DIVIN' TO PARADISE

 もうまもなく退勤時間というころあいの事である。
 今日も一日無事に過ごしおおせたと、ほっと胸をなでおろしていた泉田準一郎に、 彼の麗しき上司である薬師寺涼子は、半ば当然のごとく声をかけた。
「泉田クン。今夜はあたしの家で食事をしましょ」
 何気なく放たれた涼子の言葉に、思わず泉田は、沈黙した。
「どうしたのよ。固まっちゃって」
「あの、警視。今、お宅でとおっしゃいましたか?」
「言ったけど、それが何?」
 訝しげに涼子は尋ねる。
 すると泉田、恐る恐ると言う雰囲気で、涼子に尋ねた。その脳裏には、涼子の研 修時代、味わってしまった恐怖。
「あの、もしかして、警視が料理をおつくりになるとか……?」
「いけない?」
 悪びれもなく言われた一言。泉田は再び沈黙する。しかし、彼の頭脳はめまぐる しく動いていた。
 どうやって、彼女の手料理を回避するか。
「あ、あのもしなんでしたら、どこかで外食でも……」
「却下」
「あう……」
 いい終わらぬうちに素気無く言われ、思わず呻いてしまう。
「さ、行くわよ泉田クン」
 言うと涼子は、コートを羽織り、颯爽と歩き出した。
 観念して付き従う泉田はしかし、寮の薬箱の中身を思い起こしていた。
 よかった。胃薬、確かあったな……
 もっと気にせねばならない事がある気がするのは、気のせいだろうか?





 涼子のマンション。
 泉田が来たのはこれで二度目だ。
 一度目は忘れもしない、泉田の胃に甚大な被害をもたらした、あのトルコの宮廷 料理を振舞われて以来だ。
「実は昨日ね、結構いいワインが見つかってさ。でも、一人で飲むのも味気ないな と思って」
 マンションへの道すがら、涼子はそんな事を言っていた。
 それが今日、泉田をマンションへ誘った最大の理由らしい。
 ワインは、いいんですがね。
 泉田の心のうちは、今日出されるであろう、涼子の手料理の事で一杯だった。
 それでも泉田は気づく。
 やけに、今日ははしゃいでるな、と。
 だれとは言うまでもあるまい。涼子のことだ。
 しかし、推測するその理由はいかにも彼らしい。
 ……そんなにいいワインなのかな?
「さ、あがんなさい」
 涼子は言い、自分はさっさとヒールを脱ぎ捨て、部屋へと入っていく。
 泉田は、涼子の部屋の威容に小市民的な感嘆を抱きつつ、玄関を上がった。





「そこで座って待ってなさい。今ワインとなんかつまむもの持ってくるから」
 コートをソファに放り投げつつ、涼子は言った。
「は、はあ」
 泉田は、持たされていた今日の材料と思しき荷物(ちなみに、材料だけでは何を 作るのか見当もつかなかった)を涼子に手渡し、自らが羽織っていたコートを背も たれにかけると、遠慮がちにダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。
 涼子は、荷物をキッチンにとりあえず置くと、大きめの冷蔵庫から一本のボトル とワイングラスを二つ、持ってくる。
 それをテーブルの上に置き、また冷蔵庫の前に戻った。
 ……何を俺は観察してるんだ?
 心の中で、思わず呟く泉田。そう、彼自身心の中で呟いたように、泉田は涼子の 行動を逐一目で追ってしまっていた。
 ふと泉田の顔に浮かぶ微苦笑。
「何かおかしい?」
 手にチーズと生ハムを持った涼子が、微苦笑する泉田に声をかけた。
「いえ、別に」
 泉田は、首を振る。
「そ。まあいいわ。それよりいいワインでしょ」
 と、涼子は誇らしげにワインのボトルを見せる。しかしあまりその辺に詳しくな い泉田は、「はあ……」と曖昧に答えるしかない。
「なによ。張り合いないわね」
「すいません。あまり詳しくないんですよ」
「まあいいわ。飲めばわかるし」
 言って、自ら開封しそれを二つのグラスに注ぐ。
「まずは食前酒って事で」
「って言うか、食事の準備してないじゃないですか」
 もっともな事を突っ込む泉田。
「なーに?泉田クン、そんなにあたしの手料理食べたいの?」
「あ、いえ、それは……」
「まったく、正直よね」
 その言葉に、乾いた笑いを浮かべる泉田。全部お見通しだったようだ。
「気が変わったわ。冷蔵庫にいろいろあるから、適当に見繕って食べましょう。そ れで、今日はこのワインを味わうの」
「わかりました」
 少しだけ、苦笑を浮かべて、泉田は頷いた。
 どうやら、手料理を食べなくてもすみそうだ、と、少しだけほっとする。
「じゃ、乾杯」
「乾杯」
 言って二人は、グラスを合わせ口に運んだ。
 泉田の口からは、へえと言う感嘆の声が漏れた。その表情を見つめる涼子。
「ねえ、泉田クン」
「なんですか?」
「……なんでもないわ。よーく味わってね」





 このまま、ワインのせいにして、あなたと、ずっと一緒に……





                                                END