鳥籠
――そなたが産んだのは、王子だ。
目が覚めたとき、常にタハミーネの側に控えているべき女官の姿はなかった。寝台の側に立って彼女を見下ろしていた夫は、彼女の視線が彼に向けられるのを待ち、静かに告げた。寝台に横たわったまま、タハミーネは首をかしげた。まだ、完全に覚醒していないのだろうか。夫の言葉の意味を、彼女は図りかねた。
「そなたが産んだのは、王子だ。パルスの玉座を継ぐべき男児だ」
喜ばしいはずの出来事を、夫は淡々と繰り返した。そして、良いなタハミーネよ、と念を押すように付け加えた。タハミーネは寝台から身を起こし、夫の顔を見つめた。
――王子? そんなはずはない。
わたしが産んだのは……。
寝台から滑り出るとき、軽い眩暈を感じた。出産の直後から体調を崩し、寝込んでいたのだ。体調は回復しているとは言いがたかったが、構わずゆっくりと立ち上がった。
窓辺に置かれた小さな揺り籠。夏はすでに過ぎつつあり、穏やかな陽の光が揺り籠を包んでいた。柔らかな布を敷き詰めたその中に、二日前に生まれたばかりの赤子がいる。そっと歩みより、揺り籠の中を覗き込んだ。純白の産着に包まれた赤子は、タハミーネの顔を見上げ無邪気な笑い声を上げた。
赤子の瞳は、晴れわたった夜空の色だった。そこに映りこんだ自分の表情が凍りつくのを、タハミーネは見た。
――夜空の色の瞳。
ちがう。
この子はわたしの子ではない。
タハミーネは呆然としたまま夫を振り返った。夫は表情を変えず、無言のまま佇んでいた。その視線が、彼女の混乱にひとつの答えを与えた。
「……わたくしの子はどこです」
激情がタハミーネの身の内で燃え上がった。両手を強く握り締め、夫を睨みつける。夫は動じることなく、平然と彼女の視線を受けて応じた。
「その王子が、予とそなたの子だ。アルスラーンと名づけた。良い名であろう」
「わたくしの子をどこへやったの!?」
タハミーネは叫んだ。怒りと悲しみ、そして絶望が、急速に彼女の全身を浸していった。
――かわいらしい姫君ですよ。王妃さまにそっくりでいらっしゃいます。
身を裂かれるような激痛に耐えて産み落とした子を抱き上げ、産婆はそう言ったはずだ。
生まれ育った国を滅ぼされ、仇であるはずの国の王妃となった。彼女が望んだことではない。だが、周囲の非難を交えた囁きは、好むと好まざるとに関わらず耳に入ってきており、彼女の心は次第に凍てつき始めていた。愛することなど不可能だった。夫のことも、この国のことも。
だが、生まれたばかりの赤子を抱き、その顔を見つめたとき、タハミーネの胸に久しぶりにあたたかなものが湧き上がってきた。男児の誕生を期待していた側近たちの失望は想像がついたが、この子の誕生をきっかけに、冷たく暗い牢獄のように感じられる王宮の生活が変わっていくような予感がしたのだ。この子を授けてくれたと思えば、夫のことも愛していける。そう思えた。
それなのに。
幸福の予感は何ひとつ形にならぬまま、突然消えてしまった。
血を分けた女児は何処かへ連れ去られ、見覚えのない男児が押し付けられた。
窓枠に手をつき、タハミーネは崩れ落ちそうになる身体を支えた。その様子を見つめながら夫が説明した。女児には王位継承権がない――故に、男児と取り替えられたのだ。タハミーネは頭を振った。それならば、男児の誕生を待てばよい。なぜ、生まれたばかりの我が子が、取り替えられなければならない?
タハミーネの問いに、夫の表情がわずかに揺らいだ。短い沈黙が続いた。夫が何かをためらう態度を見せるのは珍しいことだったが、そのことに気が付く余裕はタハミーネにはなかった。やがて、夫は大きく息を吐き出し、彼女の問いに答えた。
「……そなたには、もう子は授からぬ」
窓から差し込む陽が、ふいに失われたように感じられた。タハミーネの視界から、色彩が急速に褪せてゆく。気づかぬうちに、彼女は床の上にへたり込んでいた。夫が傍らに膝をつき、タハミーネの華奢な肩を支えた。
「全てそなたの為にしたことだ。分かるな、タハミーネよ」
「……わかりませぬ」
「男児が生まれず、しかもこの先子供が授からぬとなれば、そなたは王妃の座を追われることとなろう。そうさせぬために、子を入れ替えた」
「わかりませぬ」
床に視線を落としたまま、タハミーネは抑揚のない声で繰り返した。夫が小さなため息をついた。短い沈黙が室内に満ちた。
タハミーネは緩慢な動作で顔を上げ、夫を見つめた。
「……あの子を返して下さいませ」
言葉を紡ぎ出すと同時に、視界が滲んだ。膝の上で握り締めた手に、熱い雫が落ちた。
「王妃の地位など要りませぬ。あの子を返して下さいませ」
「……ならぬ」
一瞬の沈黙のあと、夫は冷徹ともいえる態度でタハミーネの要求を拒んだ。息を呑む彼女の顔から視線を逸らすと、立ち上がって背中を向けた。なぜ、と彼女が問い掛ける隙を与えず、そのまま扉へ向かう。扉を開く前に立ち止まると、再び彼女に向き直り、告げた。
「予は、そなたを手放すつもりはない」
言い終えると同時に夫は身を翻し、扉の向こうへ姿を消した。
タハミーネは、彼女の前で跪いた人物を静かに見やった。武装しているが、冑だけを脱いで右腕に抱えている。跪いたまま、その人物は声を発した。
「それでは、行ってまいります」
いつになく緊張をおびた声も、鎧に包まれた身体も、まだ少年のものだった。タハミーネは頷き、用意していた言葉を投げかけた。
「そなたの武運を祈っております。パルスのため、王太子たる者の初陣にふさわしい武勲を立てられるよう、しっかりつとめなさい」
「はい、母上」
少年の答える声は真摯なものであったが、タハミーネの心に冷たい水を注ぎ込んだ。
――わたしはそなたの母ではない。
――わたしを母と呼んでいいのは、そなたではない。
そう口に出したい衝動がふいに生まれた。タハミーネは表情を押し殺し、静かにその衝動に耐えた。理不尽なことと知っていながら、少年が何も知らずに彼女のことを“母上”と呼ぶたび、苛立ちを禁じえなかった。
黙り込んだタハミーネを訝しく思ったか、少年は顔をあげて彼女を見つめた。あの日、彼女を愕然とさせた夜空の色の瞳に困惑を漂わせながらも、少年の視線はまっすぐに彼女に向けられていた。彼女にも、そして夫にも似ていない、穏やかで優しげなその顔立ちには、甲冑姿はどこか馴染まず、痛々しさすら感じさせた。
タハミーネは瞼を閉じた。少年の視線から逃れるために。
「……何をしているのです。早く出立なさい」
声は、意識していた以上に硬く、冷たく響いた。少年は僅かに身を強張らせたようだった。鎧が小さな音を立てた。彼がどんな表情をしているのか、瞼を閉じたタハミーネには見えなかった。見たくはなかった。傷ついた表情に、罪悪感をかき立てられたくはなかった。
「……行ってまいります」
短い沈黙のあと、挨拶とともに少年は立ち上がった。靴音が遠ざかり、扉が閉まる。そこでようやくタハミーネは瞼を開いた。窓からの陽光が、少年が跪いていた床を白く切り取り、その空白を浮かび上がらせるようだった。
控えていた女官が、とがめるような視線をタハミーネに向けた。戦地に赴こうとする“息子”に対して、なんという冷淡な態度。言葉には出さずとも、彼女がそう責めていることは疑いなかった。それを横顔で受けながら、女官に退出の命令を出す。独りになったタハミーネは、深いため息をついた。
――そなたを手放すつもりはない。
その言葉どおり、夫はタハミーネの王妃の地位を守り抜いた。他の女性に目を向けることもなく、側室を娶って新たに王位継承者を産ませることもしなかった。
そして、タハミーネの元に娘が戻ることもなかった。
夫とて、タハミーネにした仕打ちを全く悔いていないわけではないのだろう。それを埋め合わせるかのように、夫はタハミーネに優しい言葉をかけ、折にふれて様々な物を贈った。美しい衣服、色とりどりの宝石、遠い異国の珍しい花。国王の寵愛を受けるただひとりの女性として、タハミーネにはありとあらゆる贅沢が許された。
しかし、その十四年の歳月は、一度凍てついた彼女の心を再び温めることはなかった。
椅子から立ち上がり、窓から外を眺める。王宮前の広場には、武装した騎兵がひしめきあっていた。露台に出た国王の姿に歓声が上がる。
国王の後ろに控えた少年は、まっすぐに背筋を伸ばし、正面だけを見据えていた。タハミーネにはその背中しか見ることができない。豪勇で知られる国王の堂々たる体躯の側にあっては、やはりその後姿は華奢ではあったが、奇妙なことに先ほどの印象よりも力強く見えた。タハミーネは無言のまま、少年の背中を見つめ続けた。
――分かっている。あの子に罪はない。
彼もわたしと同じ、囚われの身なのだ。
わかってはいても、胸中に湧き上がるのは、激しい苛立ち。
それは、少年に対して「母」を演じなければならないためばかりではない。
知らぬこととはいえ、押し付けられた人生を受け入れ、与えられた役割を必死で果たそうとする。そんな少年の姿が、このときタハミーネの苛立ちを燃え立たせていた。
国王の合図と共に、轟くような歓呼の声。
騎兵の列が整然と城門を出てゆく。
列にまぎれて、少年の姿はもう見えない。
――パルスのため。
先ほど少年に投げかけた言葉を、もう一度胸中に呟く。
けれどこの国が、いったい何を彼女やあの少年に与えたというのだろう。
タハミーネは広場を見下ろす窓から離れた。再び椅子に腰を落ち着けると、瞼を閉じる。
少年の後姿の残像は鮮やかになるばかりで、消えてはくれなかった。