pleasures
時間ばかり長い無意味な会議からようやく解放されたとき、時刻はすでに7時を過ぎていた。普段なら定時過ぎまで仕事など考えられない上層部が、何故か今日はやたら熱心に議論したがったのは、ここのところ相次いでいる不祥事のイメージを払拭したかったからかもしれない。資料を片手に参事官室へ戻りながら、涼子は唇の端だけで皮肉っぽく笑った。だが、ポーズだけにしても今日の会議は馬鹿馬鹿しすぎた。それに。
――よりによって今日じゃなくてもいいじゃないの。
参事官室のドアを荒々しく開けると、残っていた人物が顔を上げた。
「あ、お疲れ様です」
「……なんだ、まだ残ってたの?」
「明日は休暇を頂くので、ある程度片付けておこうかと。今終えたところです」
机の上で書類をまとめながら答えたのは警部の丸岡だった。
「他の人は?」
「もう皆帰りましたよ」
「……そう」
お疲れ様、と声をかけると、丸岡がふいに思い出したように問いかけてきた。
「そういえば警視、泉田警部補に何か仰ったんですか?」
「何で?」
「いえ、今日、ずっと難しい顔で考え込んでいたようでしたので。何か無理難題でも吹っかけられたのかと」
「……あのさ、何で泉田クンが悩んでる原因はみんなあたしになるわけ?何よ、みんなあいつばっかり苦労人扱いしてさ。苦労してるのはあたしよ」
不満そうな涼子の口調に、丸岡は曖昧な笑いで応じた。それじゃお先に、と出て行く背中を睨みつけながら、今朝泉田と交わした会話を思い出す。一日中何か考え込んでいたその原因に、思い当たることはひとつしかなかった。
「え、今日だったんですか?」
28歳になった、と何気なく言うと、泉田はひどく驚いた顔をした。
「やだ最悪。知らなかったの?」
涼子の言葉に、言わなかったじゃないですか、と溜息をつく。誕生日くらい把握しててよ、と涼子が重ねて悪態をつくと、すみません、と苦笑した。最近はいつもこんな感じだな、と涼子は思う。自分の言葉の理不尽さは十分承知している。普通なら相手を怒らせるところだろうが、この男はそうせずに、常に一歩引いた態勢でいる。――まあ、たまには怒らせてしまうこともあるけど。
しかし、周りからは間違いなく「優しい彼氏だね」と言われるだろうその対応は、ここのところはむしろ涼子を不機嫌にさせていた。この感情も、やっぱり理不尽だろうか。
「何か欲しいものってありますか?」
「言ってもいいけど、ホントにくれるの?」
「……私に出来る範囲でお願いします」
「そんなこと言ったらほとんど駄目じゃないのさ。バッグとかアクセサリーとか世界とか」
「すみませんね、甲斐性ナシで。って最後のひとつは何なんですか」
また苦笑した泉田を見やって、ふいにあることを涼子は思いついた。
「冗談よ。……そうね、それじゃ」
腕を泉田の首に回し、口元にニッと笑みを浮かべる。
「君が考えられるもので、最高のものをちょうだい」
「……え……?」
意味を掴み損ねたのか、泉田が戸惑いの表情を浮かべた。
「どういう意味ですか」
「言葉通りよ。期限は今日いっぱい。楽しみにしてるからね」
会議資料を引き出しに放りこみ、バッグを取ろうとしたところで携帯が鳴った。
「警視、今どちらですか?」
電話を通しても、泉田の声は穏やかであたたかい。
「今出るとこ。会議、ついさっき終わったの」
「あ、そのままそこで待ってて下さい」
「え?」
「五分ほどで行きます。……待ってて頂けますか」
電話の向こうで、声がわずかに緊張を帯びているのに気付いた。真剣な口調で言われて、目の前に相手がいるわけでもないのに頷いてしまう。慌てて言葉を紡ぐ。
「……分かった、待ってる」
電話を切り、大きく息をつくと、涼子は泉田のデスクに腰を下ろした。
"君が考えられるもので、最高のものを"。
どうしてあたしは、こんな表現でしか伝えられないのだろう。相手は超がつくほどの鈍感野郎だということを、身に沁みて知っているのに。
中途半端な謎かけなどしないで、素直に言えばいいのだ、ということは分かっている。無理にプレゼントなんてしなくていい。君が側にいて、祝ってくれればそれだけでいい。
だけど、実際には口を開くたびに素直な言葉は消え失せて、代わりに攻撃的で生意気な言葉だけが機関銃のように飛び出してくる。
先程丸岡が言っていた、泉田が一日中悩んでいた、という事実は、涼子をかなり満足させた。いつもいつも、余裕があるのは彼の方だ。相当なものだろうと思われる彼女のわがままに、不満をこぼしながらも付き合って、理不尽な言葉も笑って受け流して。
勿論、一つ一つにいちいち怒るような相手だったら、彼らの関係は三日ももたないだろう。彼がそういうタイプでないからこそ付き合って行ける。それは分かっている。
けれど、彼ばかり余裕があるというのは涼子にとって腹立たしくて仕方が無かった。
受け流してなど欲しくない。
もっと悩んで。
言葉も行動も、ひとつ残らずちゃんと受けとめて、あたしのことをもっと考えて。
ドアが開くと同時に、カサリというかすかな音と甘い香りがした。振り向いて目に入ったのは、今日一日彼女が散々悩ませた男と、その手に抱えられたもの。
「うっわー……キザ……」
思わず漏らした言葉に、泉田が不満そうに顔をしかめた。
「感想はそれですか。私だって結構恥ずかしいんですよ」
「だって、そんなの持ってる男初めて見たわよ」
泉田が持っていたのは花束だった。それも、真紅の薔薇とかすみ草。この上なく華やかなそれと、憮然とした表情とのギャップに、涼子はつい顔をほころばせた。
「とにかく、受け取ってください。嫌なら……」
「嫌じゃない」
ぎこちなく差し出された花束を受け取ると、その色彩につい見惚れてしまう。顔を近付け、しばらく甘い香りを楽しむと、涼子は顔をあげ、今度はあでやかに微笑んだ。
「ね、これが"最高"?」
「…………」
「そう思ったから、恥ずかしいと思ってても持ってきてくれたのね?」
「…………笑ってもいいですよ」
「笑わない」
言葉とは裏腹に、顔がどうしても笑ってしまう。――それは勿論、泉田が言う意味での「笑う」ではなかった。花束を抱いた胸の辺りから、あたたかいものが溢れてくる。涼子につられるように、泉田がようやくほっとした表情を浮かべた。
「ひとまず合格ですか?」
「そうね、ひとまずね。――じゃ、食事にでもいこっか」
「あ、すみませんけど予算低めでお願いします」
「……何で?」
「言いづらいんですが……その、もう持ち合わせがあんまり……」
「あーもうっ!バカっ!」
花って案外高いんですね、と付け加えた泉田の額を思いっきり弾いて、涼子は盛大に溜息をついた。結構いい気分になっていたのに、台無しだわ。完全無欠のロマンティックには百年早い。
――でも、あたしたちにはこれが相応しいのかも知れないな。
「しょうがない、今日はファミレスで勘弁してあげる。……あ、けど」
言いかけて、涼子は泉田の顔を見ながらニヤリと笑った。
「良く考えたら目立つわよね、花束持ってファミレスに入るカップルってさ」
「……あの、外食はやめて出前にしませんか」
「駄目」
狼狽した泉田を見やってクスクスと笑うと、もう一度花束に視線を落とした。
「……見せびらかしたいから」
一目で恋人へのプレゼントと分かるような豪華な花束を、わざわざ選んでくれたこと。そのために持ち合わせが少なくなってしまったこと。――多少マヌケではあるけど、それもひっくるめた全てが嬉しくて、愛しい。
小声で呟いた言葉は、あまりにも自分の感情を素直に表しすぎた気がした。それに気付いたのか、泉田が無言で涼子を見つめる。頬が熱い。顔が上げられない。薔薇色の頬、なんてシャレにならないわ。俯く涼子の耳に、柔らかい声が響いた。
「誕生日おめでとう、……涼子」
呼びかける前の一瞬のためらいに、つい笑みを誘われる。肩を抱き寄せられ、見上げた視線の先には、やや緊張した様子の彼。
――ああ、そうか。
いつも余裕綽々なわけじゃないんだ。ちゃんと見てればわかることなんだ。
それなら、あたしもそうしなくちゃ。見て欲しいと求めるだけじゃなく。どんな表情も見逃さないように、どんな言葉も聞き逃さないように。
彼女はそっと目を閉じて、その瞬間を待った。