追憶のエチュード Scene1




 そのとき、昴流を包んでいた世界は、どこまでも優しかった。



 『仕事』を終えて依頼主の家を辞した昴流は、駅への道を辿りながら深く息をついた。成功したものの、胸に溜まっている重苦しさは消えない。この頃はそういうことが増えた。
 家業を継いで七年になる。年を経るごとに、幼い頃には分からなかった、怨念を作り出す人の心の淀みがはっきり見えるようになり、それにつれて、『仕事』を終えた満足感よりも無力感が昴流を苛むようになった。今夜の『仕事』も例外ではなかった。
 昴流はもう一度深く息をついて、沈んだ気分を追い払おうとした。家では北都が夕食を作って待っている。暗い顔で帰ったら、心配させてしまう。

 ――昴流は何でも自分のせいにするんだから!

 北都の怒った顔と声が浮かんだ。昴流が落ち込んでいると、北都は決まってそう言う。そして続ける。――昴流は、自分にできることを精一杯したんでしょう。それ以上のことは、もう昴流の手の届かないことよ。それに、昴流が頑張ったからこそ救われた人がいたんだもの、それって凄いことよ。だからもう落ち込まないで。
 北都の言葉は、明るくあたたかな愛情に満ちていて、いつも昴流をほっとさせた。――ただ、それで割り切れないことも増えてきている。昴流が『仕事』で何を見ているか、何を感じているか、北都は詳しくは知らないはずだ。少しばかり霊力があるとはいえ、昴流には遥かに及ばない北都は、十六歳の普通の少女でしかない。一方で昴流は、次第に困難な『仕事』を任されるようになっており、昴流の見ている世界を北都が共有することは難しくなってきていた。昴流は、それで構わないと思っている。自分の感じているものを、北都にも背負わせるのは辛かった。
 けれど北都は、誰よりも昴流のことを大切に思ってくれる優しい姉は、昴流と苦悩を分かち合えないことを悲しむだろう。北都を悲しませることも、昴流には耐え難かった。だから、できるだけ明るい顔で家に帰らなければならないと思っていた。

 大通りに出たところで、停まっていた車とそのそばに佇む人物に気がつき、昴流は目を瞠った。
「お疲れさまでした、昴流くん」
「星史郎さん! どうなさったんですか?」
「北都ちゃんに、昴流くんを迎えにいってほしいと頼まれたので」
 星史郎が微笑んで答えた。助手席のドアを開けて、どうぞ、と招き入れる。昴流は頭を下げた。
「すみません、お忙しいのに……」
「いえいえ、愛する昴流くんのためですから」
「愛っ……、せ、星史郎さん!」
 頬を真っ赤に染めて慌てふためく昴流に明るい笑い声で応えると、星史郎は改めて車に乗るよう促した。
「なんだか元気がありませんね。顔色も良くない」
 乗り込んでから、星史郎は昴流の額にそっと手を当てた。熱がないことを確かめてから、気遣うように昴流の顔を覗きこむ。
「何かありましたか、昴流くん」
「いえ……何でもないです。大丈夫です」
「本当に?」
「……はい」
 昴流は頷き、微笑んだ。星史郎はまだ気遣うような視線を向けていたが、やがて静かに車を発進させた。
「早く帰って、休んだ方がいいですね」
「すみません。……ありがとうございます」
「いいんですよ」
 優しい声が返ってくる。昴流は、窓の中で後ろへ流れていく風景に視線を向けた。まだ重苦しさが消えたわけではなかったが、それでも少し気分が晴れたのを感じた。



 カーラジオから交通情報が流れている。週末ということもあって、都内の主要道路はどこも渋滞しているらしい。星史郎はそれらの道を避け、スムーズに走れる道を的確に探し出した。自他共に認める方向音痴の昴流にはとても真似できないことだ。そう言うと、星史郎は、昴流くんも出来るようになりますよ、と微笑んだ。
 やがて交通情報が終わり、番組が変わった。流れ出したピアノの旋律が、昴流の耳に響いた。聞いたことのない曲だ。澄んだ音色が奏でる繊細な旋律が、静かな車内に響いた。
「何て曲かな」
 思わず呟いた昴流に、星史郎が答えた。
「曲名は言いませんでしたね。曲のあとで言うかも知れない」
「そうですね」
 頷くと、昴流はまた音楽に耳を傾けた。壊れそうなほど繊細な、どこまでも美しい旋律に、強く惹かれるのを感じた。
 不意に星史郎が車を路肩に寄せ、エンジンを切った。昴流は星史郎を見上げた。星史郎は優しく微笑んで言った。
「聞いていきましょうか。ここなら静かですし、停めていても迷惑ではないでしょうから」
 確かにその通りは車が少なかった。シートを少し倒すと、星史郎は昴流に顔を向けた。
「コンサートホールの座席ってこんな感じでしょう。昴流くんもいかがですか、気分だけでも」
「あ、はい」
 星史郎に倣ってシートを倒す。そうして目を閉じると、確かにコンサートのようだった。

「……綺麗な曲ですね」

 清らかな流れに身を任せるような快い気分になって、昴流は呟いた。少し間をおいて、星史郎の答える声がした。
「そうですね。昴流くんは、クラシックがお好きなんですか?」
「……いえ、あまり詳しくはないんです」
 この曲は有名な曲なのだろうか。そんな曲も知らないなんて、無教養で恥ずかしいかも知れないな。頭の片隅でそう思ったが、昴流は素直に答えた。
「でも……この曲は好きです。なんだか、とても優しい曲だな、と思って」
 今度は星史郎の返事はなかった。その沈黙は、昴流にとっては気まずいものには感じられなかった。しんとした夜の空気に溶け込むような旋律が、昴流の全身を包んでいる。それがとても心地よかった。
 長い曲ではなかった。音楽はやがて、軽やかな余韻を残して終わった。その最後の響きが消えるまで、昴流は目を閉じていたが、やがてニュースを読むアナウンサーの声が流れ出したので、ゆっくりと目を開いた。隣を見ると、星史郎が昴流を見つめていた。
「帰りましょうか」
 星史郎は静かに言った。穏やかな声は、先程までの音楽と同じように、昴流の耳に優しく流れ込んできた。はい、と頷いて、昴流は微笑んだ。
 『仕事』を終えてから感じていた重苦しさは、今はもう跡形もなく消え去っていた。



 マンションの前で車を降りると、昴流はぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いえ、楽しかったですよ。思いがけずデートできた気分です」
 星史郎はさらりとそう言うと、「で、デートって……」とうろたえる昴流を見て楽しげに笑った。ふと真顔に戻り、腕を伸ばして昴流の頬に触れる。
「元気になったみたいですね、良かった」
 昴流の顔色を確かめて、優しい微笑を浮かべる。頬に触れた掌は、あたたかく感じられた。
「すみません、もう大丈夫です」
「本当ですね」
「はい。……ありがとうございます、星史郎さん」
 昴流の返事に、いいんですよ、と答えて、星史郎は手をはなした。
「それじゃ、おやすみなさい、昴流くん」
「はい、おやすみなさい」
 最後の挨拶を交わすと、星史郎は車を発進させた。それが見えなくなるまで見送ってから、昴流はマンションの中へ入った。エレベーターを待ちながら、ふと、僕はとても単純なのかも知れない、と彼は思った。ほんのひととき、あの美しい旋律に触れ、気遣ってくれる人の優しい言葉を受けただけで、もう心はこんなにも穏やかになっている。

 ――だけど、そんな風に感じられることは、とても幸せなことなのではないだろうか。

 自室のドアを開けると、中からあたたかい光が漏れた。シチューの匂いがする。軽やかな足音がして、北都がキッチンから顔を覗かせた。昴流の姿を認めて、その表情が明るく輝いた。
「おかえり、昴流!」
 言うが早いが、昴流に勢いよく飛びついてくる。幼い頃から分け合ってきたぬくもりが昴流を包んだ。胸の奥までそのぬくもりが伝わるのを感じながら、昴流は言った。
「ただいま、北都ちゃん」
 北都は昴流を一度ぎゅっと抱きしめたあと、体をはなして昴流の顔を正面から覗きこんだ。今日は暗い顔をしていない昴流に、ほっとしたように微笑む。
「シチュー食べるでしょ。待ってて、すぐ温めるから」
「うん、ありがと」
 北都が足早にキッチンへ戻っていく。その後姿を見ながら、今しがた北都と交わした言葉を昴流は反芻した。――正確には、北都が昴流にかけてくれた言葉を。それらの言葉も、あの旋律と同じように、そして星史郎の声と同じように、昴流の胸に優しく響いた。全身があたたかく満たされていくのを感じながら、やっぱり、と昴流は思った。

 ――僕は幸せだ、とても。



 そのとき、昴流を包んでいた世界は、どこまでも優しかった。




2008.4.17