夜を駆ける





 招き入れられたその一室は、洗練された調度品の備えられた、広々とした空間だった。壁の一面を占める窓の向こうには、都心の夜景が広がっている。
 しかし、贅を尽くした部屋に満ちていたのは、安らぎではなく、冷たい死の気配だった。

「先週、こちらに滞在していたお客様が、急性心不全で亡くなられました」
 昴流を案内してきた初老の紳士は、淡々とそう告げた。このホテルの支配人であるこの紳士が、今夜の仕事の依頼者だった。
「ご遺族からのお願いがありましたので、公表は控えておりましたが……」
 依頼者の言葉を聞きながら、昴流は眼を閉じて部屋の気配を探った。微かではあるが、“術”が使われた痕跡が残っている。死因が心不全だとしても、それは明らかに何者かによって引き起こされたものであった。“何者か”。脳裏に浮かび上がりかけた影を、昴流は振り払った。まだ簡単に気配を探っただけだ、断定はできない、と自らに言い聞かせる。しかし一方で、ほとんど確信に近い思いを抱いてもいた。
 この部屋で死んだ者が何者であったか、依頼者は語らなかったが、昴流はある程度把握していた。何年か前には閣僚も務めたことのある代議士で、その頃に関わったとされる汚職事件が発覚し、捜査の手が迫っていた。その死はまだ公表されていない。依頼者から受け取った資料とは別に入手したそれらの情報を思い起こしながら、昴流は胸中に呟いた。
 ――“条件”は揃っている。
「あの……」
 控えめに呼びかける声に、昴流は依頼者を振り返った。
「当ホテルの信頼に関わることでございますので、その……」
 言い淀む依頼者に、昴流は頷いた。
「秘密は守ります」
「ありがとうございます。何かお手伝いすることはありますか」
「いいえ」
「では、終わりましたらご連絡を」
 丁寧に頭を下げると、依頼者は部屋を出て行った。ドアが完全に閉じられると、部屋に満ちている死の気配が、いっそう濃さを増して昴流を包んだ。昴流はもう一度眼を閉じると、今度は印を結んで気配を探った。暗く冷たい部屋の中に、ほんの一瞬、ほのかな甘い香りが揺れた。“殺人”が行われた部屋にはあまりにも場違いなはずのそれは、花の香りだと認識できたときにはすでに消えてしまっていたが、昴流にはその一瞬で充分だった。印をとき、眼を開くと、昴流は深く息をついて、ゆっくりと部屋を見回した。

 ――ここに、あの人がいた。

 先程感じたあの感覚は、間違っていなかった。しかし、そこに喜びはなかった。



 こういった依頼は、以前から時々あった。あの人と過ごした一年間よりも以前から。
 不自然に“気”の澱んだ場所や、今夜のような“呪術”の行われた痕跡の残る場所の除霊。昴流に直接依頼されるものも、「他の術者では手に負えないから」と回されて来たケースもあった。少年だった頃には、何があったのか疑問には思っても、その背景を知ることはできなかった。
 今ならわかる。あれは、あの人の“仕事”の痕跡だったのだ。
 要するに後始末をさせられていたのだ、と悟ったが、そのことに対する怒りは感じなかった。感じたとしても、そのことに気がついたときにはもう、怒りをぶつけるべき相手は昴流の傍から去ってしまっていた。昴流の半身とも言うべき存在だった人を、永遠に奪って。
 今は、この“後始末”だけが、昴流と彼を繋ぐ糸だ。一方的に残される、たった一つの。

 部屋の中央に置かれたソファに、昴流は腰を下ろした。この部屋の滞在者が息絶えていたというその位置からは、部屋の扉が正面に見える。昴流は目を閉じた。

 黒のスーツを纏った長身が、静かに現れる。白く濁った右の瞳と、闇そのもののように黒い左の瞳が、正面から昴流を捉える。けれど、その眼差しには何の感情も浮かんでいない。口元だけに柔和な笑みを刻んで、穏やかに彼は言う。

 こんばんは、昴流くん。

 昴流は目を開いた。閉じられたままの扉が視界に入る。他には誰もいない。分かりきっていたことだ。それなのに、本当にすぐそばまであの人が来ていたように感じられた。それほど鮮明に彼を思い浮かべられる自分自身に、昴流は嫌悪感を抱いた。
 あの人は、終わった仕事を振り返ることはない。
 この場所に留まって、あの人の痕跡を探してみても、そこから今の彼に辿り着くことはできない。分かっていても、他にとるべき方法を昴流は知らなかった。
 軽く息をついて昴流は立ち上がった。依頼された本来の仕事に取り掛かるために。



 仕事を終えた昴流は、窓の側へ歩み寄った。もうすぐ十二時になろうとしている。深夜とはいえ、都心には光が溢れている。遥か下方に見える道路にはテールランプの列が続いている。血管のようだ、と昴流は思った。闇に覆われてもなお輝き続ける、それ自体がひとつの生き物のような街。その印象は、この街に住み始めた頃から変わらない。無機質な人工の光は、それでもこの街の生の証だ。今の昴流には、それが眩しく感じられる。
 いつだったか、あの人は「滅びへの道を『楽しんで』歩んでいる街」だと言った。だから好きだ、と。その言葉が本心だったのか、昴流には分からない。今、分かっていることはたった一つだけだった。

 この街のどこか、この夜のどこかに。あの人が確かにいる。

 どんなことをしても探し出す、と誓った。あの人に辿り着けるのは、昴流以外にはいないはずだ。その確信だけが、昴流を動かしてきた。けれど、手繰る糸はいつも途中で途切れてしまい、虚しさだけが昴流の裡に降り積もっていく。
 窓に背を向けた昴流は、手元に視線を落とした。両の手の甲に、淡く光る星の形が浮かび上がる。幼い頃に残されたこの“印”がある限り、あの人が昴流を見逃すことはない。その光さえ、この薄暗い客室の中にあっても、今はあまりにも頼りなく見えた。

 結局、囚われているのは、僕ひとりだということか。

 両手をぐっと強く握り締める。胸の奥から湧き上がってくる苦味は、すでに昴流にとっては馴染んだ感覚だが、それでも奥歯を噛み締めなければやり過ごすことができなかった。昴流は眼を閉じた。
 わかっていたことだ。それでも追い続けるしかない。あの人が振り返らないのなら、あの人の目の前に立つしかない。そこへ向かうことでしか、今の昴流は生きられない。

 たとえ、その先に待っているものが、この夜よりも深い闇でしかないとしても。

 昴流は目を開いた。再び、室内の光景が視界に戻ってくる。
 そうだ、連絡しなくては。今夜の仕事はすべて終わったのだから。

 ドアに手をかけ、昴流はふと室内を振り返った。ドアの位置からは、夜景の見える窓はちょうど正面にある。光に彩られたビル群は、やはり美しかった。

 この光景を、あの人も見た。
 心を動かされることはなかったとしても、確かにあの人も見た。

 その事実を胸に刻んで、昴流は客室を後にした。




2009.6.13