wandering in the maze

「何ですか、これ」
 報告書を提出に来た彼が、デスクの上に置かれていたそれに目を止めた。持ち上げると、チャリ、と金属がこすれ合う音がする。
「知恵の輪……ではないですよね」
「まあ似たようなものね、パズルよ」
「へえ……お好きなんですか、こういうの」
「まあね。暇潰しに丁度いいし」
 受け取った報告書に目を通しながら、ちらりと彼の様子を観察する。アルファベットのCの形をした板と中心に穴の開いた円盤状の板が組み合わされていて、C字型の板についている突起を円盤状の板の両面に彫られた迷路にそって動かし、二枚の板をバラバラにして、さらに元に戻すことができればOK。興味を引かれたのか、彼は早速掌の中でそれを解き始めたが、どうもてこずっているようだ。段々むきになってくる様子が可笑しくてつい吹き出してしまい、バツの悪そうな顔で睨まれた。
「コツをつかめば簡単なのよ。……ほら」
 彼の手からパズルを取り、二枚の板を外し、また元通り組み合わせる。
「もう一回見せてください」
「駄目。よーく観察すれば方法はすぐ見つかるわ。観察力も刑事の基本よ」
 パズルをもう一度彼の手に戻し、ついでに報告書にもハンコを押して差し出す。執務室を出て行きかける彼の背中にもう一度声をかけた。
「今日中にそれ解けたら、一杯奢ってあげてもいいわよ」
「約束ですよ」



 ここ数日は現場の指揮を任されるでもなく、また厄介な事件に関わるでもなく、参事官室は平穏な日々を過ごしている。まあ、端的に言えば暇を持て余してるんだけど。――もっと端的に言えば、退屈。何枚かの書類を処理して、たまに開かれる形だけの会議に出席して――くだらない会議だけど、出席でもしないと暇が潰せないのだ――、あとは本でも読んでいれば一日が終わる。変化のない、単調な毎日。
 もっとも、この状態に退屈しきっているのはあたしだけで、みんなはそれなりに満足しているようだ。丸岡さんは盆栽の本なんか読んでるし(そんな趣味があったとは初耳だけど)、貝塚さとみは広東語の勉強に余念がない。彼女、そろそろ日本語を忘れるんじゃないかしら。マリちゃんが例外的に応援に駆り出されているくらいかな。
「平和なのはいいことですよ」
 一昨日、退屈だ退屈だとぼやいていたあたしに、苦笑しながらそう言ったのは勿論泉田クンだった。彼もここ数日は出番なし。買ったまま数ヶ月手をつけてなかったというエラリー・クイーンの文庫本を読んでいる。
「そりゃそうだけどさ、このままじゃ錆びついちゃうわよ」
「道場でも行って来たらどうです? それか射撃場とか」
「三日連続で通ったら、誰もあたしと手合わせしてくれなくなった」
 あたしの言葉に、相当ストレス溜まってますね、と彼が笑った。よっぽどひどく叩きのめしたとでも思ってるんだろか。事実だけど。
「それじゃ、今日は私がお相手しましょうか」
 彼がそう提案したので早速道場に引きずって行き――お陰で昨日から筋肉痛だ。
 そんなわけでとうとう道場でも時間を潰せなくなり(当分行きたくない)、どうしたものかと思っていたところで、帰り際に立ち寄った雑貨店で見つけたのがあのパズルだった。



 仕事が一段落ついたので、少し早めの昼食に出ることにした。彼のデスクの側を通りかかると、デスクの上に書類とボールペンを放り出したままパズルに夢中になっている。
「こら。ちゃんと仕事もせんか」
「やってますよ」
 軽く小突きながら言うと、悪戯を見つかった子供のような顔で笑う。ついでに昼食に誘って『パステル』へ。コーヒーは最悪にまずいけど、日替わりランチは悪くない。値段の割には、の話だけど。
 食事を済ませると、彼はまたパズルをいじり始めた。「観察力も刑事の基本」なんて言ったせいか、真剣な表情で取り組んでいる。遊びに夢中になる大人を眺めるのはなかなか面白いなと思ったが、本来ヒトは遊びのほうを真剣にやる生き物ではないかという気もした。テーブルに頬杖をついてその様子を眺める。あたしの視線に気づいて彼が手を止めた。
「何ですか?」
「遊びなのに随分真剣にやってるなーと思って。そんなにあたしと飲みに行きたい?」
「……何言ってんですか」
 憮然として呟くが、どこか照れたようなその声と少しだけ赤く染まった頬に、つい微笑んでしまった。

 ――脈がないわけじゃない、よね。微かな期待が胸をよぎる。
 根拠の薄い楽観的観測が自分でも可笑しくて、まずい上に冷めてしまったコーヒーを喉に流し込むことで苦笑をごまかした。

 もう手が届きそうなほどに近くに感じるのに、どうしたら君を手に入れられるのか分からない。出口が見えているのに、一向にそこへ辿りつけない迷路の中にいるみたい。――もっとも、わざわざ複雑な迷路を作っているのはあたし自身なのだけど。
 すぐにでも君が欲しい。
 でも、もう少しだけ、この迷路の中で迷っていたい。

 こと君に関する限り、あたしは思いがけないほど優柔不断で臆病だ。
 こんなこと、君は考えもしないでしょう?

「……どうかしましたか?」
 気がつくと、彼があたしの顔を覗きこんでいた。アップで見るのはちょっと心臓に悪い。
「あ……うん、一時から会議だから、準備しないとなーって」
 慌ててごまかしたが、ああなるほど、と簡単に納得されて拍子抜けした。ほっとする反面、もうちょっとこう、動揺の気配とか察しても良さそうなものだけど、とも思う。鈍感ってことくらい知ってるけどさ。
 ――でも、もうちょっと……。
「サボっちゃおうかな」
「駄目です」
「冗談よ。そろそろ戻ろっか」
 廊下を並んで歩きながら彼の顔を見つめる。先程パズルで遊んでいたときの、子供みたいに真剣な表情を思い出す。

 ――あれくらい真剣に、あたしのことも観察してよ。すぐに分かるのに。

「……警視?」
「何」
「そんなに会議出たくないんですか? 眉間にシワよってますけど」
「バカっ」
 ああもう。どこが優秀な刑事よこの野郎。
 思いっきり小突いてエレベーターに乗りこむ。



 午後からの会議が長引いたせいで、一時間ほど残業する羽目になった。ノートパソコンの電源を落とし、ディスクを抽斗にしまったところで、ノックの音に顔を上げる。ドアを開けなくても誰かは分かる。
「泉田クン? いいわよ、入って」
 声をかけると、やや驚いた様子で彼が顔を出した。あたしはもう、彼のノックの音を覚えてしまっている。
「で、どう? 解けた?」
 問いかけに対する答えは、満足げな表情ですぐ分かった。ポケットからパズルを取りだし、あたしの目の前でゆっくりと二つの板を解きほぐし、また元通りに組み合わせて見せる。
「ハイ、よくできました」
 昼間見かけた時のどこか子供っぽい眼差しを思い出し、頭でも撫でてあげようかと思ったが、座ったままでは彼の頭に手が届かないのでやめた。あたしの手にパズルを返しながら彼が微笑む。
「一杯奢ってくださる約束ですよね」
「分かってるってば。どこがいい?」
「そうですね……では、駅前のビストロでビールでも」
「言っとくけど、夕飯は奢らないわよ」
「分かってます」
 支度を整えて立ち上がり、いつものように彼と腕を絡める。スーツ越しに感じるあたたかさは、いつのまにかあたしを拒まなくなった。

 ――いつか、こんな風にあたたかく、あたしの心も受けとめてくれる?

 歩き出す時、絡めた腕を彼がわずかに引き寄せた。思わず見上げると、彼が不審そうに見つめ返している。無意識の行動なのだろうか。
「……何ですか?」
「何でもないわ」
 微笑みながら答える。迷路の出口が少しだけ近づいた気がした。



 空になった皿が下げられ、ビールが運ばれてきた。混み合っていて蒸し暑いほどの熱気の中で、よく冷えたビールはことのほか美味しく感じられる。半分ほど飲んだところで、ふと思い出してバッグを漁り、見つけたそれをテーブルの上に置いた。今日彼に解かせたものより難易度の高いパズル。さらに複雑に入り組んだ迷路が彫られている。
 新しいパズルに目を留めた彼が、ニッと笑う。新しい玩具に見入る子供の瞳で。それでいて駆け引きを楽しむ大人の瞳で。
「今度は何を奢ってくれます?」
「奢るっていうかご褒美よね。そうねぇ……」
 少し考える振りをしてから、あたしもニヤリと笑ってみせた。
「あたしを好きにしていい、ってのはどう?」

 途端に彼はビールにむせて、激しく咳き込んだ。