美しい人よ、いま君を抱きしめよう

「何度言わせるの。あんなやり方じゃ百年たっても自供なんか取れやしないわ」
 ドアを開けた途端耳に飛び込んできた鋭い声に、一瞬身を引いてしまった。そう広くもない会議室の一角に人垣ができており、声はその中心から飛んできたようだった。入ってきた泉田に気がついた若い刑事が、ほっとしたような表情を浮かべた。
「ちょうど良かった。何とかして下さい」
「またか……」
 苦い表情で溜息をつく。何度目のことかもう数える気にもなれない。

 一週間前の早朝、中野区で老夫婦の轢き逃げ事件が起こった。すぐに犯人を割り出せるかと思ったが捜査が難航し、四日前に泉田ら何人かの捜査員が本庁から派遣されてきた。ほどなく容疑者として上がったのは、ある大物代議士の未成年の息子。しかし、スキャンダルを恐れた代議士が捜査に政治的圧力を加え始めたため、対抗措置として泉田の上司である涼子にもお呼びがかかったのだが。
 ――正直、厄介なことをしてくれたよなあ、署長……。
 涼子が参加してからまだ二日目、この間に捜査員達との間に生じた揉め事はすでに両手の指では足りなくなっている。そのたびに仲裁役を押しつけられるのは他ならぬ泉田であった。確かに本来の効果は絶大だが、副作用があまりにひどい。ドロボー除けに爆弾を仕掛けるようなものだ、とたいして上手くもない喩えを持ち出しながら、泉田は眉間に皺を寄せた。
 涼子自身に協調性が欠片もない上、所轄の捜査員達から見れば、本庁の人間であるというだけでライバル視の十分な理由になる。おまけに涼子はキャリアだ。そして……。

 涼子が泉田に気付いたが、一瞥しただけですぐに男に向き直った。
「もう一度、現場周辺の聞き込みを徹底しなさい。それと整備工場を片っ端から洗って。今の状態で取調べなんかしても、さっきみたいに言いくるめられて終わるだけよ。どんな些細なことでもいいから、有益な証言を持ってきなさい。こんなとこで油売られたんじゃ給料の無駄使いもいいとこだわ」
 一気に言い終えると、固唾を飲んで見守っていた見物人をざっと見回して「あんた達もよ! 見物してないでさっさと行きなさい!」と一喝した。20代の女性とは思えぬ迫力で怒鳴りつけられ、捜査員達が首をすくめてあたふたと部屋を出て行く。涼子と言い争っていた男も、忌々しげに鼻を鳴らして出て行きかけたが、すれ違いざまに低く吐き捨てた。
「女の癖にデカいツラしやがって」
 それは明らかに涼子に聞かせるための台詞だった。恐らくこの場のほとんどの人間が思っていたことだろうが、面と向かって言えた者はこれまで誰一人いなかった。室内の空気が凍りつく。
 ハ、と短くせせら笑う声が沈黙を破った。当の涼子だけが平然としていた。――少なくとも、表面上はそう見えた。
「女の癖に、ね。無能な男に限ってそう言うのよね」
 艶やかな唇に冷笑を浮かべて言い放つ。反論を予想していなかった男は一瞬呆気に取られ、次いで怒りを顔中にみなぎらせた。涼子がさらにたたみかける。
「しかも、どいつもこいつもみんな同じ台詞。もっと気のきいたこと言えないのかしらね、男の癖にさ。あたしにデカいツラして欲しくなかったら、ちょっとは頭を働かせてみたらどうなの? こっちだってサルの相手なんかしてらんないのよ」
「……この女ッ……!」
 怒りで相手の階級も忘れてつかみかかる。その手が涼子に届く寸前に、泉田が二人の間に割り込んで男の手首を掴んだ。
「状況をよく考えろ。――警視、あなたも言い過ぎです」
 男は肩で息を切らして黙り込み、涼子は一瞬泉田を睨みつけるとそっぽを向いた。
「やる気なくなっちゃった。10分休憩」
 言い捨てるとそのまま会議室からさっさと出て行ってしまう。ハイヒールの足音が遠ざかるのを待って、同僚達が不安げに口を開いた。
「おい、まさか降りるとか言い出すんじゃないだろうな」
「大丈夫でしょう。ああ見えても、ちゃんとご自分の責任を分かってらっしゃる方ですから」
 いっそ降りてくれればいいのに――とは誰も言わなかった。涼子が指揮をとっていればこそ、圧力がかかっているような状況下でもどうにか捜査を進めることができているのだ。彼女を捜査から外すことはできない。
 ……だが、だからこそ。
 このままではお互いにストレスが溜まる一方で、双方にとって良くない。さっさと事件解決して本庁に彼女を連れ帰った方がよさそうだ。そう判断した結果、結局彼は最もストレスの溜まる役割を自らに課すことにした。――つまり、機嫌を損ねた涼子のアフターケアだ。
「……まあ一応、ちょっと様子を見てきます」
「あ、ああ。任せた」
 涼子のあとを追って出て行きかけた泉田の背中に、毒を含んだ声が投げつけられた。
「……女なんぞにいいように使われやがって」
 さっきの男だ。何とまあ、学習能力のない。泉田も応じて、聞こえよがしに溜息をついて見せる。随分好戦的になったよな、俺。上司の悪影響だろうか。
「誤解するな。彼女じゃなく、お前を助けてやったんだ」
 彼の台詞の意味を、言われた男は理解できなかった様だった。呆気に取られる一同を残して廊下に出る。10メートルほど歩いたところで立ち止まり、今度は演技ではなく本物の溜息をついた。捜査も難航しているが、それよりも涼子の言動をフォローすることのほうがよほど神経を使う。
「あの、泉田さん」
 遠慮がちに呼びかけられて振り返ると、先程彼に仲裁を頼んだ若い刑事が立っていた。そういえば、涼子と対立していた男はこいつと組んでいたな、と思い出す。
「すみませんでした、面倒を押しつけた形になってしまって」
「気にするな。血の気の多い上司を持つと苦労するな、お互い」
 泉田が言うと、若い刑事はほっとした様子で肩の力を抜いた。だがすぐにまた改まった顔つきになってこう切り出した。
「実は、さっきの取調べのときにちょっとしたトラブルがあったんです」
 ――容疑者とされている代議士の息子は、ある名門大学の法学部に在学している。取調べに対して法律知識を持ち出して抵抗し――涼子が一度「覚えたての法律用語が使えて嬉しい? 良かったわねボーヤ。うーんと勉強してりっぱな大人になるのよー」と嘲弄したことがあったが――捜査員達の神経を逆撫でしていたのだが、先程の取調べの時にはこんなことを言ったのだという。

 ――なあ、こないだのオネーサンが捜査の責任者なわけ?
 ――なあんだ、若い女にペコペコ頭下げてんだ。イカツイ顔してんのに、だらしねえな。

 彼は彼で、涼子に小馬鹿にされたことに怒りを感じていたらしい。知識と口の達者さで到底かなわないと判断して、目の前にいた、一昔前の刑事ドラマの登場人物のような気性は荒いがやや単純そうな男を嘲弄することで鬱憤を晴らしたらしかった。その結果が会議室での口論というわけだ。あのボーヤはどうやら人の神経を逆撫ですることにかけては天才的らしいな、と泉田は思った。
「そのとき警視は?」
「隣室にいらっしゃったはずです。取調べに立ち会いたいと仰ったので」
「……じゃ、そのやりとりも聞いてたわけだ」
 こりゃ機嫌を直してもらうのは骨が折れそうだ。泉田が再び溜息をつくと、刑事は思いつめたように続けた。
「あの、たしかにちょっと頭が固いところがありますけど、職務熱心だし、悪い人ではないんです。ですから……」
「分かってるさ、心配するな。捜査から外すようなことはしないから」
 刑事の肩を軽く叩いてその場をあとにする。
 頑固者の上司のフォローは、やはり骨の折れる仕事だ。



 煙草の匂いが染み付いているロビーのソファに、こちらに背中を向けて座っている涼子を見つけた。
「あ」
 靴音に振り向いた彼女の表情に、いつもと違う何かが閃いたように見えた。だが一瞬のことで、彼女はすぐに、泉田が見慣れた不機嫌な表情を作ってみせた。
 ――表情を作った。そのことが泉田には分かったが、どういう言葉をかけるべきか迷っているうちに彼女が先に口を開いた。
「余計なことしてくれちゃって。あんなヤツ、外にぶん投げてやったのに」
「だから邪魔したんです。あのままだと収拾がつかなくなりますから」
「……分かってる」
 先程掴みかかられそうになった時、涼子がわずかに身構えたのを泉田は知っていた。黙って殴られるような彼女ではない。女性で、しかもキャリアでありながら、恐らくあの場の誰よりも格闘慣れしているはずだ。
 だが、いくら相手に非があったとは言え、涼子があの男を叩きのめしてしまえば亀裂は決定的になる。それに、上司に暴力をふるったということが知られれば、あの男は何らかの処分は免れないだろう。泉田は男を止めると同時に、さりげなく涼子をも牽制したのだった。――気付いたのは彼女だけだろうが。
 涼子は苛立たしげに溜息をついた。
「別に、馬鹿なヤツに何言われたって平気だけどさ。慣れてるし」
 ――平気なら、あんなにきつい反論を浴びせたりしませんよ。言葉に出さずそう返事しながら、涼子の様子がやはりいつもと違うことが改めて気になった。
 この人は何か不快なことを、言葉の上だけでも「平気」などと言って我慢するような人ではない。むしろたいしたことでなくとも「ああもう何なのよあのサル! 丸ビルの屋上から逆さ吊りにしてやろうかしら」ぐらいのことは言うはずだ。それに、最後の言葉のどこか投げ遣りな調子も彼女らしくない。
 慣れている。確かにその通りだ。彼女は慣れているはずだった。女の癖に。親の七光り。世間知らずのキャリア様。現場の苦労も知らずいい気なもんだ――新人時代から現在に至るまで、ある時は彼女の耳に入らないところで、ある時は聞こえよがしに、幾度も囁かれた陰口を、泉田もよく知っていた。
 けれど同時に、涼子がその手の陰口を悠然と無視し、あるいは冷笑で報い、それらより遥かに多く、明晰な頭脳と類稀な行動力で事件を解決に導いたことで――それがどのような結果であれ、とにかく解決は解決だった――、不当に彼女を貶めた者達を蹴散らしてきたこともまた、彼はよく知っていた。

 敗北を知らない女。それが、涼子に対する泉田のイメージだった。

 だが今、床に視線を落として黙り込む涼子の姿は、そのイメージと大きく異なっている。この人でもこうも落ち込むことがあるのか、と彼は内心ひどく驚いていた。
 本当は、自分が思っていたほどには、この人は強くないのかも知れない。そうも思ったが、そのことに失望は感じなかった。プライドが高い分だけ、それを傷つけられた時の痛みは他の者より深いのかも知れない。慣れている、と口では言いながらも、ずっと痛みを抱えてきたのだろうか。

 かける言葉を見つけられず、またそんな自分に何故か苛立ちながらふと顔を上げると、ロビーの片隅に自販機があるのを見つけた。缶コーヒーを二本買い、一本を涼子に差し出すと、顔を上げてようやく彼女が笑った。
「気が利くじゃない。――缶コーヒーってとこが減点だけど」
 泉田の手からそれを受け取ると頬に当て、ほっと息をついた。その隣に腰を下ろし、ためらいながらも口を開く。
「……辛いなら、そう仰って下さい」
 缶コーヒーを開けて唇をつけたまま、涼子がこちらを向いた。一瞬の間を置いて目を丸くする。妙に顔が熱くなるのを自覚しながら、それでもどうにか言葉を探した。何故か言わずにはいられなかった。
「無理しなくていいんです。その……力にはなれないかも知れませんが、せめて私にだけは、そういうことも仰って下さい」
 随分恥ずかしいことを言ってるな、という自覚はあった。さすがに涼子の顔は正視できず、足元に視線を落としながら続ける。
「それに、口ではどう言っても、あなたが他の誰にも出来ない仕事をしていることは、私だけでなく彼らもちゃんと知っています。……あなたがいるから、私達は戦える」
 顔を上げずに言い終えると、栓をしたままの缶コーヒーを掌でなんとなくもてあそぶ。すっかりぬるくなってしまっていた。
「……やあね、今更」
 しばしの沈黙のあと、涼子が肩をすくめて笑った。
「そんなこと言われなくたって、ちゃんと分かってるわよ」
「そうですか」
「でも、……嬉しい。ありがと」
 可聴域ぎりぎりの小さな声で付け加えると、涼子はそっぽを向いて再び沈黙した。表情は分からなかったが、柔らかい髪の間から覗く形のいい耳が赤く染まっているのを見て取り、自然と笑みが零れた。
「あの、さ」
 しばらく押し黙っていた涼子が再び顔を上げ、ためらいがちに切り出した。
「はい?」
「あたしも同じ」
「何がですか」
「さっきのことよ」
「ですから、何が同じなんですか」
 ああもう、と苛立たしげに呟くと、一度大きく深呼吸をして、身体ごと泉田に向き直った。二人の視線が至近距離で交錯した。

「あたしも……君がいてくれるから、戦える」

 耳の奥で言葉が甘く響いた。
 ほんとよ、と付け加えると、涼子は泉田の目をまっすぐに見つめて微笑んだ。柔らかな光を湛えた双眸に自分の顔が映し出される。彼女らしからぬ言葉だ、と思ったが、そう言って笑って流すことの出来ない何かがその光の中にあった。じっと見つめられて落ちつかないが、目をそらすことも出来ない。何時の間にか右手が彼女の頬に触れていた。
 屈託のない微笑が、困惑の表情にとってかわる。泉田を見上げたまま、何かを言いかけて止め、きゅっと唇を引き結んだ。こくり、と小さく息を飲んだのは彼女なのか、それとも自分なのか判断がつかない。

 ――俺は今、何をしようとしているんだろう……?

 辛うじて残っている理性が、今更のように問いかけてくる。固定されたように動かない視界の中で、涼子の瞳が淡い緊張の色を帯び、ゆっくりと閉じられた。それに誘われるように顔を近付けていく。長い睫毛が吐息で微かに震える。頭の奥は痺れたような感覚に囚われたままだ。
 目を閉じる瞬間、頬に彼女の静かな呼吸を感じた。



「薬師寺警視!」
 ふいに背後から響いた大声に、泉田の身体がびくりと強張る。走って来たらしく息を切らしている若い刑事も、まずいところに出くわしたという表情であたふたと視線を泳がせた。
「す、すみません、お邪魔を」
「何かあったの?」
 落ち着きを失った男二人とは対照的に、一人平然と問い掛ける。
「はい、あの、容疑者宅の近くの車両整備工場に、事件の翌日に容疑者の車が持ち込まれたことを従業員が吐いたそうです」
 その瞬間、涼子の表情が、厚い雲が切れて陽射しが降りてきたかのように輝いた。
「その報告、間違いないわね!?」
「は、はいっ」
「よっしゃあっ!」
 勢い良く立ち上がって叫ぶと、矢継ぎ早に指示を繰り出す。
「すぐ鑑識を向かわせて、タイヤ痕を確認して! それと、さっきのあいつ名前なんつったっけ、あのサル」
「あ、えーと……」
「取り調べを任せると言っておきなさい。証拠は揃ってんだから、もう好きにやっちゃっていいわ。以上、早く伝えて!」
 先程の出来事など忘れたように威勢のいい彼女の傍らで、泉田はようやく呼吸を整えることに成功した。危なかった、と内心で呟く。本当に危なかった……!
「証拠も出たし、これで解決ですね」
「そうね、天はやっぱりあたしの味方だったわ」
 天井を仰いで高らかに笑うその姿に、さっきまでちょっと参ってたくせに、と言いかけてやめた。表情はいつもどおり自信に満ち溢れており、先程見せた無防備な様子は幻だったのではないかと思うほどだ。
「何か言いたそうね」
 涼子が泉田の顔を見てニヤリと笑った。慌てて言い繕う。
「あ、いえ……、よろしいんですか? 取調べを任せて」
「証拠も出たし、自供が取れなくてももう構わないもの。それより急いで本庁に戻らなきゃ」
「え」
「父親が検察に圧力をかける前に先回りよ。明日の朝刊に間に合うように会見、それから検察に根回ししとかなくちゃ。あのバカ息子、最大限に実刑食らわせてやる!」
 あたしを怒らせた罪は重いんだから。そう言って楽しげに笑う瞳に、鋭い光が宿る。彼の見慣れた彼女の表情。先程と違い、今度は自然な表情だった。

 見慣れた表情。その通りだ。
 活力に満ちた、彼女を最も美しく見せる表情。

 本当はもう分かっているのだ。その表情が、普段より一際魅力的に見える理由など。

「泉田クン」
 その表情のまま、涼子が泉田を振り返った。優美な動作で右手を差し出す。
「行こう、あたしたちの現場へ」
 つとめて自然に見えるように努力しながら左手を差し出したが、どうにもぎこちなくなってしまう。掌を重ねると、涼子がそっと握りしめてきた。

 まいったな。思いがけない展開に一人苦笑する。
 こんなはずじゃなかったのに。他のどんなタチの悪い女に引っ掛かることはあっても、この人にだけは夢中になるなんて有り得ないと思っていたのに。たった十分であっさり覆されてしまった。
 けれど。

 ――君がいてくれるから、戦える。
 あなたがそう言ってくれるなら。

 応えて強く握り返すと、彼女が大輪の花を思わせる微笑みを浮かべた。