていた昴流は、ふと振り返り、少女の視線に気づいて微笑んだ。
「おいで。大丈夫、怖くないよ」
「……ほんと? かまない?」
「噛んだりしないよ。友達になりたい、って思ってるんだよ」
 昴流の言葉と、眠ったようにおとなしいレオの姿に、少女は立ち上がり、おずおずと近づいてきた。小さな手がそろそろと伸ばされる。背中を指先でなぞるように一度撫でたあと、今度は掌全体でゆっくりと撫でた。レオは眼を閉じたまま、小さな掌の温度を受け入れていた。
「ほらね、大丈夫だろ」
「うん」
 少女が満面の笑みで応える。大きな犬への恐怖心はすっかり消えたようだった。会計と薬の処方を終えた飼い主が、レオをそっと促して立ち上がらせた。わんちゃん、ばいばい、と少女が声をかけると、飼い主の女性が小さく手を振り、レオは振り返って頷くような仕草をした。
「次の方、どうぞ」
 レオと飼い主が玄関の外へ消えるのを待って、星史郎は声をかけた。少女の母親が仔犬を抱いて立ち上がる。母親の後を追って診察室へ入りながら、少女は昴流を振り返った。
「お兄ちゃん、ありがと。ばいばい」
「またね」
 昴流が手を振る。二人が診察室へ入ると、待合室には昴流一人だけになった。星史郎は玄関ドアにかかった札を、“本日の診察は終了しました”の文字が外に向くように裏返した。
「僕から誘ったのに、お待たせしてすみません。もうすぐ済みますから」
「いえ、そんな。お仕事なんですから」
 星史郎の言葉に、昴流は慌てたように言った。ふと、これはいつもとは逆だな、と星史郎は思った。誘うのが星史郎のほうからなのはいつもと同じだが、“仕事”で遅れることが多いのは昴流のほうなのだ。昴流もそのことに気づいたのか、微笑しながら星史郎を見上げた。
「星史郎さんにいつも待って頂いているんですし、今日は僕が待ちます。クウを元気にしてあげて下さい」
「勿論です」
 昴流に頷いてみせると、星史郎は診察室へ戻った。母親の腕に抱かれた仔犬は、疑いを持たぬ様子で星史郎を見上げた。母親のそばに佇む少女も、同じ表情で彼を見つめている。母親に、少女に、そして仔猫に笑みを向けながら、星史郎は言った。先程の昴流の口調を真似て。
「大丈夫、きっとよくなりますよ」



 深いため息をついて、ふと傍らを見ると、昴流が気遣うような表情で星史郎を見上げていた。
「大丈夫ですか? 疲れてらっしゃるんじゃ……」
「いえ、平気ですよ」
 昴流の心配を振り払うように明るく答える。確かに、今日は珍しく“獣医”として忙しかった。診察時間終了間際まで患畜が途絶えないなんて滅多にないことだ。動物病院の経営者としては、普段が暇だというのは憂慮すべき事態かもしれないが、やはり本業ではないので気にしたことはない。
「今日はゆっくり休まれたほうが……僕は次の機会でもいいですから」
「いいえ! 今日は珍しく昴流くんがお仕事もなく、ゆっくりデートできる日だというのに、一人でのんびりなんてもったいないことできません!」
「え……えっと……」
 “デート”という言葉に、昴流が困惑しきった様子で俯く。星史郎はてきぱきと後片付けをしながら続けた。
「駅の近くに、おいしそうなレストランを見つけたんですよ。是非、昴流くんと一緒に行きたいと思ってたんです。近くですし、歩きましょう」
「……え、ええ」
 昴流は勢いに押されるように頷いた。遠慮深い上に頑固な一面があるが、食事に誘う程度のことなら、少し強引に押せば断りきれない。それを星史郎は充分承知していた。
 外出の支度を整えて玄関を開けると、昴流は星史郎のあとについてきた。頬に触れる夜風が心地よい。歩きながら、星史郎は昴流を振り返った。
「今日は、昴流くんが来てくださって助かりました」
「どうしてですか?」
 昴流が小さく首をかしげる。まっすぐに星史郎を見つめる眼差しに、さっきの仔犬に似ているな、と思った。疑いを知らぬ無垢な瞳。
「昴流くんがいなかったら、あの女の子は、大きな犬が怖くて泣いてしまったかも知れませんから。女の子にとっても、あの犬くんにとっても、悲しい出会いになったでしょうね。そうならずに済んで良かったです。ありがとうございました」
「え、い、いいえ、僕はただ犬と遊んでしまっただけで……」
 思いがけない言葉だったのか、しどろもどろになる昴流の頭に、星史郎は手を置いた。レオを撫でていた昴流の手の動きを思い出しながら、そっと滑らせる。昴流はすぐにそれに気づいた。珍しく、冗談めかして彼は言った。
「僕は星史郎さんを噛んだりしないですよ」
「知ってますよ。昴流くんになら噛みつかれても構わないんですけどね」
 同じように冗談めかして言いながら、ふと、この少年が誰かに牙を剥く瞬間があるのなら、それを見てみたいものだ、と星史郎は思った。
 星史郎の内心を知らないまま、昴流は微笑んでいる。どんな相手になら、彼は牙を剥くのだろう。考えてみたが、あのレオのように敵意を剥き出しにする彼の表情は、うまく想像できなかった。

 そうだ、レオのように、昴流が星史郎の正体を知ったら?
 そのときには、牙を剥く彼の表情が見られるのだろうか?

 思いついたひとつの可能性は、星史郎の気分を高揚させた。
 それならば。遠からず、彼のその表情に出会えるかも知れない。星史郎は、いずれ昴流の前で、温厚な獣医の仮面を脱ぎ捨てるつもりなのだから。
 もしも、昴流が最後まで星史郎の正体に気づかなかったら。そのときは、自分から彼に教えよう。自分がどんな人間なのか、どんな風に人を殺すのか、どれだけ彼を欺いてきたのか、ひとつひとつ丁寧に。
 そして、敵意にきらめく瞳を、怒りに染まる頬を、憎しみに歪む唇を、牙を剥く彼のすべてを網膜に焼き付けよう。

「昴流くん」
 呼びかける声が弾む。昴流は「はい」と答えながら、星史郎の上機嫌な様子に訝しげな表情をした。構わずに星史郎は続けた。
「もうすぐ着きますよ。たくさん食べましょうね」
「はい」
 首をかしげながら昴流はまた微笑んだ。星史郎の好意に戸惑いながら、疑ってはいない様子が愛らしい。星史郎も昴流に笑みを返した。胸中に呟きながら。

 昴流の牙を、より鋭いものにするために。星史郎の喜びを、より大きいものにするために。
 その日が来るまでは、たくさん可愛がってあげよう。




2010.7.9