You're my sunshine

 手の甲に冷たいものが当たる感覚がした。続いて頬に。
 それが何かを確かめる間もなく、すぐに大粒の雨が降り注いでくる。

 ――最悪。

 慌ててハンドバッグを傘代わりに頭上にかざし、雨宿りのできそうな店先へ駆け込む。あっという間に叩きつけるような勢いになった雨に追われて、あちこちから同じように傘を持っていない人が駆け込んできたので、それほど広くもない店先はたちまち満員になってしまった。
 濡れた髪をかきあげながら腕時計に目を落とす。彼との待ち合わせ時間まであと五分。場所は、この先の交差点を越えたところにある駅前の時計台の下。余裕で間に合うはずなのに、こんなところで足止めだなんて。雨は降らないなんて言うから傘を持たずに出てきたのに、気象庁め!
 通りはヴェールがかかったように霞んでいる。激しい雨音が、車の排気音も会話もすべて呑み込んでいく。屋根の下にいるとは言え、屋根から絶えず落ちてくる雫が跳ね上がって、ブーツのつま先を濡らした。このブーツも、先程とっさに傘の代わりにしてしまったハンドバッグも――傘としては全く役に立たなかったが――先日買ったばかりの新品だったことを思い出し、軽い溜息が零れた。勿論、彼とこうして会うときのために買ったものだ。あー、あたしって可愛いっ。ケナゲっ。

 雨足は弱まる気配を見せず、それどころかますます強くなっていくように感じられた。再び腕時計に目を落とす。あと三分。――もう出て行かないと間に合わないけど、この雨では無理だ。彼に連絡しておこうか、とバッグから携帯を取り出す。もっとも、彼もきっとどこかで足止めを食らっているだろうけど。
 メモリから彼の番号を呼び出し、発信ボタンを押しかけて、ふと指を止める。顔を上げて、雨の街並みに目を向ける。百メートルほど向こうの交差点を渡れば駅前の広場。――百メートルか。高校の時の記録は何秒だっけ?

 突然湧き上がってきた考えに苦笑を漏らす。あたしは何を考えているんだろう。このバケツでもひっくり返したみたいなどしゃ降りの中を、向こうの交差点まで全力疾走しようっての?チューインガムのCMじゃあるまいし。
 この発信ボタンを押して彼に電話をするべきよ。雨だからちょっと遅れる、ごめん。3秒で話はつくじゃない。何もずぶ濡れになってダッシュすることはない。
 頭では分かっているのに、ボタンを押せない。ほんのちょっと走れば、雨が上がるまで待たなくても会えるかもしれない。――そう思うと、駆け出して行きたくて堪らなくなる。

 約束の時間まであと二分。

 ちょっと待て、落ちつけ。冷静にならなくちゃ。この雨だもの、彼だってあたしと同じように、どこかで雨宿りしているはずよ。今飛び出して行ったって、彼があそこで待っているとは限らない。それよりも電話だってば。
 こう自分に言い聞かせながらも、その声がだんだん弱くなって行くのが分かる。それと反比例して強くなってくるのは――早く、早く会いたい。ただそれだけの想い。
 どうしてだろう。同じ職場でほとんど毎日のように会っているのに、どうして今こんなにも会いたいんだろう?

 ――あと一分。

 番号を呼び出したまま握り締めていた携帯をバッグにしまう。呼吸を整え、勢いの弱まらない雨を見据える。
 考えるのはもうやめた。――そういえば、彼からも何の連絡もないし。ってことは、もしかしたらあそこで待っているのかも。だとしたら――我ながら上手い言い訳だと思い、ちょっと苦笑した。

 理由なんか要らない。
 会いたいから会いに行く。それだけでいい。

 雨に霞む交差点の信号が、青に変わったのが見えた。次の瞬間には、あたしはもう雨の中に飛び出していた。

 点滅しはじめた歩行者信号をダッシュで渡り切り、肩で息を切らしながらあたりを見回した。前髪をつたって降りてきたいくつもの水滴が視界を遮る。いつもは人で溢れている広場も、さすがにこの雨では人影はまばらだった。駅の構内へ、あるいは周辺の建物の中へ、雨を避けて駆け込んで行くそれらの人影を尻目に、雨の中に突っ立ったままあたしは彼の姿を探す。きっと来てる、きっと待ってる。理由もなく、でもほとんどそう確信しながら。
 ふいに、待ち合わせ場所の時計台の下に佇む背の高い人影が目に飛び込んできた。何かを探すようにあちこちに視線を向けている。どくんと胸が高鳴った。間違いない、彼だ。
 来てる、と確信していたくせに、目の前に現われたその姿に舞いあがりそうになる。

「泉田クン!」

 呼びかける声が上ずるのを抑えきれない。振り向いた彼の顔に驚きが広がる。
 雨の中なのに、そこだけ光が射し込んだかのように微かに明るくなったように見えて、あたしはぶつからんばかりの勢いで彼の腕に飛び込んだ。
 顔をうずめたジャケットの胸元も、強く抱き締めてくれる腕も、すっかり濡れて冷え切ってしまっていた。――なのに、そうしているととても温かく感じられた。あたしは彼の背中に腕を回し、力を込めた。
 あたしの感じている温もりが、彼にも伝わるように。

 たっぷり30秒ほど強く抱き合ってから、背中に回した腕はそのままに、顔を上げて彼の顔を覗きこむ。
「こんなトコでずぶ濡れで待ってないで、電話すればよかったのに。そんなにあたしに会いたかった?」
 そう言って、ニヤリと意地悪く笑ってみせる。その物言いに、いつものように彼が苦笑する。その言葉が、あたし自身にもあてはまることには気づいてないようだ。その顔を見つめながら、ひそかに、けれど強く願った。
 どうか、どうかこれだけは気づいて。

 会いたかった。すごく会いたかったよ。雨に濡れることなど気にならないほどに、新品のブーツが濡れて駄目になることなど気に止める余裕もないほどに。毎日のように会っていても、こんなにも会いたかった。
 だから今、すごく嬉しい。この雨の中、君が待っていてくれたこと。あたしと同じくらい、もしかしたらそれよりも強く、会いたいと思ってくれていたんだって自惚れてもいい?

 いつの間にか、雨足が随分弱まっていた。柔らかく地面を打つ雨音が微かに響いている。雨足が弱くなったことで、駅や周辺の建物から少しずつ人が溢れ出してきた。どうせならもっと早く止めば良かったのに、と思いながら見上げると、厚い雨雲の切れ間から光の束がわずかに覗いているのが見えた。
 さっき彼の姿を見つけた時のことを思い出して、頬が熱くなる。本当に、この人の側に来たから光が射し込んできたみたい。ふと、まだ彼を抱き締めたままだったことに気づき、今更のように気恥ずかしくなって腕をはなした。
「凄いタイミングだな」
 同じように空を見上げながら、彼がポツリと呟いた。思わず彼の顔を見つめると、それに気づいた彼がちょっと気まずげな表情をした。
「何?タイミングって」
「い、いえ、何でもありません」
「おとなしく白状しなさい。何考えてたの」
 言いながらジャケットの襟元を掴んで軽く引っ張る。
「さっき、あなたが走ってくるのを見つけた時のことを思い出して、それで……」
 と、そこでいったん言葉を切った。顔を覗きこんで無言で促すと、ガラじゃないんですが、と前置きして。

「雨雲を蹴散らして来たみたいだ、と」

 それだけようやく言い終えると、彼は仏頂面になって横を向いてしまった。照れ隠しのつもりなのか、今しがたあたしが渡ってきた道路の向こうに視線をさまよわせる。

 雨雲を蹴散らして来た――君にはそう見えた?

 そうだとしても、それだけのパワーをくれるのはやっぱり君なの。雨雲でも嵐でも、君に会えるなら蹴散らして行くわ。いつでも太陽を見せてあげる。

「そうよ」
 両手で彼の頬を包んでこちらを向かせる。仏頂面の頬がかすかに紅潮しているのを確かめて、思わず緩みそうになった唇をきゅっと引き締め、挑戦的な微笑を作ってみる。
「雨なんかにあたしの邪魔はさせないんだから」
 その言葉に、今度は彼がふわっと唇を綻ばせた。つられて微笑みながら、あたしはほんの少しだけ背伸びして、その唇に軽く触れた。
 雨雲の影が逃げるように消えていき、光の束が何本も広場に降りてくる。


 さあ行こう、太陽を連れて。