彼方の人




「はい、昴流」
 学校から戻ってきた北都が差し出した紙には「進路調査」の文字が記されていた。
「今日、学校で書かされたの。昴流の分は明日持ってくから、書いといて」
「うん、ありがと」
「1年生なのに、もう進路調査があるんですねえ」
「そーなのよぅ。まあ、将来設計は早めに組み立てたほうがいいしね」
 星史郎の言葉に、やや大げさな溜息を交えて答えた北都は、真剣な顔で進路調査アンケートに書き込み始めた昴流の手元を覗き込んだ。
「やっぱり獣医学部よね」
「うん。あ、でも大学はまだ決めてないなあ。良く分からないし」
「決まってないところは空欄でもいいってさ。うちの大学部でいいんじゃないの?」
 そこで言葉を切ると、星史郎を振り返り、北都はにっこりと笑った。
「まあ、せっかく身近に獣医さんがいるんだし、進路相談に乗ってもらったら?」
「いいですね、何でも相談に乗りますよ」
 星史郎は笑って頷いたが、昴流は困ったような表情になった。
「でも、ご迷惑では……」
「何言ってるの、ねえ星ちゃん」
「そうですよ、愛する昴流くんの力になることを喜びこそすれ、迷惑だなんてあるわけないじゃないですか」
「え、えええ!?」
 さっと頬を紅潮させた昴流の、慌てふためく声が上がる。何度も繰り返してきたやりとりに、いっこうに免疫ができない昴流に笑みを向け、星史郎は優しい口調で続けた。
「僕にできることなら何でもお手伝いしますから、遠慮なさらず相談して下さいね」
「……ありがとうございます」
 まだ頬を染めたまま、昴流は素直に頷いた。北都が悪戯っぽく笑う。
「いい雰囲気になってきたじゃない。もう一押しよ、星ちゃん」
「ほ、北都ちゃん!」
「あはは。お茶いれてきますね」
 星史郎は立ち上がると、キッチンへ向かった。確か昨日、北都が紅茶を買ってきたと言っていたはずだ。いまや主の昴流以上にキッチンを知り尽くしている星史郎は、棚から紅茶の箱を取り出しながら、ひとり苦笑した。リビングから、二人の声が漏れ聞こえてくる。
「そういえば、北都ちゃんは何て書いたの? 進学?」
「それなんだけどさー、団地妻ってどこで修行すんの? やっぱ家政学科?」
「さあ……」
 どちらも楽しそうな声だった。――実際、楽しいことであるに違いない。受験勉強のことなどはさておき、自分の将来の姿を思い描くという作業は。不安も恐れも知らず、憧れと希望だけを糧に未来を夢見るのは、子どもだけの特権だ。けれど、普通の子どもと同じように、昴流が今そうして未来を描いている姿は、何だか新鮮に感じられた。

 昴流が、動物園の飼育係になりたがっているという話は以前から聞いていた。昴流らしいと思いながらも、少しばかり驚いたことを覚えている。幼い頃から「皇家当主」として生きることを余儀なくされた昴流の裡に、そんな意志が眠っていることが星史郎には意外だった。
 自分はどうだっただろうか。ケトルを火にかけながら星史郎は思いを巡らせた。皇家と桜塚家では家業の質が全く違うとはいえ、幼い頃から未来を決められていたという点では、昴流とさほど違いはない。獣医は、家業をサポートする意味合いのものでしかない。星史郎は、家業以外の職に就く自分の姿を思い描いたことはなかった。暗殺者以外の自分の姿を描いたことなど。家業を継ぐことを強く望んでいたわけではないが、それ以外の選択肢がないことに不満を抱いたこともなかった。

 育った環境が違いすぎる、ということなのだろうか。
 それとも、もっと根本的な違いなのだろうか。皇昴流という人間と、自分との。

 鳴り出したケトルが星史郎の思考を妨げた。火を止め、茶葉を入れたポットに湯を注ぐ。リビングからは、また二人の話し声が聞こえてきた。
「でもやっぱり、将来つきたい仕事のモデルが身近にいるっていいわね。まあ、星ちゃんは獣医さんだから、ちょっと違うけど」
「うん」
「どう? やっぱり星ちゃんみたいな仕事がしたい?」
 北都の言葉に、昴流は少し考え込むように首をかしげた。淹れたての紅茶を運んできた星史郎は、リビングの入り口で足を止めた。二人が星史郎に気づいた様子はなかった。少しだけ眼を伏せた昴流は、かすかに微笑みながら言った。

「……そうだね。星史郎さんみたいな人になれたらいいな」

 それは、北都の問いとは意味の異なる答えだった。北都もそれを察したらしく、無言のまま昴流をじっと見つめた。北都の視線を、昴流は先を促すものと受け取ったらしかった。
「あんな風に、穏やかで思慮深くて、一緒にいると安心できるような……優しい人になりたいんだ」
 昴流はそう言うと、まぶたを閉じた。夢見るような弟の横顔を、北都は苛立たしげな、そしてどこか切なげな瞳で見つめた。ふいに北都が顔を上げた。リビングの入り口に佇む星史郎を見据える。北都は鋭く射抜くような視線を向けたが、それは瞬きとともに掻き消え、打って変わって朗らかな笑顔を向けた。
「……だってさ、星ちゃん!」
「いやあ、バレてましたか」
 昴流が驚いたように振り返る。星史郎の姿をとらえた昴流の顔が、素晴らしい速さで真っ赤に染まった。
「ちょっとぉ、もうラッブラブじゃないの。もう早く結婚しちゃってよ」
「そうですねえ、次の大安にでも早速」
 楽しげに笑う北都に応えながら、星史郎は昴流の様子を見やった。昴流は、首筋まで赤く染めながら、俯いてしまっている。その頭を軽く撫でて、昴流くん、と声をかけた。なおも俯いていた昴流は、もう一度呼びかけられて、ようやくゆっくりと顔を上げた。その顔を優しく覗きこみながら、星史郎は言った。
「嬉しいですよ、ありがとうございます。……でも、僕と同じようになる必要なんてありません。昴流くんには、昴流くんにしかない美点がたくさんありますよ。僕は、“今”の昴流くんも、とても素敵だと思います」
 紅い頬のまま、まっすぐに星史郎を見つめていた昴流は、星史郎が言い終えると再び俯いてしまった。そして、ありがとうございます、と小さな声で呟いた。



「穏やかで、思慮深くて、優しい人……か」
 コトコトと音を立てる鍋の蓋を見つめながら、北都がぽつりと呟いた。星史郎は、葱を刻む手を止めた。昴流は自室で、学校の課題に取り掛かっている。
「星ちゃん」
「はい」
 北都は指でピストルの形を作ると、星史郎に向けた。ぴんと伸びた、形の良い人差し指が、星史郎の心臓にぴたりと狙いを定めた。
「前にも言ったけど、昴流を泣かせたら、本当に殺すからね」
 口元は笑っているが、瞳には真剣な輝きがあった。
 北都が、星史郎を疑いながらも、昴流の間近へと迎え入れていることを、星史郎も知っていた。審査されているのだ。もしも星史郎が昴流の害になると北都が判断したら、この少女は躊躇いなく星史郎を排除しようとするだろう。能力的に可能か不可能か、ということは、北都には問題ではないはずだ。
 ――その一方で、疑いを抱きながらも、星史郎が本当に、昴流の思う通りの人であって欲しいと願い始めていることも、星史郎は気づいていた。
 星史郎は、正面から北都と向かい合った。
「忘れてませんよ。そんなことはしません、約束します」
「ならいいわ」
 可憐なスナイパーは銃をおさめると、煮込んでいた鍋の蓋を開けた。味を確かめると、満足そうに一人頷き、次の準備に取り掛かった。星史郎も葱を刻み終えると、豆腐の上にそれを載せた。

 ――星史郎さんみたいな人になれたらいいな。

 屈託のない昴流の声と微笑みを思い出した。昴流はきっと、その言葉通りの人間になるだろう。穏やかで思慮深い、優しい人――彼自身の描いた理想の人間に。星史郎の本質とは全く正反対の人間に。
 いつか、自分の理想を重ねてきた人の姿が、薄っぺらいメッキに過ぎないことに気づいたとき、昴流はどうするだろうか、と星史郎は考えた。さぞ失望するだろう。当然だ。それから?

 悲しげに瞳を伏せて、黙って離れていくのだろうか。

 ふと脳裏に滑り込んできた考えに、星史郎は驚いた。そんなことは今まで考えたこともなかった。昴流が、自らの意志で星史郎の傍から離れていく、などということは。昴流との期限付きの繋がりは、星史郎の側にすべての決定権があるはずだった。これまで思いつきもしなかった一つの可能性は、湖に投げ入れた小石のように、星史郎の裡に小さな波を起こした。

 そのとき、僕はどうする?
 やはり黙ってあの子を行かせるのだろうか。
 ――そんなことが、できるだろうか?

「よし、できた。星ちゃん、お皿とってくれる?」
 北都の声が、星史郎の思考を遮った。何故か安堵に近い思いを抱きながら、星史郎は北都に皿を手渡した。
「昴流ー、ごはんよー」
 北都の呼びかけに、はーい、と答える声がして、昴流がキッチンに顔を出した。
「星ちゃんが手伝ってくれたの」
「そうなんだ、ごめんね、僕なにも手伝えなくて」
「いいのよ。昴流に手伝われたんじゃ、夕飯が明日になっちゃうわ」
「ひどいなあ」
 言いながら昴流は笑った。屈託のない笑顔を星史郎にも向ける。
「ありがとうございます、星史郎さん」
 澄み切った眼差しには、彼に対する全幅の信頼があった。射抜くような北都の視線を受けたときには感じなかった動揺を感じた。それを押し隠し、いいんですよ、と、いつもと同じように笑顔で応えた。
 いつの間にか当たり前になった、三人での夕食が始まる。おいしいです、と昴流は心から言い、お姉ちゃんと星ちゃんが愛情こめて作ったんだから当然よ、と北都が笑った。星史郎も微笑んだが、味はほとんど感じられなかった。時折手を止めて、盗み見るように昴流の横顔に視線を注いだ。

 この子の瞳に、僕に対する失望が揺らめいたとき。
 この子が、自分の意志で僕の傍から離れていくとき。

 そのときが来たら、僕は、この子を殺そう。

 傍らに座るこの少年に、明確な殺意を抱いたのはこれが初めてだった。きっと、どれほど言葉を尽くしても、昴流には分かってもらえないだろう。貴方が憎いからではない、ということなど。

 すぐ傍で、明るい声がする。
 時折、視線がこちらを見上げる。二言三言の他愛もない会話に、笑い声。
 ぬくもりを感じられるほど近い距離。

 けれどそこに確かに存在する少年との距離の遠さを、星史郎は実感していた。




2008.6.14