ハバネラ
ラジオの雑談が途絶えて、音楽が流れ出した。控えめなオーケストラの伴奏に合わせて、高く澄んだソプラノが歌い始める。聞き覚えのある曲だが、なんと言う題名だったか…。
「ハバネラ」
すぐ隣で声がした。あまりのタイミングの良さに、思考を読まれたかと泉田は思った。勿論そうではない。声の主は、つい先刻まで大雨による渋滞で車が進まず不機嫌だったのが嘘のように、嬉しそうに続けた。
「好きなの、この曲」
涼子はラジオのボリュームを上げた。歌声が外の雨音を消した。笑みを含んだ唇が微かに動いている。ラジオに合わせて口ずさんでいるらしい。ハンドルにかけた指でリズムを刻む。懐かしいものを見るような、穏やかな表情が浮かんでいた。彼女がそんな表情を見せるのは初めてだったので、何だか新鮮に感じられた。オペラ「カルメン」の曲だった、とようやく思い出したが、オペラのタイトルを知っているだけで、ストーリーは知らなかった。歌詞の内容もまるでわからない。
短い曲だった。再びラジオに雑談が戻る。涼子はボリュームを元に戻し、ちらりと泉田を見やって、ふふ、と悪戯っぽく笑った。先程まで見せていた無防備な表情がふっと掻き消えた。
「カルメンなんて、分かりやすい好みだと思ってるんでしょ」
「いいえ。…カルメンってどういう話なんですか?」
涼子は眉をひそめ、露骨に軽蔑したような表情を浮かべた。
「これくらい知っててよ、教養として」
「オペラを楽しむような高尚な趣味は持ってないんですよ、すいませんね」
「しょうがないわね」と涼子は大袈裟にため息をついた。半分は演技である。彼女はもともと彼に芸術的教養など期待していない。
「カルメンはね、ジプシーの女なの。タバコ工場で働いている彼女は、ドン・ホセという男に一目惚れして誘惑するのよ。さっきのハバネラを歌いながら赤い花を投げるの。ホセには婚約者がいて、最初は相手にされないんだけど、ついに誘惑に負けて、騒ぎを起こして逮捕されたカルメンを逃がして、自分が捕まっちゃうのね。で、釈放されてカルメンに会いに行くんだけど、軍隊の帰営ラッパが鳴った途端に帰ろうとしたもんだから、カルメンは怒って彼を捨てて別の男に走るの」
「悪い女の話なんですね」
安直だとは思ったが、泉田はとりあえずそう感想を述べてみた。涼子は軽く鼻を鳴らした。
「女に会いに来たくせに時間を気にして帰りたがるような男、捨てられて当然だと思うけど?」
「そんなもんですかね」
「そうよ。…で、ジプシー仲間の誘いに乗って盗賊団に入ったカルメンを追って、ホセも盗賊の仲間になるんだけど、母親が倒れたという知らせを聞いて動揺するのね。それでカルメンは追い討ちをかけるの、『あんたなんか必要ない、帰れ』って。でまあホセはいったん故郷に戻るんだけど、…結局母親は死んだんだっけ?まあいいわ。結局カルメンのために人生の全てを棒に振ったホセは、闘牛場でカルメンに『二人でやり直そう』って最後の哀願をするわけ。でもカルメンは断固として聞き入れない。ホセがとうとう『他の男に渡すくらいなら殺してやる!』とまで言い出しても、彼女は拒絶し続けるの。それで、ホセは本当にカルメンを刺し殺す。ホセの絶望の悲鳴に闘牛場の大歓声が重なり、幕が降りる…」
長々と喋り終えたあと、涼子はふぅ、と息を吐いた。
「まあ、ホセはおカタイ軍人だし、カルメンとは根本的に相容れないのよね、本来。だから最初はカルメンを拒絶するわけだし。…ならアッサリ篭絡されんなってのよ。ストーカーじみてるほどカルメンに執着するわりに優柔不断だし。カルメンにしたって、本気だったわけじゃないと思うわ。自分に興味を示さない相手が珍しかっただけで。そうなると余計チョッカイ出したくなることってあるものね。…それにしたって、相手は慎重に選ばないと」
「そうですね」
泉田の返事はやや気のないものになった。出会った人間の大多数に興味を示されるような人間(たとえば涼子のような)は、自分に興味のない人間に逆に興味を持つのかもしれないが、彼自身はそうではない(と彼は思っている)ので、カルメンの心理は分からない。しかし、そのカルメンに惹かれたホセの心理は、多少理解できるような気がした。堅実な生活をしているからこそ、まったく違った生き方をしている者が魅力的に感じられることはある。そう、まるで…。
彼女のような。
運転席をちらりと見やる。普段なら彼が気のない返事をしようものなら猛烈に反論してくる涼子だが、今日は珍しくそうしなかった。外の渋滞の方に苛立っているらしい。
そっと視線をはずし、彼女に分からないように苦笑した。彼女はカルメンかも知れないが、自分はホセではない。確かに、自分勝手でワガママな彼女の性格が魅力的に見えてしまうことはあるが、こんな女だと分かっていて夢中になるなんて破滅的なマネを自分がするものか。彼は自分が理性的な人間だと信じている。
「それで、ハバネラってのはどういう歌なんですか?」
涼子がどうも「カルメン」のストーリーそのものには批判的のようだと気付き、問いかけてみた。歌を口ずさんでいたときの彼女の様子からすると、随分気に入っている曲らしいが…。涼子は前を向いたまま応じた。
「カルメンの恋愛観、てとこかしらね。――――恋は気まぐれな野の小鳥、誰にも手なづけることなど出来ない、あなたがわたしを嫌いなら、わたしがあなたを好きになる、わたしに好かれたら気をつけなさい……訳すると大体こんな感じ」
涼子はいったん言葉を切った。泉田には、カルメンの印象が涼子と重なって見えた。束縛を嫌い、男を振りまわす奔放な女。ぴったりじゃないか。だが次の瞬間、涼子はふと、苦味のこもった笑みを浮かべた。
「誰にも手なづけることなど出来ない、か。……そうよね。何もかも思い通りにいくなら、苦労はしないわ」
言葉は意外なほど真剣な響きをともなっていた。泉田は思わず涼子の横顔を見つめた。彼の視線に気付いていないのか、彼女はフロントガラスの向こうをぼんやりと眺めている。車は相変わらず1メートルも進まない。
天性の美貌と奔放な気質。それらを併せ持つ彼女に、思い通りにならないことがあるなど信じられない。だが、今の言葉から察するに、彼女は意外にもそういう厄介な恋をしているのかもしれない、と泉田は考えた。彼女の美貌と奔放さを以ってしても、思い通りにならない面倒な相手。そんな男が身近にいただろうか。……少なくとも自分の知る限りでは存在しない。では……。
誰か、俺の知らない男に?
不意に疼くような感覚を覚え、泉田は動揺した。どうしてこんな感覚を覚えるのか分からない。全ての時間を彼女と共有しているわけじゃない。彼女は(あらゆる意味で)知り合いが多いし、そんな相手が他にいても不思議ではないし、第一、彼女が誰に恋をしていようが、自分には関係ないことじゃないか。そう考え、理不尽な動揺を抑えようとするが、上手く行かない。自分の知らない誰かが、彼女の心を掻き乱している。その事実をあまり面白くないと感じている自分自身に、泉田は戸惑った。
がくん、と体が後ろに揺れた。気がつくと、テールランプの列が少しずつ動き始めている。渋滞が解消されつつあるようだ。何時の間にか雨音が弱くなっていた。涼子が「やっとアクセルが踏めるわ」と嬉しそうに言った。何でもないふりを装い、「安全運転で頼みますよ」と声をかける。
いくつめかの交差点で赤信号に引っかかった。涼子が尋ねた。
「今夜は何も予定はないのよね?」
「ええ、まあ」
「じゃ、本庁に戻るのはやめて、このままどっかに食事にでも行きましょ。ホセ」
さりげなく加えられた一言に、思わず運転席を見やる。涼子は彼の方に顔を向けて微笑んで見せた。あでやかで悪戯っぽい、小悪魔的な微笑。赤い花が開くイメージが脳裏に浮かんだ。またも絶妙のタイミングで発せられたその名前に、先刻の動揺を知られたかと疑ったが、とっさには判断がつかない。
「一応、いったん戻った方がいいんじゃないですか、カルメン」
考えるよりも先に、その名前を口にしていた。運転席のカルメンは、今度は唇を尖らせて抗議した。
「ホセはカルメンに逆らっちゃダメ」
「……すみません」
泉田は苦笑した。どうせ逆らえるわけがないのだ。涼子がクスクスと笑った。
「じゃ、ちょっと遠いけどお台場のほうに行きましょ。美味しいスペイン料理の店があるの。民族音楽とかフラメンコのステージもあるんだって」
信号が青に変わった。アクセルを踏みこみながら涼子が付け加える。
「帰営のラッパなんか聞こえないから、早々に帰るなんて言ってもダメよ」
泉田は一瞬、返答に迷った。涼子が意味ありげに笑ってみせる。「カルメン」のストーリーに絡めた冗談だろうとは思う。だが、彼女の言うことは冗談か本気か判断しがたいことも多い。もし本気だとしたら。
ハバネラを歌い、赤い花を投げるカルメン。妖艶ではないが、拒絶するにはあまりにも甘美な誘惑。
いまや完全に動揺を隠し切れなくなった彼の様子を横目で見やって、涼子は満足げに微笑んだ。……これくらいの悪戯は許されてもいいはずだわ。声には出さず呟く。
雨は完全にあがっていた。厚い雨雲はまだ去っていないが、ところどころにある切れ目から光が射し、街は微妙な明るさに包まれている。さらにアクセルを踏みこみながら、涼子はハバネラの一節を口ずさんだ。
Si je t'aime,prends garde a toi!
――――あたしが惚れたら気をつけなさい。