エアメール
きっかけは、TVのニュース速報だった。
日本から出港した豪華客船の船内で大事件が発生し、その犯人として、乗客である南米のある国の元大統領を、乗り合せていた日本の警察官が逮捕した、という内容だった。
レポーターの質問に流暢な英語で答えていたその警察官はまだ若い美しい女性で、そのことも驚いたのだが、その隣に佇んでいた人の姿を見て、わたしは心臓が止まりそうになった。
「準一郎さん…?」
思わず呟いたわたしの側に夫がやってきた。「どうしたの?知り合いでも写ってた?」と
わたしの髪を撫でながら尋ねる。
「まあね」
「どっち?この背の高い美人?」
「ハズレ。その隣の男の人」
「残念だな、紹介してもらおうと思ったのに」
わたしは笑った。「恋敵の紹介なんてできないわよ」
「冗談だよ。君の方がずっと素敵だ」
夫はわたしに軽くキスをして、「もう少し仕事があるから、先に休んでていいよ」と言い残し寝室を出ていった。夫の言葉に甘えて、わたしはTVを消しベッドにもぐりこんだが、とても眠れそうになかった。
「知り合い」のことは何も聞かなかったが、おそらく察してはいるだろう。夫は神経がこまやかで、わたしのどんな小さな変化も見逃したりしない。さっきのわたしの様子から、彼とわたしがどんな関係にあったか、気付いているに違いない。それでも夫は、わたしの方から話し出さない限りは、あれこれ詮索することはないだろう。これまでもそうだった。だからこそわたしは夫に惹かれたのだ。彼とはまったく正反対の夫に。
ベッドの中で寝返りを打つ。日本を離れてから、彼のことを思い出したことはほとんどなかった。思い出したくなかった、ということもある。つまらない口論で後味の悪い別れ方になってしまったから。でもそれ以上に、シドニーで暮らし始めて間もなく出会った今の夫に、わたしはずっと夢中だった。現在は新婚3ヶ月目だ。夫との生活は順調でとても幸せだと思っている。
なのに。
TV画面越しに見た彼の姿が脳裏に焼きついて離れない。すらりとした長身、広い背中、大きな掌……。記憶の中そのままの姿で、あんな場面にあらわれるなんて。
彼をまだ愛してるわけじゃない。別れたとき、本当にもう二度と会いたくないとさえ思ったのだ。だけど今、わたしはなくした大事なものが不意に見つかったような気分に襲われていた。懐かしさの入り混じったいとおしさ。どうして今頃、こんな気分になるんだろう。
「準一郎さん」
目を閉じ、そっと名前を呼んでみる。瞼の裏に彼の笑顔が浮かんだ。
翌朝、日本の友人からの電話で起こされた。彼とわたしの共通の友人で、わたしを彼に紹介した人だ。
「もしもし、昨日のニュース見た!?」
やや慌てたような様子にわたしは苦笑した。時計を見ると8時を指している。ということは、日本はいま午前10時だ。ニュースが入ったのは昨日の深夜だから、わたしが起きるのを見計らって電話してきたようだ。実際には起きていなかったが。
「見たわ」
短く返事する。わたしの即答に意外なものを感じたのか、電話の向こうで数秒間の沈黙があった。
「…そっか、見たか」
「わざわざそれを聞きに電話をくれたの?」
見てない、といったらニュースの内容を教えるつもりだったのかしら。君の昔の男が国際的なニュース番組に出てるよ、って。意地悪く考えてみる。こういう穿った考え方をしてしまうのは、単にわたしのクセだ。
「いや、そうじゃないんだ、ただ…気にしてるんじゃないかと思って」
友人はやや弁明するような調子になった。わたしはまた苦笑する。
「気にすることなんか何もないわよ。今はもうあの人とは他人なんだから」
やや強い調子になってしまった。半分は自分に向けた言葉だが。
「そっか、そうだね。…ごめん、変な電話して」
「いいの。わざわざありがとう。大丈夫よ」
何が大丈夫だかよくわからないが、とりあえずそう告げた。友人が、わたしと彼のことをずっと気にかけてくれているのは知っている。彼とわたしが付き合うきっかけを作った人だし、別れることになったときも、最後まで二人の間を修復しようとしてくれた。結婚が決まったとき、何となく申し訳ないような気分を抱いたのは、彼自身ではなくこの友人に対してだった。
二言三言交わして電話を切り、傍らの新聞を広げる。仕事の関係で二、三種類とっているが、そのすべての一面に、昨夜のニュースが大きく取り上げられていた。ニュース映像とほぼ同じような写真もあったが、そこには彼の姿はなかった。なぜか残念な気分になった。
何となく出かけるのが億劫になった。仕事先には、体調が悪いと電話を入れた。ここ数週間、休日もなく働いていたので、ボスは快く休暇をくれた。わたしはソファに寝転がり、目を閉じた。
彼と別れた原因は、わたしが当時いささか無茶なダイエットをしていたことだった。野菜とゆで卵とウーロン茶だけをひたすら摂り続ける、という、今となってみればなんとも健康に悪そうな食生活をしていたのだ。彼は反対していたが、「もっと細くなりたいから」と言って続けていた。だが、本当の理由はそうではない。
わたしは、彼に心配して欲しかったのだ。
その頃、都内で物騒な事件が相次いでおり、彼はほとんど休みが取れないような多忙な状態だった。当然、わたしとの約束も何度となくキャンセルされていた。忙しいのだから仕方がない、と頭では納得していても、不満は募る一方だった。事件のことに気を取られていて、わたしのことなんか全然考えてくれてないんじゃないか。そう思うとたまらなかった。だから、彼にあてつけるようにあんな無茶なダイエットをしていたのだ。今となってみれば、自分の子供っぽさに馬鹿馬鹿しくなるが、その時は必死だった。そして、ある日ついに体調を崩した。貧血程度だったが、原因はあきらかだった。
わたしが倒れた、という連絡を受け、仕事の合間を縫って彼が見舞いに来てくれた。思ったより病状が軽いと知って安心したのか、彼はこんなことを言った。
だからよせって言ったのに。いくらダイエットしたって、脚が長くなるわけじゃないだろ。
どういう意味よ。わたしは烈しく怒った。確かにわたしは小柄で、脚がすらりとして長いとは言えなかった。だけど、そんな言い方ないじゃない。見舞いに来たと思ったらそんな無神経な言葉吐くなんて最低。信じらんない。出てって、帰ってよ、もう顔も見たくない…。
彼は多分、悪気があって言ったのではないと思う。わたしのことをほんとうに心配してくれていたのだ。ほっとしたあまり、つい口が滑ってしまったのだろう。もともと、気の利いた言い回しの出来る人ではなかった。だけど、そのときのわたしには、彼の弁解も謝罪も耳に入らなかった。心配して欲しかった。優しい言葉が欲しかったのに……。
その後ほどなく、彼を(というか警察を)煩わせていた事件は解決した。彼から何度か連絡があったが、わたしはそれを無視しつづけた。そうしているうちに、勤めていた出版社から、シドニー支社への転勤の通知が出た。
久しぶりに彼に電話をした。シドニーに行くことになった、とだけ告げると、電話の向こうで彼が沈黙した。長い空白のあと、彼が尋ねた。
いつ?
今月末には出発するわ。
どれくらいかかる?
わからない。三年は日本に戻らないと思う。
……そうか。
また沈黙が流れた。次に言うべき言葉を探し出せずに、わたしも受話器を持ったまま黙っていた。やがて、彼が静かに言った。
………元気で。
わたしは突然理解した。そうだ、これは別れ話だったのだ。喧嘩したまま長いこと連絡のなかった恋人が、突然電話してきて海外勤務になったと告げる。別れ話以外の何だって言うのかしら。自分からその電話をしたくせに、そのことを認識していなかった自分が可笑しかった。わたしが言うべき言葉はただ一つだった。
さよなら。わたしは呟き、電話を切った。
彼と言葉を交わしたのはそれが最後だった。
ソファから起き上がって、さきほど電話をくれた友人に、今度はこちらから電話した。
「彼、いまどうしてるの」
友人は驚いたようだった。それはそうだろうと思う。
「もう他人なんじゃなかったの」
「それはそうなんだけど…」
わたしは言葉を濁した。昨夜からつきまとっている気分を、どう表現したらいいかわからない。感情にまかせてわたしの方から一方的に別れた形になっているため、どうにも落ち着かないのだ。幼い頃大喧嘩した仲の良かった友達に今更謝りたいような気持ちに似ている。
「恋人はいないの」
重ねて問いかけてみる。電話の向こうから、困惑したような気配が漂ってきた。
「いる…ってわけじゃないけど、いないとも言いきれないなあ…」
「何それ」
「昨日のニュース見たんだったら分かるかな、インタビューされてた背の高い美人」
「ああ…」
わたしはうなずいた。彼の隣にいた女性。彼女の方は新聞の写真にも載っており、簡単に経歴を紹介する記事も小さく載っていた。美しいだけじゃなくて、ものすごく優秀な女性らしいけど…。
「彼女、あいつの上司なんだって」
「へぇ…あ、もしかしてあの人と?うわ、生意気」
冗談めかしてそう言ってみる。半分は本気だ。何よ、ちゃっかり幸せになってるんじゃないの。さっきの申し訳ないような気分は雲散霧消していた。
「いや、まだそうと決まったわけじゃないんだよ」
友人の返事はさっきからどうも曖昧だ。
「付き合ってるんじゃないの?もしかして彼の片思い?気の毒に、高嶺の花だものね」
「…………そうじゃなくて、その逆」
「…………嘘ォ」
わたしは絶句した。あんな美人が彼に?そんなにもてる男だったかしら。
「そんな人がそばにいるなら、何で付き合ってないの」
聞いた側から気がついた。まだわたしのことを愛しているから……ではもちろんない。
「……相変わらず、鈍感なのね」
「だな」
わたしたちは同時に笑い出した。ちっとも変わってない。わたしの子供っぽい思惑に全く気づくことのなかった彼。別れる直前には、あの鈍感さは憎たらしいものでしかなかったが、今となっては好もしさを覚える。そういえば付き合っていた頃も、わたしは彼の鈍さに腹を立てる一方で、それをとてもいとおしく感じていたのだった。あの女性もきっとすごく苦労しているに違いないわ。
何か伝えとこうか、という友人に、ありがとう、でもいいわ、と答えて受話器を置く。それから、あることを思いついてわたしはアルバムを引っ張り出した。三ヶ月前、わたしたちの結婚式の写真。その中から、わたしが特に素晴らしい笑顔で写っている一枚を抜き出す。ペンを取り、裏に短いメッセージを記した。
エアメール用の封筒に、まだ覚えていた彼の住所を記す。引っ越しているかもしれないけど、届かなければそれでいいや、と思った。メッセージを記した写真を入れ、丁寧に糊付けする。寝室に戻り、鏡の前で淡いピンクの口紅を塗る。それから封の部分にそっとキスをした。
彼に送る、最後のキス。唇を離すと、口紅の色と同じ、淡いピンクの痕がついた。もしわたしが彼をまだ愛していれば、こんな悪戯はしなかっただろう。これが届いたとき、彼はどんな顔をするだろうか。わたしは微笑んだ。
彼への手紙を出しに行った帰りに夫にばったり会った。まだ昼下がりのことで、夫はランチを終えてオフィスへ戻るところだった。
「今日は仕事は休んだの?」
勤めに出るときと異なり、いたってラフな格好のわたしを見て夫が問いかけた。ええ、と答えて夫の腰に手を回す。
「だから今日は、すごいディナーを作ってあげるわ。何がいい?」
「何でもいいよ、僕の好きなものなら」
「分かった」
夫の肩に手をかけて、やや背伸びをするようにしてキスをした。夫の腕がわたしを抱きしめた。言い様のない幸福感がわたしを包んだ。
オフィスへ戻る夫と別れて家へ戻りながら、わたしは考えていた。豪華なディナーを食べながら、夫に彼のことを話そう。あまりにも鈍感で、口下手で、でも優しかった彼のことを。日本にいる家族や友達のことを話すように。
夫は嫉妬するかしら?だとしたら、こう付け加えなくちゃ。
そのひとがいたから、今のわたしがいて、あなたと出会えたのよ。
準一郎さん。今度は彼に呼びかける。わたしは申し分のないほど幸せです。自分をこっぴどく振った女が幸せになってるのは悔しい?だとしたら、あの手紙は勝者の余裕に見えて腹立たしいかしら。でも、わたしの偽らざる本心なの。だから……。
写真の裏に書いたメッセージを思い返す。
――あなたの人生にも幸多からんことを。