追憶のエチュード Scene2
綺麗な曲ですね、と昴流は言った。
――星史郎には、わからなかった。
「え?」
差し出したCDをすぐには受け取らず、昴流はきょとんとした顔で星史郎を見上げた。
「好きだと仰っていたでしょう。CDがありましたよ」
「あ……昨日の曲」
納得すると、昴流は目を輝かせて、星史郎の手からCDを受け取った。
「貸して下さるんですか、ありがとうございます」
「いいえ」
星史郎の返事に、昴流の表情が戸惑いを含んだものに変わった。心情を素直に顔に出す少年を見つめたまま、星史郎は言葉を続けた。
「差し上げます」
「……ええっ?」
今度は驚きの声が上がる。昴流の反応は星史郎の予想を全く裏切らなかった。ふと、この反応が見たくて、僕はわざわざこんな勿体つけた言い方をしているのだろうか、と星史郎は思った。
「そんな、頂けません!」
「お気に召しませんでしたか?」
「いえ、そんなことないです。でも申し訳なくて……わざわざ探して下さったんですか?」
「たまたま見つけただけですよ、お気になさらず。昴流くんが喜んで下されば、僕は満足です」
そう口にしながらも、気にするな、と言えば言うほど、昴流が戸惑うのは充分承知していた。案の定、「でも……」と言ったあと、心底困った顔で黙り込んでしまった昴流を、星史郎は笑みを浮かべたまま見守った。
「いいじゃない、貰っとけば」
二人のやりとりを眺めていた北都が、そう口を挟んだ。
「せっかく買ってきてくれたんだもの、素直に貰ったらいいじゃない。好きな曲なんでしょ」
「そうだけど……」
「なら、お礼を言って受け取るのが一番よ」
「そうかな」
「そうよ。んで、星ちゃん。未来の義姉たる私には、貢ぎ物は何もないの?」
くるりと星史郎を振り向いて、北都が悪戯っぽく笑う。
「勿論ありますよ、ほら」
星史郎も笑いながら、もうひとつ持参したものを差し出した。近所の洋菓子店のスコーンだ。先日通りかかったときに、北都が食べたいと言っていたことを、彼は覚えていた。
「やったあ、星ちゃん大好き! それじゃお茶入れてくるねっ」
北都が声を弾ませながら立ち上がり、キッチンへ駆けていく。その後姿を見ていた昴流は、改めて星史郎に向き直ると、深々と頭を下げた。
「星史郎さん、ありがとうございます。嬉しいです」
場違いなほど律儀な様子に苦笑を押し隠しながら、どういたしまして、と応える。顔を上げた昴流は、心から嬉しそうに微笑した。そこに、先程までの困惑はなかった。受け取ったCDを宝物のように手にしている少年に、星史郎も微笑で応えた。
「それにしても、星ちゃんからのこういうプレゼントって珍しいわね」
二杯目の紅茶を口にしながら、北都が呟く。星史郎が“貢いだ”CDをBGMに一杯目の紅茶とスコーンを味わったあと、昴流は突然入った『仕事』の連絡で慌しく出かけていった。それを見送ったあと、二人はまた紅茶を味わいながら音楽を聴いている。
「そうですか?」
星史郎は首をかしげた。他愛もない贈り物なら、よくしているように思うのだが。病気の見舞いだとか、何かしら理由をつけて。理由がなくても、折に触れて何かを贈っているはずだ。昴流の喜ぶ顔が見たいから――“好き”であれば、そういう理由で贈り物をしても当然だ。言い訳のようにそう考えながら、昨日も昴流を送り届けたその足でCDショップへ向かった。
星史郎の内心を読んだかのように、北都は微笑んだ。
「星ちゃんがくれるものって、たいていお菓子とかお花じゃない。悪いって言う意味じゃないの。とっても素敵だけど……」
そこで言葉を切って、北都は紅茶を口に運んだ。星史郎は無言のまま、北都の横顔を見つめた。鏡に映したように昴流とよく似ているこの少女からは、昴流のようには容易に内心を読み取れないことが多かった。カップを口からはなすと、北都は言葉を探すように視線をさまよわせたが、やがて言った。
「でも、そういうものって、形が残らないものよね」
お菓子は食べちゃうし、お花は枯れちゃうもの。そう続けると、北都は星史郎の顔をじっと見つめた。口元に笑みを浮かべてはいるが、少女の視線は深く星史郎の思考を探ろうとしていた。星史郎は微笑を返しながらその視線を受けた。
「わざと残らないものを選んでるのかな、って思ってたの」
「そんなつもりはなかったんですよ」
星史郎は微笑んだままそう答えた。それは嘘ではなかった。少なくとも、意識して選んでいたわけではない。ただ、今は彼だけが覚えている『賭』がどのような結末を迎えるにせよ、それが終われば、昴流も北都も彼のそばにはいないだろう、という予感はあった。その予感が、無意識のうちに影響を与えていたかも知れない。そう考えながら星史郎は続けた。
「昴流くんは、あまり何かが欲しいとか仰らないでしょう。何を贈れば喜んで下さるか、分からなかったんですよ」
「それもそうね。いくら恋人でも、アクセサリーとかでもないでしょうし」
北都は意外にあっさり頷くと、星史郎に向かって肩をすくめて見せた。
「苦労してるのねえ、星ちゃん」
「いえ。その分、喜びも大きいです」
「そう言ってもらえると、私も安心だし、未来の義弟として頼もしいけど」
北都はくすくすと笑った。先程見せた、星史郎を探るような深く鋭い視線は今はなく、屈託のない笑顔を浮かべている。何となくそこで会話は途切れ、ピアノの旋律がゆったりとリビングを満たした。
「綺麗な曲ね。昴流がこの曲を好きだって言うの、わかる気がする」
北都が呟き、目を閉じた。その横顔に、昨夜の昴流の表情が重なった。
――綺麗な曲ですね。
助手席に身を預け、目を閉じてその旋律に耳を傾けていた昴流は、夢見るような声で同じことを言った。クラシックがお好きなんですか、と星史郎は問うた。
――いえ、あまり詳しくはないんです。でも……この曲は好きです。
目を閉じたまま答える昴流の横顔に、ほのかな笑みが浮かぶのを星史郎は見た。あまりにも無防備な、安らかな微笑。
――なんだか、とても優しい曲だな、と思って。
そう言ったあと、昴流はまた沈黙した。音楽に再び身を委ねた昴流の表情からは、愁いの影は消え去っていた。
星史郎は、その昴流を黙って見つめていた。彼にとって、その旋律はただの音の連なりでしかなかった。緻密に計算されて作られた旋律だ、という程度のことは分かるが、それだけのことだった。――“人”と“物”の区別がつかないのと同じように、その繊細な旋律は街の雑踏の音と同じで、彼の胸を打つことはなかった。
そして、彼の隣で無防備に目を閉じている、この少年も。
儚げで優しげな、少女めいた外見そのままに、昴流の心は繊細で傷つきやすかった。先程迎えたときも、昴流の顔を愁いが翳らせていた。大丈夫です、と彼は言ったが、『仕事』でまた何か辛い思いをしたのだろうと、容易に想像できた。優しい彼には、人の怨念と直に向かい合うこの『仕事』は、辛いことの方が多いのだろう。
しかし、そういった“分析”はできても、昴流の繊細な感性は、星史郎に何の感動も与えなかった。ガラス細工の人形を眺めるのに似た感覚があるだけだ。精巧で可憐で、この上なく美しいとは思うが、それだけのことだ。
緻密で繊細なピアノの旋律と、ガラス細工の人形。それはとても調和した組み合わせのように、星史郎には感じられた。
ふと、この調和を乱してみたらどうなるだろうか、という考えが浮かんだ。唐突なその思いつきは、しかし思いがけない強さで星史郎を魅了した。――要するに彼は、ガラスを叩き壊してみたくなったのだ。その根底にあるものは、憎しみでも殺意でもなかった。それが何なのか分からないまま、星史郎は突然生まれた衝動に従うべきか、それとも抑え込むべきか、しばし悩んだ。
――と、音楽が軽やかな余韻を残して終わり、昴流がゆっくりと目を開いた。澄んだ瞳が向けられた瞬間に、来たときと同じように唐突に衝動は去っていった。壊されるかも知れなかった、ということに気づかぬまま、昴流は穏やかな瞳で星史郎を見ていた。
帰りましょうか、と声をかけると、はい、と頷いて、昴流は微笑んだ。それは先程、この曲が好きだ、と呟いたときに見せた微笑と同じだった。昴流は、星史郎をあの旋律と同じように捉えているのだ、と彼は悟った。美しく、優しいものとして。
あの旋律に互いを重ねたことは同じだったが、そこに抱く思いは全く違うものだった。
車を再び走らせながら、助手席に目をやる。昴流は夜風に髪をなぶらせながら、流れていく景色を見ていた。遠いな、と星史郎は感じた。昴流との距離は、あまりに遠い。
それは単に事実の確認で、何の感傷も伴わないものだった。そのはずだ。胸がざわめくような感覚は、先程の衝動の余波に過ぎない。そのはずだった。
「そうだ星ちゃん、夕飯食べてく?」
北都の声が、星史郎を我に返らせた。昴流とよく似た屈託のない顔で、北都が彼を見つめた。少しばかり、昨夜の回想に浸りすぎたようだ、と思ったが、北都の反応を見る限り、不審な感じではなかったようだ。
「昨日、昴流を迎えに行ってくれたお礼に、星ちゃんの好きなもの作ってあげる。何でもリクエストして」
「いいんですか? ……いえ、それより今日は僕が作りましょう。北都ちゃんさえ良ければの話ですが」
星史郎がそう提案すると、北都は目を丸くした。
「星ちゃん、料理できるの?」
「大学のときから一人暮らしですから、まあ困らない程度にはできますよ」
「それは頼もしいわね。昴流にも見習わせたいわ。あの子、家庭科がまるで駄目なのよ」
「昴流くんには、僕が食べさせてあげますから、心配はいりませんよ」
「それもそうね。……じゃ、ご馳走になっちゃおっかな。どっちにしろ買い物に行かなくちゃ。星ちゃん、一緒に行こっか」
北都が立ち上がり、空になったティーポットとカップ、それにスコーンの皿を片付ける。音楽はいつの間にか終わっていた。軽く息をついて立ち上がり、北都を手伝うためにキッチンへ入った。カップを洗っていた北都は、ふと手を止めて星史郎を振り向いた。
「ねえ、星ちゃん」
「はい」
星史郎を見つめる北都の瞳には、訴えかけるような光があった。星史郎はその光を受け、黙って北都の言葉を待った。
「昴流はね、何かを好きだと言うことって、あまりないのよ。好きなものはたくさんあるけど、自分からは、好きだって言えないの」
あの曲のことをいっているのだ、と星史郎は悟った。昴流が好きだといい、星史郎がCDを買ってきた。ただの“恋人のふり”に過ぎないはずの行動は、昴流と北都にとっては大事件だった。
北都は、厳かといってもいい静かな声で、念を押した。
「忘れないでね」
「はい」
自分でも意外なほど、真摯な返事になった。北都は満足げに微笑むと、星ちゃんはメニュー考えてて、と言い置いて、再びカップを洗い始めた。仕方なくリビングに戻り、もう一度CDを再生した。ゆったりとピアノが歌い始める。昨夜の昴流の言葉を、星史郎はもう一度思い出した。
――この曲は好きです。
――なんだか、とても優しい曲だな、と思って。
やはり遠かった。昴流も、昴流の目に映っている星史郎の姿も。胸がざわめいた。
彼は初めて、それが単なる事実の確認ではないことを認識した。
2008.4.17