月光浴

「泉田クン、見て」
 少し前を歩いていた涼子が急に立ち止まり、弾んだ声をあげて夜空を指差した。その指先を追って同じように空を見上げ、泉田は目を細めた。白い月が中空高くから街を照らしている。
「満月って今日だっけ?」
「明日だったと思いますが……」
「ふーん。じゃあ今夜は"待宵"か」
「え?」
「旧暦14日の夜のことをそう言うんだって。満月を待つ夜、待宵」
「へぇ……何だか風流ですね」
 涼子が空を見上げたまま、泉田と腕を絡めた。月明かりの下でも、白い頬がうっすらと上気しているのが見てとれた。週末でもあるし、抱えていた事件の処理が終わったこともあって、打ち上げと称して結構な量のワインを飲んだから、そのせいかも知れない。それでも、飲んだ量の割には足取りはしっかりしている。
「でもさ、じゃあ満月が過ぎたらあとはどーでもいいのかって言うと、そうじゃないのよね。16日は十六夜でしょ、17日の月は立待月、18日は居待月、19日は寝待月。欠けていく月なのに、名前までつけて愛でるなんて酔狂だと思わない?」
 涼子の言葉を聞きながら、今日は随分機嫌がいいんだな、と泉田は思った。「酔狂」などと表現しているが、その声音や表情からも、批判と言うよりむしろその「酔狂」ぶりを好ましく思っていることは明らかだ。彼女はときどき、ものごとを誉めるのにそういった表現方法をとる。彼自身、「泉田クンの地味なトコが好き」と言われたことが何度もある。――それが愛情表現だとしても、手放しで喜ぶことはできないが。
「でも、月は欠けてもまた満ちますから」
 ふと思いついてそう口にしてみると、涼子は月から彼に視線を転じて、軽く目をみはってみせ、それから顔をほころばせた。
「……泉田クンてさ、普段は全然感性鋭くないなのに、ときどきすごくロマンチストよね」
「すみませんね、似合わなくて」
「そんなこと言ってないわ。散文的なのにロマンチストって、面白いじゃない」
 くすぐったそうに笑って、絡めた腕に軽く力を込める。彼の肩に頭を軽く預けながら、さらに言葉を紡ぐ。
「そう言うトコ、好きよ」
 髪を揺らす夜風に、秋の気配が少しずつ混ざり始めているのを感じた。

「まっすぐ帰るのって勿体無いし、ちょっと寄り道していこうよ」
 そう言って悪戯っぽく笑った彼女と向かった先は、ブランコとジャングルジム、滑り台に砂場があるだけの小さな児童公園だった。街灯が一つ二つついているだけで、その光が届かない場所には月光が満ちて、遊具の薄い影を地面に落としている。
「一日ごとに姿を変える不実な月――なんて表現もあったわね」
 ブランコに腰掛けてキイキイと揺らしながら、涼子が思い出したように呟いた。
「シェイクスピアですね」
「そう、『ロミオとジュリエット』。よく知ってるわね」
「それくらいは知ってますよ、有名ですし。大学の講義で原典を読みました」
「ああ。そういえば英文科って言ってたっけ」
 踵で軽く地面を蹴ってブランコをさらに揺らす。子供向けの小さなブランコなので、女性にしては背の高い彼女には窮屈そうだが、それでもどこか楽しげだった。
「でもさ、形の変わらない愛情ってそんなにいいのかしら」
 ふいにブランコを止め、ぽつりと呟く。
「月は欠けてもまた満ちるし」
 見上げて微笑む瞳には、からかうような色は微塵もない。
「姿が変わっても、輝きが変わるわけじゃないんだもの。そっちの方が素敵じゃない?」
 あなただって相当ロマンチストだ。思ったが口には出さず、差し出された手を取って涼子を立ち上がらせた。そのまま引き寄せて唇を重ね、抱きしめる。腕の中で、涼子が甘い溜息を漏らした。

 しばらく目を閉じて腕の中でじっとしていた涼子が、ふいに泉田を見上げて再び笑いかけた。
「ね、これからウチでお月見しようよ」
「満月は明日でしょう?」
「うん。だから」
 彼女はいったん言葉を切った。瞳が月明かりの下できらりと光る。
「一緒に待とうよ、満月を。――今夜は待宵だし、ね?」
 待宵――満月を待つ夜。その言葉に抗いがたい魅力を感じる。どうせ週末だし、仕事も片付けたばかり。断る理由は何もない。
 多分、メインは月見ではなく別のことになりそうな気がするが。
「いいですね。一応、団子は買っておきますか」
「店、もう閉まってるんじゃない?コンビニに売ってないかしら」
 その認識は言葉には出さず、他愛もないことを言い合いながら再び腕を絡め、並んで歩き出す。薄明かりの地面に、寄り添う影が落ちた。

 満月を待とう。あなたと。
 私達はきっと、満ちてゆく途中だから。