冬、ふたたび
その女の、氷の花のような美しさに惹かれたはずだった。
日差しの強い夏の午後だった。女は、風のよく通る木陰に座っていた。女の優美な手は、彼女自身の腹の上に置かれていた。ゆったりとした衣服の上からでも、身ごもっていることがはっきりとわかった。
「何か、欲しい物はないか」
アンドラゴラスは尋ねた。女はゆっくりと顔を上げ、アンドラゴラスを見つめた。
これまでにも何度も尋ねたことだった。女は常に、感情のない声で、いいえ、と答えてきた。凍てつくような美貌に相応しい、雪の夜よりもなお冷たい声だった。エクバターナより遥か南で生まれ、雪を知らぬはずの女にも、このような声が出せるのか、と、アンドラゴラスは思っていた。
交わされる会話は、いつも同じだった。それ以外に、女にかけるべき言葉を、アンドラゴラスは知らなかった。知る必要はなかった。女が望みさえすれば、彼はすべてを与えることができるのだから。しかし、“望み”そのものを与えるすべは知らなかった。
「いいえ、何も必要ありませぬ」
このときも、女はそう答えた。しかし、その声に雪の夜の冷たさはなかった。アンドラゴラスを見つめて、女は微かに微笑んだ。
「お気の毒ではございますが……王妃さまには、二度と御子は授かりますまい」
宮廷医の言葉を、アンドラゴラスは無言のまま聞いていた。女児が生まれたという報告を受け、いずれ男児を産めばそれでよい、と答えると、宮廷医は痛ましげな表情をした。
出産は、思いがけぬ負担をタハミーネに強いた。女児を産んだ後、高熱で気を失ったのだ。寝室の外で待っていたアンドラゴラスに、宮廷医は診察の結果を伝えたのだった。
沈黙した国王に代わり、ヴァフリーズが宮廷医に退出を命じた。宮廷医の姿が見えなくなり、周囲に人気がないのを確認して、ヴァフリーズは国王を振り返った。同時に、国王が口を開いた。
「皆に知らせよ。産まれたのは男児だ」
「陛下……」
「産まれたのは男児だ」
強い口調で繰り返す。ヴァフリーズに視線を向け、アンドラゴラスは命じた。
「街へ出て、生まれたばかりの男児を見つけてくるのだ。身分は問わぬ」
困惑するヴァフリーズの視線を受けたアンドラゴラスは、低い声で続けた。
「子を取り替える」
「陛下!」
ヴァフリーズが驚愕の叫びを上げる。アンドラゴラスはさらに続けた。
「その男児を、予とタハミーネの子として育てる。パルスの正当な王位継承者としてな」
「……王家の血を引かぬ者を、王にするとおっしゃるのですか」
「そうだ」
アンドラゴラスは、口元に笑みを浮かべた。
「お言葉ですが、陛下。側室をお迎えになって、改めて王子を産んでいただけばよいのではございませんか」
「そして、男児を産んだ女を新たに王妃とするか。タハミーネを廃してな」
「陛下はタハミーネさまを大事になさるあまり、王としての責務をお忘れになっておいでではございませぬか。王妃に相応しい女性は、タハミーネさまだけではありますまい」
ヴァフリーズの厳しい声を、アンドラゴラスは無言で受けた。
「……タハミーネさまにとっても、その方がお幸せではないかと存じまする。わが子と引き離された上、他人の子を育てよとは、あまりに酷ではございませぬか」
ヴァフリーズは続けた。アンドラゴラスはやはり無言のまま聞いていたが、やがて、深い吐息とともに呟いた。
「以前であれば、おぬしの言葉に従ったであろう」
アンドラゴラスは寝室の扉に目を向けた。その向こうではタハミーネが、まだ眠っているはずだ。
「兄上にタハミーネを奪われたとき、予は自棄になっておった。しかし、あのまま時が過ぎれば、タハミーネだけが女ではないと思えたであろう。あの女が、美しいだけの、冷たいだけの女であると思っておれば、いずれ諦められたであろう」
アンドラゴラスは目を閉じた。夏の午後、木漏れ日の下。慈しむような手つきで腹を撫でていたタハミーネが、ゆっくりと顔を上げ、微かな微笑とともに応える。
――いいえ、何も必要ありませぬ。
あのとき、アンドラゴラスの前にあったのは、氷の花ではなかった。
「……予は、もはやタハミーネを諦められぬ。憎まれるであろうが、それでも手放すことができぬのだ」
アンドラゴラスの口元が歪んだ。笑みのようにも見えた。豪放磊落な国王が、これまでに見せたことのなかった表情だった。ヴァフリーズを見やると、アンドラゴラスは続けた。
「それにおぬしも知っておろう。パルス王家の血は澱みきっておる。英雄王カイ・ホスローの栄光など、もはや一滴も残っておらぬわ。このような血筋、残したとて何になる。英雄王の栄光は記憶のみにとどめて、あとはすべて消し去ってしまえばよいのだ」
アンドラゴラスは低く笑った。ヴァフリーズには、もはや反論は思い浮かばなかった。
「仰せに従いまする、陛下」
ヴァフリーズは国王の前に跪いた。
他の者に命じられる仕事ではなかった。ヴァフリーズは自らエクバターナへ出向き、ほどなくひとりの男児を見つけた。中流騎士の息子で、母親が産後間もなく亡くなっていた。他に親戚もおらず困っている、と訴える若い父親の沈痛な表情を見ながら、都合がよい、とヴァフリーズは思った。あまりにも都合がよすぎる。まるで、パルス王家の血筋が絶えることを、天が望んでいるようだ。
身分を隠して、ヴァフリーズはその男児を引き取りたいと申し出た。謝礼は惜しまぬ、と告げたが、父親は、謝礼など望まない、元気に育ってくれればいい、と遠慮がちに告げた。ヴァフリーズの気分は沈んだ。この善良な父親から息子を取り上げ、口を封じねばならない。多額の謝礼に舞い上がって息子を差し出すような父親なら、これほど良心の呵責は感じなかったであろうに。謝礼と出世を強引に約束して、ヴァフリーズは父親のもとを逃げるように去った。
王宮に戻ったヴァフリーズは、“王子”が見つかったことを国王に報告した。
「早かったな。英雄王のお慈悲であろう。不肖の子孫たちにいつまでもパルスを任せておけぬと仰せなのだな」
アンドラゴラスは自嘲するように呟くと、ヴァフリーズに目を向け、思い出したように言った。
「宮廷医と産婆の口も封じねばならんな。生まれたのは“王子”なのだから」
「すでに手配してございます」
短く答えたヴァフリーズに「おぬしは忠臣だな」と告げ、アンドラゴラスはさらに命じた。
「王子の乳母を探せ。人選は任せる」
「承知いたしました。……ところで陛下、王太子殿下のお名前ですが」
「そうであった、名を与えねばならんな」
アンドラゴラスはしばし考え込むと、やがて告げた。
「アルスラーン。パルスの王太子はアルスラーンだ」
ヴァフリーズは記憶をたどり、その名前が歴代国王のどの名とも一致しないことに思い至った。王家の系図にない新しい名を、アンドラゴラスは血の繋がらぬ王子に与えたのだ。その名が「獅子」を意味することはヴァフリーズも知っていた。王家の血をひかぬ者が、いずれ国を背負う。獅子のごとく強い心を持たねば為し得ぬことであろう。ヴァフリーズは、わずかながら安堵した。己の執着と意地から重責を負わせることになる王子に対して、アンドラゴラスが全く何も感じていないわけではないのだ、と察せられた。ヴァフリーズは国王に深く一礼した。
「では、アルスラーン殿下の御為に、良き乳母を見つけてまいります」
タハミーネは、夜の庭を眺めている。月の光が、優美な横顔を白く浮き上がらせる。何の表情も浮かんでいない、それゆえに氷の花のような美しさだった。
あの夏の午後、木漏れ日の下で見た女は、氷の花ではなかった。あのとき確かに、タハミーネはアンドラゴラスに微笑んでいた。そこには予感があった。タハミーネがアンドラゴラスに心を開こうとしているという予感が。
それはもう永遠に失われてしまったと、アンドラゴラスは気づいている。気づきながらなお、手放せないでいる。あのときの予感の甘美さが、彼を捕らえて放さないのだ。
「子を産めぬ女を、まだ王妃にしておくのですか」
子を失ったと知ったときの激情をまるで感じさせない、感情のない声でタハミーネが呟く。
「そうだ。予の妃はそなただ」
アンドラゴラスは答えた。タハミーネの言葉は返ってこない。いっそう冷たさを増したかに見える美しい横顔を、アンドラゴラスは眺めていた。白い手が、腹の上をそっと撫でている。失ったものを愛おしむように。表情と声が完璧に押し殺していたはずのものを、その手が雄弁に物語っていた。
アンドラゴラスは、タハミーネの細い顎に指をかけ、自分のほうへ顔を上げさせた。タハミーネは拒まなかった。黒い瞳が、正面からアンドラゴラスを見据えた。
「予を憎んでおろうな」
「ええ」
「だが、予はそなたを手放さぬ」
「わたくしも、おそばを離れるつもりはありませぬ。あなたのそばにおればこそ、もう一度あの子に会える機会もありましょう。わたくしは、それを待ちます」
タハミーネはきっぱりと言った。射るような視線を受けたアンドラゴラスは、口元に笑みを浮かべ、タハミーネの肩を抱き寄せた。タハミーネはやはり拒まなかった。人形のように従順に、アンドラゴラスに身を任せている。
けれど、この女は決して人形ではない。従順でも、生きる気力を失ったわけでもないのだ。憎悪に身を焦がしながら、それでもここにいることを自ら選んだのだ。
この女のために、三百年続いた王家の血が絶えることになる。
澱んだ血筋には、過ぎた結末ではないか。
あの夏の午後のから、わずかふた月。あのときの予感とは、あまりにもかけ離れた現在。
しかし、タハミーネの華奢な身体を抱きながら、アンドラゴラスは充足感に満たされていた。