Heaven

 やわらかい雨音があたりを包んでいる。
 ベランダに置かれた鉢植えの緑が、雨粒を弾いて鮮やかさを増す。



 近くのレストランから頼んだデリバリーの昼食を終えてしまうと、途端にやることがなくなった。リビングのソファに寝転がってしきりにテレビのチャンネルを変えている涼子の隣に腰を下ろし、泉田は経済新聞を広げた。ケーブルの映画専門チャンネルでようやく妥協した彼女が溜息をつく。
「あーあ、せっかく久々に一緒に休み取れたのに」
「この雨じゃ仕方ないですよ」
 ディズニーシー、お台場、横浜。地名を一通り並べて彼女はまた溜息をついた。典型的なデートコース。そんなとこ行きたかったんですか、と問うと、いいじゃない別に、と、ふてくされた返事が返ってきた。こういうときは、大抵はただ照れているだけなのだ。「大手銀行に公的資金投入」の記事に視線を落としながら、泉田はそっと微笑んだ。
 画面の向こうで、若い女が子供に何か話しかけている。音楽のない静かな情景。字幕を涼子が消しているので、何を言っているかは泉田には分からない。英語ではない、とだけかろうじて判断できた。
 耳に流れ込んでくる言葉は雨音に似ている。意味をもったものとしては伝わってこないが、物静かでやわらかい。泉田は新聞をめくりながらその響きを楽しんでいたが、ふいにそれが途切れ、物悲しいメロディが流れ出した。視線を向けると、黒一色の画面に白抜きの文字列が流れている。涼子がつまらなさそうに呟いた。
「……終わっちゃった」
「タイミングが悪かったですね」
 あーあ、と溜息をつきながら立ち上がり、雑誌のラックから番組表を取り出してめくるが、すぐに投げ捨ててしまう。
「文芸映画と恋愛ものばっかり。つまんない」
「お嫌いでしたか?」
 新聞から顔を上げて問うと、そうね、と呟いてから、ふいに悪戯っぽい笑みを口元に浮かべた。泉田の前に立つと、新聞を取り上げてこれも投げ捨てる。何するんですか、と抗議しようとしたところで唇を塞がれた。彼女の腕が首に回される。唇に触れる甘くやわらかな感触に、反射的に彼女の腰を強く抱き寄せたせいで、バランスを崩して彼女が彼の膝を跨ぐ体勢になった。甘い香りが鼻腔を満たして、頭の奥が痺れた。
「……恋愛は、ノンフィクションで充分」
 ようやく唇を解放すると、泉田の目を覗き込んであでやかに微笑む。細い指先で唇をなぞられ、背中が微かにぞくりとした。
「どこにも行けないなら、ここで遊ぶしかないわよね」
「それじゃ、トランプでもしましょうか」
「……何でそうなるのよ」
「冗談ですよ」
 ワンピースに包まれた身体を掌でそっと撫でると、涼子は一瞬ぴくりと身体を強張らせた。微かに零れた吐息を奪うようにもう一度唇を重ねる。深く、甘く。自分から仕掛けてきたくせに、ためらう様子をみせる涼子に泉田が微笑むと、わずかに頬を染めて睨み返された。その頬にもキスを落としながら、涼子の背中に指を這わせ、ファスナーをゆっくりと下げた。涼子の身体に再び微かな緊張が走る。
「ね、待って……これから?」
 掌で泉田の胸をを押し返しながら、涼子が珍しく戸惑いを浮かべた表情で尋ねる。泉田もまた、この男にしては珍しく人の悪い笑みを浮かべた。
「そのつもりで、誘ってこられたでしょう?」
「……そうだけどさ」
 涼子が戸惑った理由を、泉田は察してはいた。先刻のように、退屈しのぎに涼子がじゃれついて来ることは何度もあったが、まだ日の高い時間にそれに応じたことはなかった。
「いつもは嫌がるじゃない。こんな時間から、とか言ってさ」
「嫌だなんて一度も言ったことないでしょう?」
「……へえ、実はムッツリなんだ?」
「すみませんね」
 楽しそうに忍び笑いを漏らす涼子の首筋に唇を滑らせる。耳元で息を飲む気配がする。両手が彼のシャツの胸元を掴んで握り締められた。

 ――そう、嫌だったことなど一度もないのだ。

 本当は、夜も昼も関係ない。
 強く抱きしめて、何度もキスして、柔らかな肌を貪りたい。
 だが、昼の光の下で求め合えば、思いがけず自分の激情や浅ましさを彼女に晒してしまいそうで、その恐れが彼をためらわせていた。こうして触れている今も、逃げ去ったわけではない理性が囁きかける。本当にいいのか、と。
 どうして今日に限って、彼女の誘惑に乗せられてみる気になったのだろう。考えてみたが、腕の中にあるしなやかな身体が彼の思考を妨げた。剥き出しになった背中に指を滑らせると、涼子は小さな声を漏らして身体をふるわせた。襟元に顔を埋めたせいで、熱い吐息が肌に触れた。シャツを掴んでいた手が背中に回され、強く抱きしめられた。狂おしいほどの愛しさが不意にこみ上げてきて、彼の背中を強く押した。

 ――どうでもいいか、と思った。ためらいも理由も必要ない。何も考えずに、この激情に身を任せてしまおう。
 相手があなただからこそ、こんなにも求めてしまうのだから。

 背中を愛撫する手を止める。泉田の指先を夢中で追いかけていた涼子が訝しげに顔を上げる。その瞳を覗き込んで彼は微笑んだ。
「それじゃ、遊びましょうか」
「……馬鹿」
 拗ねた声で答えると、涼子はもう一度唇を押し付けてきた。肩からワンピースの布地が滑り落ちる。華奢な鎖骨を唇でなぞりながら、泉田は涼子の身体をソファに横たえた。
 乱れ始めた呼吸が、耳の奥に甘く満ちてゆく。

 ――雨音が遠くなる。



 俄かに明るくなったベランダを何気なく見やって、泉田は涼子に声をかけた。
「雨、止んでますね」
「……ほんと? 気づかなかった」
 泉田の言葉に、涼子は気だるげに身を起こして窓の外を眺めた。雨音が消え、厚い雲の隙間からうっすらと光が差している。ベランダに置かれた鉢植えの葉の上に散らばった水滴が、傾きかけた光を受けてきらりと輝いた。
「どこか出かけましょうか、今からでも」
「んー……やめとく。なんか疲れちゃった」
 ぶっきらぼうに答えながらぷいと顔を背けてしまう。泉田がそっと忍び笑いを漏らすと、手探りで耳を探り当てられ、引っ張られた。
「誰のせいだと思ってんの」
「すみません」
「……そこで普通に謝らないでよ、馬鹿」
 身体ごと泉田に向き直ると、今度は鼻の頭をつまむ。睨みつけたのは一瞬のことで、次の瞬間には笑いながら抱きついてきた。流されるように唇を重ね、舌をさし入れて絡め合う。肌の上に残した花弁に指を這わせると、涼子は一瞬呼吸をとめ、頬を染めて微笑んだ。
「……この分だと、夕飯も出前になりそうね」
「カロリーが気になりますか?」
「別に。とり過ぎたら、運動すればいいんだし」
 腕を泉田の首に絡めて、涼子がもう一度微笑む。無邪気と言っても良さそうな笑顔だったが、先程の熱の名残にまだうっすらと潤んだ瞳が、その表情をひどく魅惑的に見せた。泉田をまっすぐ見つめたまま、その瞼がゆっくりと閉じられた。
 吸い寄せられるように顔を近づけ、泉田は宝物に触れる少年のような真摯さで、優しく涼子に口づけた。



 緑の上を滑った雫がぽたりと落ちて、柔らかな土に吸い込まれていった。