春が来て、君は

 午後の陽射しは柔らかく、風は緩やかであたたかい。
「絶好の花見日和ね」
 満開の桜の隙間から覗く青空を見上げて涼子が笑った。時折枝が揺れ、その度に淡い色の花弁が風に舞う。木の下にビニールシートを広げ、買ってきた缶ビールで押さえる。
「これだけ見事な木の下が空いていたのは幸運でしたね」
「平日の昼間だからでしょ。感謝するのね、あたしのおかげなんだから」
 香港へ向かう豪華客船での事件の後、帰国してから事後処理を稀に見る早さで片付けた涼子は(提出する書類の大半はいつものように私が書いたのだが)、上層部から休暇をもぎ取ってきた。折り良く桜も今週が見頃、事件解決の打ち上げも兼ねて花見でも、と計画したのだが。
「みんなも来れば良かったのにね」
 涼子がシートの上に腰を下ろしながら微笑む。勿論誘ったのだが、「悪いけど用事が」とか言われて断られてしまったのだった。中には意味ありげな笑みを浮かべながら「警視も一緒なんでしょ?邪魔しちゃ悪いですし」などと言う者もいた。……何の邪魔なんだか。
「どうしたの?ビールぬるくなっちゃうわ。早く飲も」
「……あ、どうも」
 差し出された缶を受け取り、「カンパイ」と軽く掲げてから喉に流し込んだ。
「桜の木の下には死体が埋まっているんだってね」
「……梶井基次郎ですね」
 このうららかな陽気になんて話題を持ち出すんだ、と呆れる。その次の涼子の台詞も簡単に予測がついた。
「ね、どっか適当に掘ってみない?」
「イヤです」
 即答すると、つまんないの、と呟いて涼子が空を見上げる。舞い降りてくる花弁は薄紅色というより白に近く、ひらひらと風に流れる様がまるで雪のようだ。季節はずれでもあるし、背景が青空だというのも何ともミスマッチだが。

 ――季節はずれの雪、か。
 ありきたりな感想とともに、あまりにも有名な曲がふいに思い出された。

「……随分古い歌を持ち出すのね」
 ふと気付くと、涼子がこちらを見て微笑んでいた。口ずさんでいたことに自分では気付かなかった。赤面する私を見やって、涼子は楽しげに続けた。
「泉田クンの歌なんて初めて聞いたわ。案外いい声してるのね」
「からかわないで下さい」
「からかったわけじゃないわ」
 肩をすくめて笑い声を漏らすと、彼女は私の方に身を寄せ、そっと肩にもたれかかった。
「え、あの……?」
「最後まで聞かせて。――これなら、他には聞こえないでしょ」
 肩にかかる重みと布地ごしに感じる温かさに、動揺する私に構わずそう囁く。
「歌詞を間違えたら殴るわよ」
「……難問ですね」
 まあ、カラオケを強要されるよりはマシだ。軽く咳払いをして躊躇いを打ち消し、女王様のリクエストに答えることにした。

 やっとのことでワンコーラス口ずさみ終えてふと見ると、肩にもたれたまま涼子は静かに寝息を立てていた。
 ――子守唄のつもりじゃなかったんですがね。
 今にも取り落としそうな缶を手からそっとはずし、傍らに置く。缶ビール一本で眠ってしまうほど、酒に弱くは無かったはずだが。
「警視、起きて下さい。風邪引きますよ」
「……ん」
 声をかけると、くぐもった返事を漏らして一旦身を起こしたが、すぐにまた倒れこんだ。――今度は膝の上に。
「え、ちょっと」
 慌てて揺さぶるが、一瞬不快そうに顔をしかめただけで、全く目を覚ます気配がない。肩に掛けていたストールが落ちてしまっている。仕方なくそれを肩に掛けてやり、軽く溜息をついて再び桜を見上げた。
 ああ、美しい季節だ。心穏やかに堪能したいものなのだが。



 平日の午後とは言え、公園には意外に人が多い。前を通りすぎて行く人々が、ちらちらと興味深げに視線を投げかけてくる。私達がどんな風に見られているかは容易に想像がついた。
 ――冗談じゃないって。
 吐き出したい思いをビールで一気に喉の奥に流し込む。空になった缶をコンビニの袋に突っ込み、すでに何度目か分からない溜息をついた。
 膝の上で涼子が寝返りを打ち、仰向けの姿勢になった。前髪が目を覆ってしまっているので、何気なくそれを払ってやる。柔らかな髪の下から現れた長い睫毛が、春の風に微かに揺らいだ。

 ――綺麗な人ではあるよな、確かに。

 ぬけるような白い肌に、ほんのりと色づく頬。意志の強さを感じさせる、やや吊りあがった細い眉。上品なカーヴを描く長い睫毛。今は閉じられている瞼の下には光の踊る瞳。形のいい鼻梁、艶やかな唇。
 正体を知らなければ、誰もが魅了されるに違いない。今更改めて認識するまでもなく、美しい人だ。長年――そう、彼女が警察に入ってきて以来、フランス出向中の期間を除いただけの間――の付き合いになっても、どうやら私の目は彼女の美しさに慣れることはできないようだった。たとえどんなに本性を知り尽くしていても、くるくると変わる表情に、何気ない仕草に、つい目を奪われてしまう。いつまでたっても免疫が出来ない。

 ――そう、今も。

 膝の上でやすらかな寝息を立てている涼子は、普段の姿からは想像も出来ないほどにあどけなかった。子供っぽいところのある人だというのは知っているが、これほどに無防備な表情は見たことがない。可愛い、と自然に思い、そんな印象を抱いたことに驚いた。
 自分で思っている以上に、俺はアホなのかも知れないな、と思う。正体を知らずに彼女に魅了されてしまうのは仕方がないが、知っていて魅了されるのはただの馬鹿だ。
 ――分かっているのに、何故こんなにも目を奪われてしまうのか。

 考えようとしてみたが、不本意な結論になりそうだったのでやめた。
 代わりに新たなビールを喉に流し込む。爽快感が売りのメーカーのはずなのに、やけに苦味が舌に残った。



 膝の上で春眠をむさぼっていた涼子が、もぞもぞと起きる気配を見せた。瞼がゆっくりと開くのを待って声をかける。
「おはようございます」
「……わっ!?」
 覗き込んだ涼子の瞳が、一瞬の間を置いて丸く見開かれた。跳ね起きた拍子に、髪に散らばっていた花弁が何枚か落ちる。
「やだ、起こしてくれれば良かったのに。どのくらい寝てた?」
 意味もなく髪を整えながら、ぶっきらぼうに尋ねる。起こしたけど起きなかったんですよ、と言いながら、髪に残った花弁を払おうと無意識に手を伸ばして、何となく引っ込める。
「三十分程ですが。随分気持ち良さそうでしたね、寝不足だったんですか?」
 からかい混じりの問いには答えず、彼女はすでに資源ゴミ袋と化したビニール袋を覗き込み、不満げな声をあげた。
「ずるい、一本も残しておいてくれないなんて」
 買ってきたビールは四本だったから、確かに少し飲み過ぎたかもしれない。明日に響かなければいいのだが。
「すみません。団子なら残ってますけど」
「いらない」
 差し出した団子をちらりと見やると、拗ねた声で答えてそっぽを向いたが、しばらくして、ためらいがちに尋ねてきた。
「……それより、寝てる間に変なことしなかったでしょうね」
「しませんよ」
 そんな命知らずな。
 しかし、即答されたのが気に入らなかったのか、涼子は「あっそ」とそっけなく言うと黙り込んでしまった。
「……して欲しかったんですか?」
 20秒ほど奇妙な沈黙が続き、それを吹っ切ろうとふざけて問いかけた。怒るかと思ったが、涼子はこちらを振り返り、あっさり言い放った。
「泉田クンならいいよ」

 木々の間を風が駆け抜ける。降り積もった花弁が再び舞い上がり、螺旋を描いて流れた。

 冗談でしょう、と笑おうとして失敗した。彼女が無言で私を見つめている。形のいい右手が動いて、私の頬に触れた。あたたかく柔らかな感触に包まれたのを感じた、次の瞬間。

 ――思いっきり引っ張られた。
「んがっ!?」
 予期せぬ行動に驚いたせいで、間抜けな声が漏れてしまった。――何を予期していたのか、と問われると困ってしまうが。楽しげに笑いながら手をはなすと、涼子は再び私の顔を覗き込んだ。
「本気にした?」
「……まさか」
「ふうん」
 取り繕った冷静さを見透かすように笑みを浮かべると、私の手から団子を取って口に入れる。引っ張られた頬に残る感覚を持て余しながら、私はまた桜を見上げた。



 何度払い落としても舞い降りては髪を彩る花弁を、もう一度軽く払い落とす。二人で座るのに丁度いい大きさしかないビニールシートは、折りたたんで彼女のバッグに。ほとんど一人で飲んでしまったビールの空き缶は近くのゴミ箱に。
「この公園、千本以上の桜があるんだって」
 入り口近くにあった案内板の存在に今更気付き、読んでいた涼子が振り返って微笑んだ。
「まだ見るんですか?」
「だって、結局あたしは寝てただけだし、君は飲んでただけでしょ」
 言いながら腕を組んで私を睨みつける。ビールを残さなかったことをまだ根に持っているのだろうか。子供っぽい執着には少し呆れてしまうが、表情にはやはり惹かれてしまう。って俺、怒られてんだって今。
「ちょっとは運動しないと、ビール腹になっちゃうわよ。嫌よ、そんな男と歩くの」
「はいはい」
「返事は一回!」
「……はい」
「よろしい。それじゃ行きましょうか」
 膨れっ面を翻し、満足げに笑って頷くと、当然のように腕を絡めてきた。薄い布地越しに伝わる温もりを、私の腕もまた当然のように受け入れる。何故か胸の奥が奇妙に疼いた。
「……どうしたの?」
「いえ、何でも」
 一瞬感じた戸惑いの正体を掴みかねたまま答える。いつものことだ。今更戸惑う必要などない。そう言い聞かせ、私は彼女に笑いかけた。いつものように。――そう見えるように。
「では、参りましょうか、女王陛下」



「あ、そうだ」
 並木道を歩きながら、涼子が思い出したように言った。
「ね、さっきの歌もっかい歌って」
「……またですか!?」
「だってあたし聞いてないもん」
「寝てたからでしょう。もうリクエストは締め切りです」
「ケチ。いいじゃない、もう一回ぐらい」
「却下」

 歌えるものか、こんな精神状態で。
 ――「去年よりずっときれいになった」なんて。