ティンカーベル
帰宅ラッシュと重なったこともあって、駅構内はひどく混雑していた。
改札をようやく通り抜け、外へ出て行く人波に揉まれながら彼の姿を探す。
……いた。
雑踏の中でも頭が飛び出ているので、彼を見つけるのは容易い。やや足早に歩み寄ろうとしたその時、どこからか声がかかった。
「刑事さん」
彼に声をかけてきたのは、ハーフコートを羽織った20代半ば――あたしと同年代くらい――の女だった。OLだろうか。彼が戸惑ったような表情をすると、彼女はにっこりと微笑んでさらに言った。
「先日はどうもありがとうございました。――あの、駅で」
「――ああ、あの時の」
彼の表情が和らぐ。胸元がざわざわするのを感じた。
「あれからは、被害に遭われていませんか?」
「ええ、全然。同じ車両に刑事さんが乗ってると知ってて、痴漢するような馬鹿な男はいないでしょ?」
ああ、なるほどね。ようやく事情が飲み込めたが、それでももやもやした気分は消えなかった。彼がはにかむ。
「ちょっと、目立ちすぎましたからね」
「でも、おかげで助かりました。それで、何かお礼をと思って……その、これからお時間大丈夫ですか」
何ですって!?――思わず飛び出して行きそうになったあたしをなんとか押し止めたのは、彼の言葉だった。
「お気持ちは嬉しいのですが、今日は約束がありますので。――それに、当然のことをしただけです。お礼には及びませんよ」
彼女の顔にがっかりしたような表情が浮かんだが、すぐに消えた。そう、それじゃ、と会釈すると足早に雑踏の中に消えて行く。彼は彼女の背中を最後まで見送ることはせず、腕時計に視線を落とした。約束の時間はすでに五分過ぎていた。あたしは静かに歩み寄って、背後から声をかけた。
「ふーん、チカンから女の子を守ってあげたんだー。カーッコイーィ」
「うわっ」
驚いて振り向く彼に、とびっきり意地悪そうに見えるに違いない笑顔を見せる。
「来てらっしゃったんですか」
「だって待ち合わせしたじゃない。来たら悪い?」
「いえ、そういう意味じゃなくて……人が悪いですよ、立ち聞きなんて」
「聞かれたら何かマズイことでもあるの?美談じゃない。警察官のカガミよねえ」
さすがに、皮肉たっぷりの口調に彼が眉をひそめる。
「……怒ってらっしゃるんですか?」
「どうして怒ってると思うの?」
会話が不毛になりかけたのに気づいて、彼が溜息をついた。それに構わず、あたしは先に立って歩き出す。
君は全然わかってない。
そりゃあ、君には当然のことでしょうよ。痴漢は犯罪だもの、刑事で、しかも生真面目な性分の君が見逃せるわけがない。彼女を助けたのは、下心とかじゃなく純粋に義務感からなのは分かってる。
分かってはいるけど――でもやっぱり、面白くないのよ。
無意識に、他の女に期待を持たせるようなことしないでよ。
あたし以外の女に優しくしないで。
そうせざるを得なかったということは分かってるのに、こんな考えが浮かんでしまう。彼の行動にも勿論だけど、あたし自身の思考回路もそれ以上に腹立たしい。あたしは自分で思っているより、はるかに愚かな人間なのだということを、いやでも認識させられる。
「何がおかしいの」
不意に後ろから聞こえた忍び笑いに、立ち止まって振り返り、笑い声の主を睨みつけてみた。
「……いえ、何でもありません」
「何でもなくないでしょ。言いなさい」
わざとらしく胸の前で腕を組んでさらに問い詰める。
「何と言うか、その……分かりやすいなあと」
「だから、何が」
苛立ちを抑え切れないあたしに、彼は珍しくニッと笑って言い添えた。
「ヤキモチ、焼いてくださったんですよね」
「……ちょ、調子に乗らないでよ、バカ!」
思いもよらないことを言われて――というより図星を刺されて、どなりつける声が上ずった。どうにもしまらないし、何よりあっという間に顔が熱くなってしまったので、思いっきりそっぽを向いて続ける。
「あんな女相手にヤキモチなんか焼くわけないでしょ!?」
「そうですか?」
「そうよっ」
「じゃ、そういうことにしておきましょう」
相変わらず笑いを含んだ、なだめる声が憎たらしい。満更でもなさそうな態度も気に食わない。
いつか絶対、こいつにもヤキモチ焼かせてやる。
そう思い定めて、
「いつまで笑ってんのよ」
振り向きざまに思いっきり耳を引っ張ってやった。
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