追憶のエチュード Scene3





 学園の一角にある、緑に囲まれた休憩スペース。そこが待ち合わせの場所だった。



 勉強をみてほしい、と頼んだのは、高等部に編入してしばらく経ってからのことだった。神威の頼みに、昴流は最初戸惑ったようだった。迷惑なのだろうかと思ったが、そうではなかった。
「僕も高校にはあまり通ってなかったし、一年で辞めてしまったから、役には立たないよ」
 昴流は困ったように答えた。それでもいい、と神威は言った。
「空汰がでたらめばかり言うから困ってるんだ。英語の訳とか、コントの台本みたいになるし」
 憮然とした神威の口調に、昴流がわずかに口元を綻ばせた。表情が少なく、普段はやや冷たい印象さえ与える彼の整った面立ちが、その瞬間だけあたたかさを覗かせた。それこそが彼の本質なのだと、短い付き合いながらも神威は知っていた。すぐに笑いをおさめたものの、まだあたたかさの残る眼差しを神威に向けて昴流は言った。
「……いいよ、それじゃいつにしようか」

 空汰がでたらめばかり言う、というのは嘘ではない。ただ、それをさほど怒っているわけではない。屈託なく親しく接してくれる仲間たちに未だ戸惑いはあるが、彼らと過ごす時間は楽しいものに変わりつつあった。
 だが、その中に昴流の姿があることはごく稀だった。多忙であることは知っているが、神威には、昴流があえて人を避けているように感じられた。ただ、それは自分や仲間たちを疎んじているためではないことも気づいていた。本当にごく少ない機会に、人懐っこい空汰や譲刃にあれこれと話しかけられている昴流の表情にも、戸惑いだけでなく、神威に向けるのと同じあたたかさがあった。そんな彼が、なぜ人を避けるのか分からなかった。
 だから神威は、昴流と過ごす機会を持ちたかったのだ。できるだけ多く、長く。



 木漏れ日の踊る歩道を駆ける。

 昴流はいつも、待ち合わせの時間よりも早く着いて神威を待っている。今来たところだよ、と微笑む彼の手元にあるのは、たいていは吸いかけの煙草か、読みかけの文庫本だった。待たせてしまうことを申し訳なく思う一方で、昴流が自分のために時間を空けてくれることを、嬉しいとも思う。
 その日も彼はすでに着いていた。いつもと違うのは、手元にあるのが煙草や文庫本でなく、CDプレイヤーだったことだ。
「何聞いてるんだ?」
 昴流が音楽を聴いているところを見たのは初めてだった。問いかけると、昴流はイヤホンの片方をはずして神威に差し出した。耳元で、硬質の澄んだ音色が響いた。
「……ピアノ? クラシック好きなのか?」
「詳しいわけじゃないんだけどね。この曲は好きなんだ」
「ふうん」
 神威にしても、クラシックを好んで聴く習慣はなかった。ただ、綺麗な曲だ、と思った。澄んだ音色と繊細な旋律は、いかにも昴流に相応しいように感じられた。
 切ないほど美しく優しい音楽。まるで――そこまで考えたとき、昴流がぽつりと呟いた。

「あの人がくれたんだ」

 神威は顔を上げて昴流を見つめた。目を閉じている昴流の漆黒の髪が、風にそよいだ。
 昴流が“あの人”としか呼ばないその相手を、神威も知っていた。闇の中、均整の取れた長身を黒いスーツで包んだ彼の、冷たい眼差しを思い出しながら、淡々と流れる昴流の声を神威は聞いていた。
「昔、『仕事』の帰りに送ってもらったとき、車のラジオでこの曲が流れたんだ。初めて聴く曲だったけど、とても惹かれて……そう言ったら、すぐ次の日に買ってきてくれた」
 そこで言葉を切って、昴流はゆっくりと目を開いた。神威と同じように――否、より鮮明に、“あの人”の姿を思い描いていたはずの昴流の表情は、意外なほど穏やかだった。
「あの人にとってはただの気まぐれで、もう覚えてもいないんだろうけど……あの人がくれたもので、形があるのはこれだけなんだ」
 そのほかに彼が昴流に残していったものと言えば、悲しみと憎しみのはずだった。そうして、それ以外の全てを奪っていった。喜びと、幸せと――大切な人を。
 だが今、昴流が語る“あの人”との思い出は優しさに満ちていた。それは、神威がかつて出会った『桜塚護』の印象とも、昴流自身が神威に見せたあの記憶の風景とも重ならなかった。
「だから捨てられない。捨てられないんだ、何も……」
 偽りの優しい思い出も、苦しみさえも。声に出さず飲み込んだ昴流の思いを、神威ははっきりと聞いた気がした。再び目を閉じた昴流の表情に、初めて苦痛が滲んだ。
 それに呼応するように、神威は膝の上で手を強く握り締めた。

 強くならなければ、と昴流は言った。あの人に勝てるように、と。
 それは復讐のためなのだと、神威は思っていた。昴流は“あの人”を憎んでいるのだと。
 昴流自身がそう口にしたわけではないが、昴流の受けた仕打ちを考えれば、それが最も自然な想像だった。そして、傷つくことも厭わずに神威を救い出したこの優しい人の胸の内に、激しい憎しみが渦巻いていると思うと、どうしようもなく痛ましい気分になった。だが――。

 美しい旋律の向こうに、ただ一人の姿だけを描き続ける。
 ――それは、憎んでいる相手に対して為されるべきことではなかった。

 誰よりも、昴流自身がよく知っているはずだった。“あの人”は、あの男は、そんな優しい追想に相応しい相手ではない。昴流が“あの人”の思い出を抱きしめるようにして生きている、と知っても、彼は何の感慨も抱かずに、何度でも昴流の心を踏み潰すだろう。
 あの男を忘れない限り、きっと昴流は傷つき続ける。
 それは、憎むよりもなお苦しい生き方のはずだった。

 だけど、それでも捨てられない思いがあることを、神威もよく知っていた。

「神威」
 声をかけられて顔を上げると、昴流が気遣うように神威を見つめていた。音楽はいつの間にか終わっていた。
「ごめん、変な話をしたね。気にしなくていいよ」
「別に、変な話じゃないだろ。大事なことだ」
 神威の返事に、昴流は一瞬目を瞠った。そして、軽く息をつくと、穏やかに微笑んだ。
「君といると、どうも僕は喋りすぎてしまうな。甘えてしまう」
「……こんなこと、甘えるなんて言うなよ」
 応えながら、胸が詰まる思いがした。微笑んでいる昴流の澄んだ瞳には、拭いようのない悲しみがあった。
 神威には、最初から昴流がいた。苦しみを受け止め、分かち合ってくれる人が。昴流がいなければ、あの惨劇のあと自分を取り戻すことはできなかった。今も、こうして昴流と過ごす時間が、神威をゆるやかに癒してくれる。
 けれど昴流には、誰もいなかったのだ。たった一人で、誰とも苦しみを分かち合うことなく生きてきた。そういう相手に出会えなかったのではなく、探そうとしなかったのだ。癒されることを“甘え”だと思っていたのだから。そんなことはないのだと言いたかった。癒されることは罪ではない、と。
「昴流の話なら、俺は聞きたい。……聞くことしかできないけど、話して欲しい」
 搾り出すような言葉を、昴流は黙って聞いていた。やがて、しなやかな腕を伸ばすと、神威の頭に手を乗せた。向けられた微笑には、悲しみはなかった。
「ありがとう」
 触れられた掌は、あたたかかった。

「さて、それじゃ始めようか。テスト範囲は?」
「えっと、英語がLesson4から……」
 いつも通りの会話が始まる。教科書をぱらぱらとめくる昴流の考え深げな表情を見つめながら、もしも、と神威は考えた。

 もうひとつだけ望んでもいいのならば、この人の幸せを。
 あの美しい旋律に託し続けている思いが、少しだけでも“あの人”に届くことを。
 いつか、昴流に救いが訪れたとき、きっと自分も報われる。望みを叶える力を得られる。

 そう信じながら、神威はノートを開いた。



2008.4.17