やまとなでしこ

「初詣まだなんでしょ?だったら一緒に行かない?」
 涼子からそんな電話があったのは、テレビの正月番組にも飽き始めた頃だった。
「どーせ寝正月を決めこむつもりだったんでしょ。暇なら付き合いなさい、久しぶりに日本人らしい正月したいしさ」
 電話を通してさえ失われない、音楽的な甘い響き。新年を父親のいるニューヨークで迎え、たった今成田から戻ったばかりだと言っていたが、その声に旅の疲れは感じられなかった。
 こうやって休日に突然連絡がくるのは珍しいことではない。最初のうちはあれこれ理由を探して断ろうとしていたが、そのうち止めてしまった。どうせ逆らえるわけがない。
「……手当ては出ないんですか」
 それでも一応、形だけでも抗ってみる。正月なのだ。こういう時ぐらい、ワガママ上司から解放されてのんびりしたい。
「つくわよ、勿論」
 意外な返答に驚いていると、悪戯っぽい笑い声が耳元で弾けた。――声を聞いただけで、彼女がどんな表情をしているか思い浮かべることができる。
「新年早々、とびっきりの美人と待ち合わせできるわ。おつりが来るほどじゃない?」



 わずかな抵抗の甲斐もなく、結局呼び出されてのこのこと出てきてしまった。今年一年を象徴しているようで複雑な気分だ。
 神社へ向かう道は、ニュースで見た元日の混雑ぶりに比べると随分人出は減っていたが、それでも正月連休の最終日とあって、最後のピークを迎えているようだった。
 人ごみを掻き分けながら待ち合わせ場所へ向かう。涼子は時間にうるさいから、待たせたりしたらあとでどんな無理難題を吹っかけられるか分からない。そう思って、だいぶ早めに家を出てきたのだが、目印の大鳥居の下にすでに涼子が佇んでいるのを見つけた。遠くからでももすぐにそれと分かるのは、人並みはずれた美貌のせいばかりではない。
 きょろきょろと辺りを見回していた明るい瞳が、私を見つけてぱっと輝いた。軽く右手を挙げて合図し、そこへ駆け寄る。
「遅いッ」
 側まで来ると、涼子が不機嫌そうな口調で言った。去年の秋から馴染んできた口調だ。
「正月早々あたしを待たせるとはいい度胸じゃないの」
「すみません。ですが別に遅刻じゃないでしょう?」
「駄目。あたしと待ち合わせする男は、先に着いて待ってるくらいじゃないと」
 ……なんつーワガママな、とは今更思わない。こんなことでいちいち呆れていては涼子に付き合ってなどいられないのだ。
 が。
 傍若無人な涼子にしては意外なことだが、彼女は約束の時間に決して遅れて来ない。今日のように、時間より少し早めに待ち合わせ場所に着いていたりする。彼女より早く着くのは、それほど難しくはないが、少し努力の要ることだ。――まあでも、女王陛下の仰ることなので、ちょっとは努力してみましょうかね。逆らえないんだし。
 それじゃ行こうか、と歩き出しかけたところで、ふと彼女がこちらを見つめた。
「……何ですか」
「ん、そういえばまだだったなって」
 まだって何が、と問う前に涼子はもう一度私の正面に立ち、視線をまっすぐに私の顔に向けた。――そして、
「あけましておめでとう」
 両手を腰の辺りで揃え、ややあらたまった口調で言いながら、軽く、だが丁寧に頭を下げる。礼儀作法の手本のようだと思った。それほど完璧なお辞儀だった。ゆっくりと頭を上げると、柔らかく微笑む。いつもの高慢な印象が消え、代わって上品で育ちの良さそうな雰囲気が漂った。
 ――そういやこの人、一応イイトコのお嬢様だったっけ。
「あ……どうも、おめでとうございます」
 いつになくしどろもどろになって返事する自分が、どこか滑稽に思えた。



「初詣なんて十年ぶりぐらいじゃないかしら」
 そう言って、涼子はあちこちに視線を巡らせてははしゃいでいる。食べ物の屋台を見つけてはリンゴ飴が食べたいと言い、射撃ゲームを見つけては一緒にやろうと言う。
「あんまりきょろきょろしてると、迷子になりますよ」
 さっきのお嬢様ぶりはどこへやら。あまりにも子供っぽいのでそう言ってからかうと、涼子は唇をとがらせた。かと思うと、今度は悪戯っぽく笑みを浮かべて右手を差し出した。
「じゃ、繋ご」
「は?」
「こうしてればはぐれないでしょ」
「……そりゃ、そうですが……」
 ちょうどその時、傍らを高校生くらいのカップルが通り過ぎて行った。ためらいがちに手を繋いで、本殿へ続く参道を歩いて行く。……繋ぐって……マジですか。
「ほら、グズグズしない!」
「……はいはい」
 重ねて催促され、仕方なく涼子の手を取った。――毒食らわば皿まで。そういう心境だったのだが。
 手を取った瞬間、涼子が顔をほころばせた。柔らかな掌に力がこもる。わずかに身を寄せてきた彼女の温もりが、掌からだけでなく互いのコートを通してさえ伝わってきたように感じられて、落ち着かない気分になった。



 人波に揉まれながら、ようやく本殿に辿りつく。賽銭を投げ入れて手を合わせる。神頼みなど性分じゃない、と言いそうな涼子も、何故か真剣な様子で手を合わせていた。
「泉田クンは何お願いしてたの?」
 読み終えた御神籤を木に結びつけながら――涼子は大吉、私は末吉だった――涼子が尋ねる。
「まあ、健康祈願とかそんなところです」
「……ありきたりね」
「身体が資本ですから、この商売は。それに……」
 涼子が上司になってからというもの、現場に出る回数が減った代わりに、たまに現場に出ると訳の分からない怪物だのヤクザだのと渡り合う羽目になっている。普段からもう少し気をつけておくべきではないか、と思い始めてきたところだった。私がそう言うと、涼子は満足げに頷いた。
「なるほどねー。それでこそあたしの忠臣だわ」
「……何でそういう結論になるんですか」
「だって、つまり去年みたいに色々あってもちゃんとあたしについて来れるように、健康に気を使ったり身体を鍛えたりするって言ってるんでしょ?」
 いえ、そうは言ってませんが。しかし、裏を返すとそういう意味になってしまうのだろうか。
「で、あなたは何をお願いしたんですか?」
 ようやく呼吸を整えて反撃に出る。その気になれば何でも自分で手に入れられるはずの彼女が、神頼みしてまで叶えたいこととは何なのだろう。
 涼子は左手の人差し指を唇に当て――右手は私の左手の中だ――しばらく黙り込んでいたが、やがて顔を上げてにっこりと微笑んだ。
「ナイショ」
「私のだけ聞いておいてずるいですよ」
「じゃ、叶ったら教えてあげる。来年の初詣のときにね」
 つまり、来年の初詣にも付き合え、ということか。言外の意味に気付いて苦笑する。涼子が、ひときわ賑わっている一角を指して尋ねた。
「あそこでお守りとか売ってるけど。何か買う?」
 そうだな、災難除けとか買っておいた方がいいだろうか。今年も去年みたいなことになるだろうし。一瞬そう思ったが、考え直して首を振った。
「いえ、今年は結構です」
 このトラブルメーカーと一緒にいる限り、お守りなどあっても役に立たない気がする。――それに、どんな災厄も結局いつも乗り切ってきた。自分の幸運は使い果たしたかもしれないが、涼子の悪運にならもう少し頼っていても大丈夫ではないだろうか。
「あなたはどうします?」
「あたしも要らない。――すっごくご利益があるの、もう持ってるから」
 そう言って涼子は意味ありげに笑った。彼女がお守りなど持ち歩いてるとは思わなかったので、少し驚いた。
「へえ、どういうご利益ですか?」
「そうねえ……簡単に言うと、仕事がうまく行くってトコかしら。あと、危険から身を守ってくれるの」
 なるほどね。悪運の強さはそのお守りのご利益ってことなのか、とひとり納得していると、傍らで小さな溜息が聞こえ、続いて左の掌に力が篭るのを感じた。涼子が呆れたように、だが柔らかく微笑を浮かべて私を見ていた。



 最初に待ち合わせた大鳥居の前で、ここでいいわ、と言って涼子は手を放した。
「送って行かなくていいんですか?」
 ようやく自由になった掌が、外気に晒されて急速に冷えて行く。つい先程まで包まれていた柔らかなぬくもりを忘れ難く感じながら、コートのポケットに手を突っ込んだ。
「ん、まだ明るいし、寄るとこあるから」
「そうですか」
 空が紅く色づき始めていた。涼子の頬がわずかに紅潮しているのは、下がり始めた気温の所為だろうか。
 それじゃ、と言って別れても良いはずだったが、何となく立ち去りがたい。かといって適当な話題も見つからず、黙って足元に視線を落とす。不意に涼子が口を開いた。
「明日、仕事始めね」
「……ああ、そうでしたっけ」
 今年も大変な年になりそうな気がするなという予感を、今日一日で何度抱いたことか知れない。――だが、その予感に不思議と嫌な気分がしないことに私は気づいていた。何があってもきっと大丈夫だ。

 この人と一緒なら。

「……泉田クン」
 呼びかける声にふと我に返る。涼子が目の前で微笑んでいる。ちょっと待て――今、俺は何を考えていた? この美しいけど最高にタチの悪い女王様に、去年どんな目に遭わされたのか忘れたのか。結果的には無事だったが、彼女があちこち首を突っ込みたがるせいで、こっちはしなくていい苦労をしてきたんじゃないのか? なのにあんまり能天気すぎないか?
 私の内心に構わず、涼子は優美な仕草で右手を差し出してきた。握手を求める形だ。
「今年もよろしくね」
 去年私を散々な目に遭わせたはずの悪魔は、無邪気といってもいいほどの笑顔でそう言った。――ああもう。どうせ避けられない災難なんだ。それなら笑って迎え撃ってやるさ。能天気だろうが何だろうが構うものか。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 応えて右手を差し出し、柔らかな掌を握る。さっき繋いでいたのは左手だったな、と何となく思った。
 涼子が満足げに微笑んで頷く。手を離すと「じゃあね」と身を翻して雑踏の中へ軽やかに消えていく。その後ろ姿が見えなくなってから、ようやく私も歩き出す。
 ――今年もよろしく、か。そんなやりとりをするのは初めてだな。彼女の下に配属されてからは三ヶ月ほどだが、知り合ってからはもう四年ほどになる。厄介な人だということは知りすぎるほど知っている。それなのに。

 ――あの人を知れば知るほど、魅力的に見えてくるのは何故なんだろう。

 マフラーを何気なく口元に当てて、苦笑を噛み殺した。

 能天気な考えが頭にちらついてしまうのは、正月の浮かれた空気の所為だ。そう思うことにして、駅へ向かう人の流れに加わった。