カプチーノ

「…信じらんない」
 約束の時間に10分遅れてあらわれた彼に、あたしは思わず言ってしまった。遅刻したことに対してではない。
「何で休日にスーツで渋谷に来るのよ」
「いきなり呼び出されたから仕事かと思ったんですよ」
 あたしの非難に彼は憮然として答えた。いかに鈍感なこの男でも、日曜日の渋谷の雑踏の中でスーツ姿(コレがまた安物なんだわ)がどれほど浮いているかは分かっているらしい。まあ、目立つのはそのせいだけではないけれど。
「あたしに呼び出される理由は仕事しか思いつかないわけ?想像力がないわね、嘆かわしいわ」
「じゃ何なんです、用事は」
 落ち着かない様子の彼の目の前に、あたしは出来るだけ勿体つけて二枚のチケットを差し出して見せた。
「試写会のチケット、もらったの。こないだ見たいって言ってたでしょ」
 その映画は、以前話題になったアクション映画の続編で、前作以上に派手な銃撃戦とワイヤーアクション、それに荒唐無稽な(というかバカバカしい)ストーリーが公開前から話題になっていた。何かの話のついでに彼が見たいと言ってたので、知り合いに試写会のチケットを頼んでおいたのだった。
 それにしても、こんなバカ映画を見たがるなんて意外。あたしもB級映画は好きなほうだし、それでよく呆れられることもあるのだが、君に呆れられる筋合いはないわよ。
 あたしの内心を知ってか知らずか、彼はそれまでの憂鬱そうな表情を一変させた。こんなに嬉しそうな顔してるの、一緒にいてもあまり見たことがない。思いがけず見られて嬉しいんだけど…なんかムカツク。
「君が遅刻してきたせいで、もうあんまり時間ないの。早く行きましょ」
「ほんとにいいんですか?…後から何か要求されそうだな」
「あ、そうねぇ。チケット手に入れるのすっごい苦労したのー。お礼に何して貰おっかな」
「うわ、しまった」
 彼はオーバーに顔をしかめ、それからまた笑った。さっきのような子供っぽい嬉しそうな顔ではなく、穏やかに。
「ありがとうございます、警視」
 左胸の鼓動がわずかに跳ね上がった。頬が熱くなる。…やだ、この程度のことで。中学生じゃあるまいし。
 さっと後ろを向いて動揺を押し隠し、それから早足で駅前の交差点へ歩き出した。肩越しに振り向く。
「何やってんの、始まっちゃうじゃない!早く!」
「…はいはい」



「警視、コーラ飲みます?」
 人でごった返す映画館の売店で彼が尋ねた。左手にはすでにポップコーンを持っている。
「ポップコーンにコーラって…中学生のデートじゃないんだから」
「B級映画を見るときはコレに限るんですよ。どうします?おごりますよ、お礼に」
「ちょっと、まさかそれで済ませようと思ってんじゃないでしょうね」
「さあね、どうしましょうか。…で、飲みます?」
「……飲む。Lサイズね」
 渋々といった感じの答えに、彼は笑った。「コーラ2つ、Lサイズで」と店員に告げ、信じられないほど大きな紙コップに並々と注がれたコーラを受け取り、一つをあたしに渡した。受け取りながら、そう言えば、二人で出かけるのは珍しいことではなくなったけど、彼に奢ってもらったのは初めてだな、と気付いた。
 中学生のデート、か。さっき口に出した言葉を、声には出さず反芻してみる。口元に笑みがこぼれた。彼が訝しげに「何ですか?」と尋ねたが、「何でも」と答えてストローを口に含んだ。コーラなんか奢られて、他愛もなく嬉しくなっている自分が可笑しい。もっとも、中学生の頃はこんなデートなんかしたことなかったけど。
 先程、わずかに感じた胸の高鳴りを思い出してみる。あんなささいなことで喜んだりするほど、あたしは子供じゃないはずなのに。嬉しい反面、苛立たしさも感じる。このあたしが、男に振りまわされて一喜一憂しているような状況に。そして、当の本人があたしのこんな状況に全く気付かないでいるということに。
 人ごみを掻き分けて、どうにか二つ並んで空いている席を見つけた。スクリーンからは少し遠いが、ほぼ中央に近い席で、まずまずの席だと言えるだろう。上映開始時間まではあとわずか、スクリーンには非常口案内が映し出されている。それをぼんやりと眺めながら、そういえば、と彼が口を開いた。
「一緒に出かけることは何度かありましたけど、映画は初めてですよね」
 あたしは彼の顔を見直した。と、照明が暗くなった。音楽が流れ、スクリーンに公開間近の映画の予告があらわれる。『全米No.1!』などの使い古された宣伝文句を見ているうちに、もうひとつ気が付いた。
 映画が初めてというより、彼が見たがっていた映画に誘うみたいに、相手の希望に合わせて出かけるのが初めてなんだ。彼とだけじゃなく、今まで他の誰ともそんなことをしたことはなかった。
 コーラを持っていた手で自分の頬に触れてみる。何時の間にかまた火照っていた頬に冷たさが心地よかった。いま、暗闇で良かった。



 映画館の外に出ると、もうあたりは街灯がともりはじめていた。
 映画は前作以上に、俳優も監督も演出も超一流、脚本だけが三流というバランスの悪いものになっており、前作以上にマニア受けしそうな出来だった。あたし達は好き勝手に感想を言い合いながら(罵倒が大部分だが)街を歩き、目に付いたカフェに入った。窓際の席に落ち着き、あたしはカプチーノを、彼はエスプレッソをそれぞれ注文する。
 映画の感想をひととおり喋り尽くしてしまったので、二人ともしばらく無言で窓の外を眺めていた。向かいの店のショウウィンドウに、春物の白いブラウスとパンツが展示されているのが見えた。そう言えば、今年の春は白が流行するなんて雑誌でこぞって取り上げてたっけ。なかなか来ないカプチーノを待ちながら、とりとめもなく考えた。春。また春が来る。彼と出会ったのも春だった。あれから五年、六度目の春。あたし達の距離は確かに近付いて来ているけれど、それでもまだ、あたしは君に届いていない(あたしとしたことが、なんて時間が掛かっているのかしら)。この春が過ぎて、夏、秋、冬を過ごして、来年の春を迎える頃には届いているだろうか。それとも、近付くだけに終わるのか。それとも…逆に、離れてしまうのだろうか。
 かたん、とテーブルが鳴った。「お待たせしました」という声に我に返る。注文したカプチーノとエスプレッソを置いて、店員は静かに立ち去った。カップを持ち上げ、カプチーノの香りをしばし楽しんだ。あたしらしくもない、あんな風に理由もなく不安になるなんて。苦笑が湧き上がってくるのを感じた。
「どうかしましたか」
 あたしの表情を見咎めて彼が尋ねる。
「このカプチーノ、苦いわ」
「まだ一口も飲んでないじゃないですか」
 肝心なところは鈍感なくせに、くだらないことでは鋭いわね、この男は。苦笑を浮かべたまま、カプチーノをすすった。あ、ほんとに苦い。
 あたしが何も答えなかったので、彼もそれ以上何も言わず、エスプレッソをすすった。また沈黙が流れた。端から見たら、別れ話の最中かと思われるかもしれない。無言のまま飲み干してしまい、会計を済ませて店を出た。右腕を彼の左腕にからめる。彼が少し驚いた様にあたしを見つめる。あたしは彼に微笑んでみせる。彼の頬がわずかに紅潮し、動揺しているのがわかった。あたしは今日初めて勝利を感じた。



 渋谷駅はいつもカーニバルみたいに混んでいる。帰る方向がほぼ正反対なので、あたし達は駅で別れることにした。絡めていた腕を解き、「じゃ、また明日」と言って改札口へ歩き出そうとしたとき、「警視」と彼があたしを呼びとめた。あたしは振り返った。
「…また今度、行きませんか、映画」
 大きな声ではなかったけれど、雑踏の中でもちゃんと聞き取れた。胸が騒いだ。彼は今何て言ったの?
 目を見開いて突っ立ってるあたしを見てどう思ったのか、彼は一瞬、後悔の入り混じった苦笑を浮かべた。それから早口で言った。
「今日はありがとうございました。…また明日」
 くるりと踵を返して足早に雑踏の中へ消えようとする彼の背中に、あたしは急いで呼びかけた。「泉田クン!」彼が振り返る。あたしは微笑んで言った。
「今度はサスペンス映画がいいな、あたし」
 彼は一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、すぐに笑った。右手を上げて応え、今度こそ雑踏の中に消えて行く。あたしはその場に立ったままそれを見送った。今日一日のうち、最も強い喜びが胸を満たしているのがわかった。彼からの次の約束。映画館でコーラ奢られたのなんか、全然たいしたことない。ねえ、どんなに嬉しいか分かってる?
 彼の姿が完全に見えなくなってから、あたしも踵を返した。カフェで感じていた漠然とした不安は跡形もなく消えていた。この春が過ぎて、夏、秋、冬を過ごして、また次の春が来るとき、あたし達がどうなっているか分からない事に変わりはない。でもきっと、こうやって他愛もない約束をずっと続けて行けるなら。
 改札口を足早に通り抜ける。電車がホームに滑り込んで来た。扉が開いて人が溢れ出してくる。やっとの思いで乗りこむ。扉が閉まる。電車が動き出す。ホームが遠ざかって行くのを眺めながら、「また明日」ともう一度呟いた。