CHANEL NO.5
フィービ:ね、お前さん、このお若い方に、恋ってどんなものか教えてあげてよ。
シルヴィアス:それはもう、溜め息と涙でできたもんです。
シェイクスピア『お気に召すまま』より引用
幾度目の溜め息かしら、ね?
由紀子は、早朝の電話にたたき起こされ、急いで朝食のクロワッサンをカフェ・オ・
レで流し込むと、溜め息を付いた。時計は、7時5分を指している。もうそろそろ身
支度をしなければ。
ドレッサールーム―――そこは、10畳ほどの広さで、一面は大きな窓があり、も
う一面は鏡張りで、残り一面に服が並んでいる―――のドアを開ける。彼女の好みを
示すように、濃紺や茶系の落ち着いたスーツや、アルマーニのシックなドレスが掛
かっている。その中で、数種類、異彩を放っている服に、由紀子は目を遣った。
ヴェルサーチの黒に銀のラメを織り込んだスーツ。シャネルの黒で縁取りしてある
白いスーツ。サンローランの黒いシルク・サテンのタキシード・スーツ。ヴァレン
ティノの濃灰に銀のペンストライプのスーツ。ディオールのラベンダー色のシフォン
スカートのスーツ。
全て、オートクチュールで、由紀子の体に綺麗にフィットするタイトなスカート・
スーツである。
由紀子は、しばらくそれらのスーツを見つめていたが、大きく息を吐くと、ヴァレ
ンティノのスーツを手に取った。ミラノのヴァレンティノ・ブティックで作っても
らった時以来、初めて着る。胸の谷間が、微妙にみえるようなジャケットに、膝丈の
タイト・スカートには太股までスリットが入っている。スーツには、グッチの黒いハ
イヒールを合わせる。
バス・ルームで眼鏡をはずし、コンタクトを両目にいれると、黒い薄絹のストッキン
グをガータ・ベルトで吊る。
そして、おもむろに化粧台の前に座った。警視という仕事上、いつもはほとんど化粧
をしないので、きちんとメイク・アップするのは久しぶりだ。
滑らかな白い肌に、ごく薄くファンデーションを伸ばす。黒目勝ちの眼を引き立た
せる為、アイラインを細く入れる。パール感のあるアイシャドウをまぶたにうっすら
とのせる。ビューラーで長い睫毛をくるんと伸ばし、マスカラでさらに長くする。最
後に、桜色の口紅をぬると、彼女は艶やかな黒髪を梳かした。いつもは一つにまとめ
ているが、今日は下ろしたままにする。
仕上げに、シャネルNO.5の香水を足首に付けた。
鏡の中の女に向かって由紀子は、
「宣戦布告、よ」
と微笑んで言った。
♪ ♪ ♪
「何だって、ヨリによってドサまわりのお由紀と一緒の仕事なの?!」
そんな事は自分が知りたい、とつくづく思いながら泉田は涼子に気付かれぬよう、溜
め息を飲み込んだ。泉田だって、丸岡警部にどうにか自分達だけの仕事にして欲しい
と頼み込んだのだ。
丸岡は、今朝、出庁した泉田に、玄米茶をすすりつつ、人生に疲れきったような顔
で、
「上からの緊急命令だよ。何やらドラよけお涼の管轄の殺人事件が目黒区で昨晩、起
こったらしい。ついては、お涼と君と、何故だか知らんが、お由紀と岸本の4人に事
件現場に向かって捜査をして欲しいそうだ」
「お涼とお由紀が一緒ですか?!どうしてですか?!部署がまるで違うじゃないです
か」
「お前さん達があんまりにも非現実的な事件を解決しているからだろう」
「それにしたって、あの2人を一緒にするなんて、コブラ対マングースの通訳をする
ようなものじゃないですか?!」
要は、不可能だ、と暗に泉田はほのめかしたのだが、丸岡は、ただ、うなだれて首を
横に振った。つまり、決定事項なのだ。
「せめて、私達だけにして頂けませんか」
「いや、どうもなあ、頭数が必要らしい」
「そもそも殺人なら捜査一課の・・・」
仕事でしょう、と、言いかけた泉田をさえぎって、
「捜査一課の方から断ったらしいよ。『これは薬師寺警視に担当してもらいたい。し
かし参事官だけではどうにも人数が足りないから、室町警視にも、今朝はやく、電話
ですでにお願いした』だそうだ」
・・・全く持って、余計なお世話をしてくれた捜査一課である。
春めいた暖かい外とは裏腹に、警視庁刑事部参事官室は、どんよりと曇っていた。
「ともかく、室町警視にはもう連絡済みだそうなので、ここはどうか穏便に事件を解
決しましょう」
泉田の言葉に、涼子はふてくされて淡紅の唇をとがらし、
「お由紀と一緒なんて、ストレスを体験しろって言っているのと同じよ」
「自由が丘でオムライスをご馳走しましょう」
「イヤよ!西麻布のアルポルトのイタリアンじゃなきゃ」
「・・・仕方ないですね」
ランチ・メニューなら、シガナイ公務員の懐に大きな損害は与えないだろう、と泉
田は、悟りの境地で返事をした。
「ところでさ、お由紀達は?」
「ああ、先に現場に向かっているそうです」
「何でそれをさっさと言わないの!」
「さっき言おうとしたらアナタがアルポルトと言い出したんですよ」
「まあ、お由紀に犯人が分かる訳ないからいいか。じゃあ、車で現場まで行くわよ。
キミはあたしが運転している間に事件の要約をして!」
そう言うと、涼子は颯爽と歩き始めた。シャネルの黒とクリーム色のコンビネー
ションのハイヒールで廊下を蹴る。完全無敵の脚線美だ。いつもははっきりした色の
スーツを着ている涼子だが、今日は春らしく、クリーム色のスーツである。とは言っ
ても、ガリアーノのタイト・ミニであるが。一方の泉田は、濃紺のスーツに、カルバ
ン・クラインの爽やかな水色のストライプのネクタイをして―――ネクタイ程度な
ら、泉田の財布を痛めつける事は無い―――、猟奇殺人事件のファイルを持ち、涼子
の後に続いた。
♪ ♪ ♪
事件のあらましはこうだ。
昨夜未明、目黒区の閑静な高級住宅街のある家で、会社から帰宅した主人が、家族
3人の変死体を発見した。そこまでは、普通の殺人だ。ところが、その死体に問題が
あった。ミイラ化していたのである。奥さんは、今朝、ごみを出している所を隣家の
人が目撃しているし、子供達にいたっては、夕方4時まで、学校でいつも通りにして
いたのを、学校関係者が多数証言している。ところが、死体は、検死の結果、どう考
えても、百年以上経っているミイラだと言うことになった。ここで、ドラよけお涼こ
と、薬師寺涼子と、涼子曰く“ドサまわりのお由紀”こと室町由紀子が、過去に数々
の猟奇殺人事件を―――と言えば聞こえはいいが、要は、非現実的な殺人事件を
―――解決しているからと、捜査一課がわざわざ名指ししてきたのである。
「とまあ、こういう事件です」
「ふうん。ミイラ化した死体、ねえ。検死報告を読み上げてくれる?」
「いえ、特に目立った外傷は無かったようです。首に噛み付いた痕があるとか、そう
言った類のものも無かったようですよ」
「チャカさないの!」
「茶化してないですよ。全く外傷が無い。だから、私達が名指しされたんです」
「本当に全く無かったのね?」
「検死報告では、そうなっています」
「ナルホド、ね」
涼子は、どうやら、記憶の中の神話を探り始めたようだった。涼子の様子を見て、
泉田は事件簿を丁寧に読み返しつつ、ナビゲーターに徹した。何しろ涼子の頭には、
世界各国の神話があるのだ。それをフルスピードでめくっている邪魔はしたくない。
♪ ♪ ♪
「この辺りが現場のはずですが・・・」
泉田は、徐行運転をしている涼子に声をかける。
「ふん。お由紀じゃジミ過ぎて目印にならないし。マンションだと見つけやすいの
に、今回の事件は一戸建てだし」
「マンションの場合、被害者がもっと多かったかもしれません。ベランダから浸入で
きる犯人かもしれませんし。被害者には気の毒ですが、一戸建てだったから、被害が
少なくて済んだとも考えられます」
「そう来るか。今のところ、どうも犯人の目星が立たないのよね。ヨーロッパの神話
は全部洗ったんだけどさ」
「アジアはどうですか?中国とかモンゴルとか」
「アジア、ねえ。聞き込みと遺体の検分をしてから一度、警視庁に戻って本棚を見な
いとハッキリしないな」
「あ、次の細い道を左に曲がって下さい。角から三軒目の煉瓦の一戸建て、大きな桜
の木が目印だそうです」
「オーライ。聞き込みなんてジミな仕事はお由紀達に任せたいんだけどさ、カンジン
な事を聞き逃すかもしれないし」
車を止め、2人は歩き出した。
「いいですよ。昼メシまでに聞き込みを終えましょう」
「そしてアルポルトで美味しいパスタを食べて、と」
「それから、遺体の検分、ですね」
さぞかし消化に良さそうですね、と言いかけた泉田は、桜の木を見つけ、―――言葉
を失い、息を呑んだ。
そこには、桜吹雪の中、春の女神が立っていた。
涼子が、射るように睨む、その先では。
由紀子の長い黒絹の髪が、風になびいている。
日本人離れしたプロポーションが、一目で見て取れる、濃灰に細い銀のペンシル・
ストライプの入ったスーツ。こちらに気付いた由紀子は、長い脚で黒いハイヒール
蹴って歩み寄ってきた。歩くたび、深い切れ込みの入ったスカートのスリットから、
ミロのヴィーナスのような太股が見え隠れする。
「おはよう、泉田警部補。お涼も」
嫣然と微笑む由紀子の顔には、トレードマークの眼鏡が無い。
透けるように滑らかな白い肌、形の良い眉の下には、黒曜石のような輝きを放つ美
しい眼があり、泉田を捕らえた。それに、優美な香りがそこはかとなくす
る。
「泉田警部補?泉田さん?」
由紀子の何度目かの呼びかけに、やっと泉田は我に返った。
「お、おはようございます、室町警視」
「・・・オハヨウ、お由紀」
こちらも、不覚にも言葉を失っていた涼子が、由紀子を見つめて、言った。
「岸本警部補はどこですか」
「ああ、何でもこの辺りにファンの声優が住んでいるらしいの。だから、泉田警部補
達が来るまで、そっちに行ってていいわよ、って言ったのよ。携帯ですぐに戻ってく
るわ」
泉田は、由紀子が話すたび、珊瑚細工のように綺麗な唇が動くのに目を奪われた。
「泉田クン。キミは先に両隣に回ってくれるかな?すぐに行くから」
涼子の言葉に、ハッと我に返った泉田は、
「はい、では、お先に失礼します」
と、いつもなら決して2人きりにしない由紀子と涼子を2人残して、右隣の家へ向
かった。―――それくらい、動揺していた。由紀子のあまりの美しさに。
「どういうコトかしら、お由紀」
涼子の鋭い声に、由紀子は、真っ直ぐ相手を見て言い放った。
「宣戦布告、よ」
「・・・何の?」
「しらばっくれるの?お涼」
「勝ち目があると思っているワケ?」
「勝負はこれからだと言っているの」
「その勝負、受けて立つわ、お由紀。いいえ、由紀子」
「でしょうね。言っておくけれど、負ける戦さはしない主義よ、わたしは。涼子」
「それはわたしのセリフよ」
「戦利品が全く気付いていない辺りが、わたし達らしいかしら、ね」
由紀子は、桜色の唇に微笑みを浮かべ、隣家のベルを鳴らして、警察手帳を見せて
いる泉田を見遣った。
「そうね。アンタにハンデをあげるわ。ただでさえ、彼はわたしの部下なワケだし」
涼子は、淡紅色の綺麗な唇に、不敵な笑みを浮かべた。
「どんな?」
「今日の昼に、彼とアルポルトに行く予定なの。アナタも招待するわよ」
「ありがとう。ご一緒するわ」
「じゃあ、わたし達も聞き込みを開始しよう」
「丁度、岸本警部補も来たわね」
涼子と並んで歩き出した由紀子は、涼子に気付かれぬよう、微笑みを浮かべた。
―――泉田さんのあの表情で、今日の収穫は充分だわ。
シャネルのNO.5の香りを微かに漂わせながら、由紀子は軽く地面を蹴った。
あなたを想って、幾度の溜め息を付いたでしょう
あなたを想って、幾度の涙を流したでしょう
でも、それでも、やっぱり、あなたが好きなの
溜め息と涙の分だけ、わたしは、強く、美しくなるわ
あなたが、いつか、わたしを見つめてくれるように
あなたが、いつか、わたしだけを見つめてくれるように
ね?泉田さん
END