お気に召すまま
ブリティッシュ・コロンビア州議事堂の庭からは、賑やかな港の風景を見渡すことができる。
大英帝国の黄金時代に君臨し、その名を街の名前に冠せられたビクトリア女王の像が静かに見守るこの風景を、私の女王陛下もいたくお気に召されたらしかった。訪れるのは初めてだと言いながら地図も持たず自在に闊歩し、流暢かつウィットに富んだ英語で町の人々と会話する。今も州議事堂の守衛と会話が弾んでいるらしい涼子を横目に、陽射しの輝く芝生の上に腰を下ろした。
カナダの夏は短いが、昼はこの上なく長い。午後六時を過ぎてもまだ衰えない陽射しを、多くの人々が芝生に横になって浴びていた。
「おまたせ」
絶え間なく降り注いでいた光がふいに翳ったのに気づいて顔を上げると、涼子の顔が逆さまに飛び込んできた。
「海岸沿いにいいレストランがあるんだって。ちょっと歩くけど、夕飯そこにしよう」
「そうですね」
「何よ、気のない返事ね」
「こんなに明るいのに、夕飯という気分になれないだけですよ。それに、六時では少し早いんじゃありませんか」
「だからいいんじゃない。食べた後でも、ゆっくり街を見て回れるわ」
涼子はそう言って楽しげに笑った。今日一日さんざん観光したのに、まだ足りないのか、と私は呆れる。もっとも、郊外の庭園や美術館などを見ていたから、街の中心部はほとんど見ていないのだけど。丁度夏休みということもあって、どこも人が溢れて賑わっていた。
夕食に誘っておきながら、結局涼子も私の側に腰を下ろした。通りすぎる人々が感嘆の眼差しを向けるのも気にせず、そのままごろんと仰向けに転がって陽射しに目を細める。色の淡い柔らかな髪が、陽光の下で明るく輝いた。私は場違いにも、縁側で昼寝する猫を連想した。初めからあるべき場所に収まっているような。
仕事で涼子と海外に出るのはこれが三度目になる。どこへ行っても人目を引く彼女は、その一方でどの土地の空気にもすぐに馴染み、生まれた時からそこで住んでいるかのように振舞うことが出来る。語学に堪能なせいでもあるだろうが、たとえ言葉が通じなくとも涼子なら何とかできるだろう。
カナダだろうとアマゾンだろうと南極だろうと、恐らく地球上のどこにいても、彼女は彼女であり続けるに違いない。背筋をまっすぐに伸ばして、自信に満ちた足取りで。――もしかしたら、たとえ冥王星であっても。
――いくら何でも冥王星は無理だな、俺だったら。
隣に寝そべる人が、ふいに遠ざかったかのような感覚に囚われた矢先、涼子が目を開けて私を睨みつけた。
「……こら、何ボーっとしてんの」
「いえ、何でも」
「隠せると思ってんの? ん?」
転がったまま腕を伸ばして、軽く私の耳を引っ張る。それから、ふっと悪戯っぽく唇を緩めて笑った。
「それとも、見惚れちゃってた?」
「何言ってんですか」
苦笑して耳からそっと手をはなす。涼子がゆっくりと起き上がり、正面から私を見つめた。髪に芝が絡んでいたので、手を伸ばしてそれを払った。眼差しに無言で促されて、私は正直に答えることにした。
「……ただ、あなたならどこでも生きて行けそうだな、と思ったんです。ここでもサハラでも海王星でも」
私の言葉に、涼子は一瞬きょとんとしたようだったが、やがて静かに頷いた。
「そうね、それは否定しないけど」
それからふいに私の右手を両手で握りこみ、胸の前に掲げてみせる。少し首をかしげて、やけに優しい声で言った。
「大丈夫よ、淋しがらなくたって。どこだって一緒に連れてってあげるわ、心配しないで」
「……え?」
淋しがるって? 誰が?
呆気にとられた次の瞬間、涼子は乱暴に私の手を離して続けた。
「ていうか、前も言ったでしょ。君はあたしの付属物なんだから。サバンナだろうがシベリアだろうが銀河系外だろうが、一緒に来るのが当たり前なの! 何度も言わせないでよ」
「は、はあ……」
涼子の言葉に私は唖然とし、ついで笑った。何がおかしいの、と涼子が不機嫌に尋ねる。
そうそう、そうでした。
あなたはいつも、私には選択の余地など与えないんですよね。いつでも強引に、自分の人生どころか私の人生まで勝手に決めてしまわれる。
それでも、その強引過ぎる論理に不快感は感じなかった。彼女の言葉はストレートで力強く、そんなものは感じるより先に粉砕されてしまう。単に感覚が麻痺しただけかも知れないが。
笑いをおさめ、私は涼子に問い掛けた。
「では、今日のところはどこへ連れて行って下さるんですか?」
涼子は軽く私を睨みつけたが、すぐに表情を一転させ、艶やかな唇にからかうような笑みを浮かべた。
「……そうねぇ、それじゃまずは海岸沿いのシーフードレストランでどう?」
「賛成」
ささやかな合意が成立し、私達は芝生から立ちあがり、肩を並べて歩き出した。海からの風が髪を嬲る。左腕の内側に、温かくしなやかなものが滑り込んできた。私の視線を受けて涼子が微笑む。
とりあえず今日も、女王陛下のお気に召すまま。