恋人はワイン色

 部屋中に光が溢れている。
 閉じた瞼の裏にまでそれが侵入するのを感じて、無意識に逃れようとして寝返りを打つ。……が、向きを変えた目の前に他のものがある気配に気付いた。伸ばした腕に触れたのは、布地に包まれた暖かくて大きな物体。……枕にしては硬すぎる。訝しさが眠気を追い払った。ゆっくりと目を開く。視界に最初に入ったものが、すぐには理解できなかった。
 そこにあったのは、いつも会う人の見慣れた顔。ただし、寝顔を見るのは初めてだ。
「…………きゃあああぁぁっ!?」
 思わず悲鳴を上げて跳ね起きてしまった。……こんな可愛い悲鳴が上げられるとは自分でも知らなかった。じゃなくて。
 耳元近くで起こったあたしの甲高い悲鳴にもその人は目を覚ます様子はなく、死んだように眠りつづけている。何度も目をこすり、うろたえてあたりを見まわす。見慣れた家具、壁、それに窓からの景色。どこをどう見てもあたしのマンションの寝室だ。それなのに、何で泉田クンがあたしのベッドに寝てるの!?
 両手で頭を抱えて必死に状況を整理しようとするが、頭の中でロケット花火が何百本も飛び交っているみたいになっていて何も考えられない。どうしてこんなことになってるのか、昨夜何があったのか。……ダメだ。何にも思い出せない。記憶のない一夜が明けて、目が覚めたら隣に男が寝てるってことは……もしかしてアレ?つまり、その…彼と一線を超えたってこと!?うわ最悪!覚えてないなんて!!……じゃなくて。さっきからどうも思考回路がおかしい。
 気分を落ち着けるために深呼吸しようと胸に手を当てて、はっと気づいた。昨日服も着替えずに眠り込んでしまったらしいのだが、白いブラウスの胸元に赤い染みが広がっている。怪我をしたのかしら、それにしては痛みがないけど、と思ってボタンをはずし確かめてみた。ブラウスの下のブラジャーまで少し染まっているけれど、傷はどこにもない。じゃあ一体……?
 隣で眠る彼に何気なく視線を向けて、凍りついてしまった。さっき跳ね起きたので二人で被っていたブランケットは大きくまくれあがっているが、その下の彼の身体、ワイシャツの左脇腹あたりに、あたしのと同じような赤い染みが大きく広がっている。……記憶のない一夜について、別の疑惑が膨れあがる。恐る恐る彼の肩に手をかけ、揺さぶる。彼は目を覚まさない。次第にその力を強くしていっても、その目は閉じられたままだ。まさか。
 エリート警察官、自宅の寝室で部下を殺害!!そう書かれた新聞や週刊誌の見出しを浮かべる。頭の中で百人の裁判官が、一斉にハンマーを下ろす。「有罪!」……あ、これは日本じゃないや。自分でももう深刻なんだか何なんだかわからない。そんな想像をしたそのとき。
「う……ん」
 それまで身動き一つしなかった彼が小さくうめいて寝返りを打った。彼が死んでると思いこんでいたので(だってあんなに悲鳴上げても揺さぶっても起きないんだもの)、あたしは思わず身を引いてしまった。さっきまで身体の左側を下にして眠っていたのが、仰向けになっている。……良く見ると、シャツの赤く染まった部分には、破れ目がまったくない。シャツをまくって確かめてみたが、その下の皮膚にも傷口は見当たらなかった。……あれ?
 あらためて、シャツを染めた赤い色を見つめる。そういえば、血の色ってこんなんじゃなかったような。ふと顔を上げると、寝室のドアが開きっぱなしになっていて、その向こうにあるリビングのテーブルにボトルが何本も立っているのが見えた。床にも転がっている。……ワインだ。そう認識した瞬間、霧が晴れて風景が鮮やかになっていくように、昨夜の記憶が蘇ってきた。
 昨夜は確か仕事が終わってから、いいワインがあるからというのを口実に彼を招いて、二人で飲んでいたんだった。飲み始める前は、ちょっとぐらいいい雰囲気になればいいなと思っていたのだが、飲んでいるうちにどういうわけか二人ともテンションが上がってきて、話の流れか何かもあって飲み比べ大会みたいになってしまったのだ。どっちが先に酔いつぶれたのか覚えてないけど、二人とも寝室にいたところを見ると、先にダウンしたあたしを彼が寝室に運んで、そのまま彼もダウンしてしまったのかもしれない(彼の方が先にダウンしたなら二人ともリビングで転がってたはずだ)。
 ふと足元を見下ろすと、あたしはストッキングを履いたままだった。意識のない女のストッキングを脱がせてまた元通り履かせるのは至難の技だ。というより彼には不可能だ。断言してもいい。つまり、酔った勢いで彼と一線を超えたというのも有り得ない。なんか残念な気もしないでもないけど。でもどうせなら二人とも素面のときがいいわね。
 とにかく、さっきあたしが考えた仮説は両方とも大ハズレだったわけだ。……そもそも血とワインを見誤るなんてどうかしてる。こりゃまだ酒が抜けきってないわ。
 あたしが一人で大騒ぎしていたことも知らず、彼はまだ目を覚ます気配がない。あたしは再びベッドの上にうつぶせになって両肘で上半身を支え、彼の顔を覗きこんだ。耳元に唇を寄せて囁く。
「……泉田クン、起きて」
「………ん…?」
 さっき叫んだり揺さぶったりしてたときにはぴくりとも動かなかった彼の瞼が、今度はゆっくりと開く。彼の顔を正面から覗きこんでいたので、起き抜けに視線がぶつかる形になった。
「……え…?や、薬師寺警視!?」
 彼がベッドに跳ね起きる。と同時に頭を抱えてうずくまる。どうやら二日酔いで頭痛がするらしい。頭の痛みに耐えながら「え…あれ?なんで?」と呟いている。どうやら彼も昨夜の記憶が一時的になくなっているらしい。「大丈夫?」と声をかけると何とかあたしの方を向いて答えようとしたが、胸元に視線をやったかと思うと顔を真っ赤にして逸らしてしまった。さっき、胸元のワインの染みを血だと勘違いして、ボタンを開けて傷口をさがしたことを思い出した。そのままボタンをしめ忘れていたんだわ。
 記憶のない一夜が明けて、隣には着衣の乱れた女。彼はさっきあたしが陥ったのと同じ混乱の中にある。ふと悪戯心が動いた。あたしは意地悪く微笑み、もう一度彼の耳元に唇を寄せて囁いた。とどめの一言。
「とても素敵な夜だったわ、ありがとう」



 ストッキングにはいつ気がつくかしら?