Delicious!
――嵐が通り過ぎて行ったかと思われるほど、現場は荒れ果てていた。
ダイニングテーブルの上には、大小のボウルや泡立て器が散乱して、その周りに白い粉が飛び散っている。シンクには、大胆というか大雑把にカットされた野菜がゴロゴロ転がっているし、新品のはずのまな板は何故か傷だらけだ。やはり木製はやめておくべきだったか。
おまけに、どうも焦げ臭いだけでなく、今までに嗅いだこともない奇妙な匂いが漂っている。匂いの正体は、コンロにかけられていた鍋の中の物体らしい。正体不明のソースーー少なくとも、お好み焼きソースやステーキソースでないことは確かだが――がたっぷりとかけられている上に焦げついているので、肉か魚かすら判別がつかなかった。
この事態を引き起こしたと思われる容疑者――現行犯ではないので、とりあえず「容疑者」である――は、腰に手を当てたまま、ふてくされたように横を向いた。彼女とは長い付き合いになるが、こうした場面でふと覗かせる子供っぽさは相変わらずで、つい笑みを誘われそうになる。私はひとつ咳払いをして、とりあえず事情聴取を始めることにした。
「何があったか、説明して頂けますか」
優しく問い掛けたつもりだったが、彼女は横を向いたまま口を開かない。きゅっと引き結ばれた口元からは、決して一言も喋るまいという意志が伝わってくる。私は溜息をついた。――まあ、聞くまでもなく予想はついている。私は室内を見渡し、ダイニングテーブルの上に手がかりを発見した。テーブルに近づき、そこに置かれたものを手に取る。雑誌だろうか。彼女があまり買ったことのない類のものらしかった。彼女は視線を動かさず、それ以外の感覚全てで私の動きを追っている。――私はそれを知っている。
手元に視線を落とし、そこに書かれた文字を追う。"30分でできる簡単フレンチディナー"ね、なるほど。私は苦笑し、彼女を振り返った。彼女はようやく顔を上げ、私を睨みつけた。
「何がおかしいの」
「……すみません。ちょっと思い出してしまって」
私の答えに、彼女は怪訝そうに眉を寄せた。私は苦笑したまま続けた。――これは失敗だった。
「今夜は、トルコ宮廷料理ではないんですね」
――このあと、今度は頬を染めて再びそっぽを向いてしまった彼女をなだめるのに、私はひどく苦労する羽目になるのだった。
「それにしても、どうしていきなり料理なんですか」
滅茶苦茶になったキッチンを片付けながら、私は再び涼子に問い掛けた。大きさの違う何種類ものボウルを洗っていた涼子も、再び私を睨みつける。
「何よ、文句ある? あたしの手料理が欲しくないとでも?」
正直、怖いのであまり欲しくないです。――とはさすがに言えず、曖昧な笑みで応じた。
彼女の手料理は、随分前に一度だけ食べたことがある。トルコの宮廷料理だ、と彼女は説明したが、人間の食べるものだとは到底思えないような代物だった。勿論、トルコ料理そのものに罪があるわけではない。どんな人間にも苦手なことの一つや二つはあるものなのだ、というごく当然のことを、味覚と消化器官に大きなダメージを負いながら私は認識したのだった。――苦手、というのは少し控えめ過ぎる表現だ。
シンプルなデザインのエプロンを着てキッチンに立つ涼子は、あの時と同じように、外見だけは一流の料理人の趣すら感じさせる。しかし、私の知る限りでは、彼女はあれ以来、一度も自分の手で料理をしてはいないはずだ。少なくとも私は、あの晩以来彼女の手料理を食べたことがない。料理が苦手なこと自体にコンプレックスを持っている様子もなく、「料理はシェフに作らせて食べるもの」とまで言い切ったこともある彼女が、あれから料理を練習したとは思えないし、したとしても上達している可能性はきわめて低い――と、分厚く皮をむかれて二回りほど小さくなったニンジンの残骸を見ながら私は分析した。一度身をもって知った危険に近づくほど、愚かではないつもりだ。
――たとえそれが、世の独身男性が憧れてやまない「愛妻の手料理」であるとしても。
軽く溜息をついて隣をちらりと見る。私の上司であり、妻でもある美しい人は、不機嫌な表情で焦げついた鍋を洗っている。なかなか落ちない汚れに苛立っているのか、結局二度目の挑戦にあえなく失敗したことを悔しく思っているのか。まあ両方だろうけど。荒っぽい手つきに、高い鍋に傷がつかないかと心配になったが、そんな様子が不思議と愛らしくもある。物好きめ、という口の悪い同僚の言葉を思い出した。悪かったな。
それにしても、と、先ほどの疑問が再び浮かんだ。
何故いきなり料理などしようと思ったのだろう。
結婚してから数ヶ月になるが、涼子がキッチンに立ったことはこれまでなかった。彼女の料理の腕前を知り尽くしている身としては、そのことに不満はない。元々そんな役割を彼女に期待して結婚したわけでもない。彼女とてそれは承知しているはずなのに、何故。
訝しく思っている私の傍らで、涼子は鍋を洗う手をふいに止めた。顔をあげて、じっと私を見つめる。
「……ちょっとさ、意識改革してみようと思って」
「は?」
やや唐突で、しかも若干意味不明な台詞に戸惑っていると、彼女は身体ごと私に向き直り、両手を腰に当てて続けた。
「だってさあ、このままだと君にとってアレがあたしの手料理の唯一の記憶ってことになっちゃうわけでしょ?」
「……まあ、そうですね」
「そんなの嫌なの。アレはあたしの数少ない敗北の記憶なの! それをそのままにしておくなんて我慢できないのよ!」
「はあ……」
間の抜けた返事になってしまったが、実は驚いていた。彼女が"アレ"を気にしているとは思わなかったのだ。繰り返しになるが、料理ができないことを気にしている様子がまるでなかったから、彼女の返答は全く予想外だった。
「あたしだって別に気にしてたわけじゃないけどさ。……でも、なんか面白くないのよ。弱み握られてるみたいな感じだし、いつまでも全くできないってのも、進歩がないみたいでイヤだし」
私の内心を読んだかのようにやや拗ねたような口調で言うと、涼子はシンクに身体を軽く預けて床に視線を落とした。いかにもプライドが高くて負けず嫌いな彼女らしい返答に、自然と笑みが零れた。
「また笑った」
横目で私を睨みつけ、ぐい、と私のネクタイを引っ張る。勢いよく引っ張られたので少し息苦しい。手を放すと、涼子は軽く溜息をついた。
「……ま、結局連敗になっちゃったわけだけどさ」
「慣れないうちはこんなものですよ」
ネクタイをはずして襟元を少しくつろげながら、励ますように声をかける。彼女がほんの少し、落ち込んでしまっているように見えたので。落ち込むなんてことを滅多にしない人だが、この連敗は少しこたえているらしい。――私としては、挑戦するメニューが「トルコ宮廷料理」から「"簡単"フレンチディナー」になっただけでも進歩だと思うのだが。
「いきなり変わるんじゃなくて、少しずつレベルアップしていけばいいんじゃないですか。時間はたっぷりあるんですから」
私の言葉に顔をあげると、涼子は私の顔をじっと見つめた。
「……そう、ね」
しばしの沈黙のあとにそう呟くと、ほころぶ花のように微笑んだ。
――ああ。
たったこれだけのことで、そんな嬉しそうな顔をされたら。
しかし、すぐにその表情を魔女めいた邪悪な微笑に変え、彼女は楽しげに続けた。
「それじゃ君、これからも協力してくれるわよね」
「……うっ……」
しまった。
協力ということは、当然これから先も何回かは彼女のリベンジに付き合わねばならないわけで。今日は料理そのものが失敗したせいで食べずに済んだが、いずれ彼女の修行の成果を、私自身の味覚で確かめなければならない。気づかなかったとは迂闊だった。
「ちょっと、何でそんな嫌そうな顔すんのよ。愛する妻の為じゃない、快く返事なさい」
「……ハイ」
諦めて私はうなだれる。涼子の楽しげな笑い声が耳をくすぐる。
今夜の最終的な敗者は、彼女ではなく私であった。
「……それはそうと、結局今日の夕飯どうしよ。お腹すいてる?」
そう問われて気づいてみると、すでに10時を回っていた。後片付けやら何やらに時間がかかりすぎてしまったのだ。しかし、空腹のピークを過ぎてしまったせいか、食欲はあまりなかった。
――そう。今満たしたいのは食欲ではない。
改めて冷蔵庫を探ろうと踵を返しかけた涼子の腕をとらえて引き寄せ、振り向いた彼女の唇に自分のそれを重ねる。涼子は驚いたように一瞬身体を強張らせたが、すぐに力を抜いて自分から身を寄せてきた。しなやかな身体を強く抱きしめながら、角度を変えて何度も口付けた。
「……なあに? "ゴハンより君が食べたい"とかそういうパターン?」
くすくすと忍び笑いを漏らしながら、涼子が私の肩に腕を回す。頬をほのかに染め、悪戯っぽい笑みを浮かべて私の顔を覗きこむ。
「そうですね、そんなトコです」
「……駄目」
囁くと、今度は彼女の方から口付けてきた。唇に触れる柔らかな感触に、鼻腔をくすぐる甘い香り。何度も味わってきた感覚だが、まだ飽きるほどではない。もっと貪りたい、と、唇が離れるたびに強く思う。
「食べるのはあたしよ」
熱を込めて囁きながら、彼女が私の首筋に顔を寄せる。
「だって今日、2時間も頑張ったんだもの」
「え、アレそんなにかかってたんですか?」
「何よ、文句ある?」
「……いいえ」
短く苦笑すると、私は彼女の身体を抱き上げた。
「それじゃ、努力家の奥様にご褒美を差し上げましょうか」
耳元で、涼子の楽しげな笑い声が響いた。
彼女の手による"本物の"最高級ディナーを楽しめる日が、そう遠くないことを祈りつつ。
私は、寝室のドアを静かに閉じた。