扉
――わたくしを責めないのですか。
そう口にした彼女を、少年は驚いた表情で見つめた。大きく見開いた夜空の色の瞳に、驚愕の次に浮かんだのは、怒りでも憎しみでもなかった。全てが明かされた今、少年が抱いている感情は、そのどちらかでしかないと思っていた彼女は、その瞳に揺らめいたものが理解できなかった。
少年は眼を閉じ、それを再びゆっくりと開くと、微笑を浮かべた。
そして告げた。迷いのない瞳で、声で。
――母上、お別れを申し上げます。
温室は、かつての美しさを思い起こすことができないほど荒れ果てていた。
月ごとに異なる花が咲き誇り、冬でも鮮やかな色彩が絶えることがなかった小さな楽園。ルシタニア軍のエクバターナ侵攻の折にすら戦禍を被ることがなかったその場所は、しかし今、その色彩を失い、完全に沈黙している。温室の片隅にある籐の椅子だけが、最後にこの場所を訪れたときと変わらぬままであった。
タハミーネはその椅子に近づき、静かに腰を下ろした。目の前の花壇では、かつては美しく咲き誇っていたラーレが、乾ききった葉や茎を力なく土に横たえている。王都奪還のための戦いよりもさらに前から、この場所は誰からも忘れ去られていたようだった。恐らく、タハミーネがアンドラゴラスとともに王都を去ったことで、温室を維持していく意味が失われたのだろう。
イノケンティス王の顔を、あまりはっきりとは思い出せない。アンドラゴラスを道連れに塔から身を投げた、と、後で聞かされた。怒りは感じなかった。夫を失った悲しみも。
すべての感情が、あの夜に消えてしまったようだった。
あの天幕の中で、すべてを吐き出した夜に。
タハミーネは、正面のラーレの花壇から視線をうつした。花壇の片隅にも、同じようにかつて美しい花だったものが、くたりと倒れこんでいる。春先に小さな白い花を咲かせるそれは、色とりどりのラーレよりも彼女の心を惹きつけたものだった。そういえば今年はこの花を見た覚えがない、とタハミーネは思った。囚われの身であっても、毎日のようにここを訪れていたというのに。
恐らく、今年も変わらずに花は咲いていたのだろう。タハミーネに、それに気づく余裕がなかったのだ。王宮の支配者が変わろうとも、そして、誰が彼女の新しい伴侶になろうとも、心は凍てついたまま、何の変化もないとタハミーネは思っていた。けれど実際には、ルシタニア王の求愛を受けながらも、その家臣達からは処刑を望まれているという状況で、張り詰めた日々が続いていたのだろう。温室の花を眺めながらも、心は虚ろだったのだ。そう思い至り、あの可憐な花を見られなかったことをタハミーネは惜しんだ。
温室の扉が開く音がした。足音が近づいてくる。タハミーネは花壇を見つめたままそれを聞いていた。タハミーネの背後で、それは止まった。
「王妃さま」
呼びかける声はよく知った人物のものだが、そう呼ばれたのは初めてのことだった。違和感を覚えつつ振り返ったタハミーネの視線の先で、アルスラーンが佇んでいた。
「出立の用意が整いましたので、お迎えに参りました」
深く一礼してそう続ける。礼儀正しい様子は以前と変わらない。むしろ、タハミーネに対する声や物腰には、以前よりも柔らかさが増したように感じられた。タハミーネは頷いたが、すぐに立ち上がる気にはなれず、また枯れた花々に視線を戻した。アルスラーンも彼女を急がせはせず、傍らに立ったまま、静かに彼女を見守った。
アルスラーンは従者を伴っていなかった。タハミーネも、女官たちには告げず一人でここへ来ていた。温室をガラス越しの陽光が包んでいた。
「……この温室も、ずいぶん荒れてしまいましたね」
不意にアルスラーンが口を開いた。花壇の片隅に歩み寄ると、そこに屈みこんだ。枯れてしまった花に手を差し伸べ、茎をそっと持ち上げた。
「この花も枯れてしまいましたね。……王妃さまのお好きな花だったのに」
「知っていたのですか?」
意外な思いで問いかけたタハミーネに、アルスラーンは屈託のない笑顔を向けた。
「ここで過ごしていらっしゃるのを、時々お見かけしました」
「……そうでしたか」
タハミーネは戸惑いを覚え、アルスラーンから視線をそらした。温室で過ごすのは彼女の日課であったし、アルスラーンがそれを知っていたことは不思議ではなかった。驚いたのは、タハミーネの好きな花が、華やかなラーレではなく、同じ花壇の片隅にひっそりと咲く一見地味な花だと、アルスラーンが気づいていたことだった。アンドラゴラスも知らなかったことのはずなのに。
アルスラーンはタハミーネの様子を気遣うような表情を見せた。枯れた花に視線を戻すと、静かに言葉を紡ぐ。
「庭師のモフティが教えてくれたのです。母上……王妃さまの故郷の花だと」
その名前はタハミーネも知っていた。けれど、タハミーネはその庭師と言葉を交わしたことはなかった。枯れた茎を指で撫でながら、アルスラーンは続けた。
「バダフシャーンとエクバターナは気候が違うので、世話が難しいと言っていました。ここで咲かせるのに五年かかった、とも。とても誇らしげでした」
「……五年、ですか」
タハミーネはそのことも知らなかった。ここに咲いていた花々は、アンドラゴラスがタハミーネのために集めたもの以外にも、以前からずっとここで咲いていたものも多いと聞いていた。エクバターナから遠く離れた異国の花は、歴代の王たちの侵略と凱旋の証でもあった。
バダフシャーンの花があることに気がついたのはいつ頃だったか、今では思い出せない。けれど、それは最初からここにあったのだと思っていた。咲かせるのが難しいことも、そのために心を砕いていた者がいたことも、タハミーネは知らなかった。
「その庭師はどうしたのですか」
「……王都が陥落したときに、死んだそうです」
アルスラーンの声が痛ましげな響きを帯びた。どんな状況で死んだのか、アルスラーンは語らなかったが、想像することは容易だった。タハミーネは眼を閉じ、庭師の冥福を祈った。彼女の知らぬところで忠誠を尽くしてくれていた者の、魂の安らぎを。
眼を開くと、アルスラーンがタハミーネを見つめていた。タハミーネは初めて理解した。彼もまた、何度もここへ足を運んでいたのだろう。自らの出生を知らぬまま、タハミーネを母と信じて。“母”の冷たい態度に戸惑いながら、それでもひたむきに。
愛してほしい、と、それだけを願って。
――わたしの心は虚ろだった。この春だけでなく、ずっと昔から。
鮮やかな花々に囲まれていても、眼には何も映っていなかった。
心を閉ざしたまま過ぎた十五年を、タハミーネは初めて惜しんだ。
扉の開く音がした。アルスラーンと同じような年頃の少年が歩み寄り、アルスラーンに何事かを耳打ちした。彼は頷くと、タハミーネに向き直った。
「そろそろ行きましょうか、母上……いえ、王妃さま」
「構いませんよ、“母上”で」
考えるよりも先に、タハミーネはそう口にしていた。アルスラーンが、驚いたように目を瞠った。
「そなたが、わたくしをそう呼びたいのなら。……そう呼びたいと、思ってくれるのなら。わたくしを、まだ母と呼んでくれるのなら」
口にしながら、これは身勝手な感傷であろうとタハミーネは思った。行方の知れぬ娘のことを忘れたわけではない。そして、アルスラーンから家族を二度も奪い、本来彼のものではない運命を押し付けたことも忘れたわけではない。そうしたのは彼女の意思ではなかったが、不憫だと思うならば、彼をあるべきところへ帰してやる機会はあったかも知れない。そうせずに過ごしてきて、今になってこう思うのは、身勝手というほかなかった。――まだ間に合うならば、この少年の“母”になりたい、などと。
むろん、アルスラーンには拒むこともできる。何を今更、とタハミーネを責めたててもいい。けれど、この少年はそうはしないだろう、と、彼女はもう理解していた。
アルスラーンは、柔らかな眼差しでタハミーネを正面から見つめた。
「責めないのか、と仰いましたね」
静かな口調だった。
「あの晩、全てを話してくださる前から、私は自分が王家の血を引いていないのではないか、とずっと思っていました。恐ろしかったのです。王族でないなら、自分は何者なのか。それが分からなくて、恐ろしかった」
そこで一度言葉を切ると、アルスラーンは足元に視線を落とした。根源的な恐怖にひとりで耐えねばならなかった日々を思い出したのか、その瞳が微かに翳った。けれど、いったん眼を閉じ、それからゆっくりと開くと、その翳りはもう消えていた。もう一度タハミーネを見つめ、アルスラーンは迷いのない口調で続けた。
「耐えてこられたのは、私を信じてくれる者たちがいたからです。彼らは、私が王に相応しいと信じて、力を貸してくれた。私を、大切な主君だと言ってくれたのです。――もし王太子でなかったら、彼らに出会うこともなかった。だからあの晩、母上が話して下さったことは、驚きもしましたし、悲しいとも思いました。けれど、責めようとは思いませんでした」
タハミーネは、アルスラーンの瞳を見つめながら、その言葉を聞いていた。初めて彼の言葉を聞くように思った。あまりにも遅すぎる、けれど新鮮な驚きが、彼女の心を解し始めていた。
「今は、一日も早く立派な王になることが、彼らへの、そして私の本当の家族たちへの恩返しになると思っています。――母上に感謝しています。父上にも。王太子として育てて下さって、ありがとうございます」
言い終えると、アルスラーンは微笑んだ。曇りのない、穏やかな笑顔だった。
馬車に乗り込む前に、アルスラーンはタハミーネを呼び止めた。振り向いた彼女の掌に、白い小さな包みをのせた。
「あの花の種です」
訝しげなタハミーネに、アルスラーンはそう答えた。
「エクバターナでは難しい花でしたが、きっとバダフシャーンなら育てやすいでしょう。次の春にはすぐに花が咲くと思います」
包みを彼女に握らせると、アルスラーンは深く一礼した。
「母上の幸せをお祈りしています」
少年の真摯な言葉に、タハミーネは頷いた。
「そなたも達者で。……ありがとう、アルスラーン」
小さく呟いた最後の言葉は、走り出した馬車の蹄の音に重なったが、アルスラーンはそれを聞き逃さなかった。光をはじくような笑顔で応え、タハミーネの馬車を見送った。その姿が小さくなって消えていくのを、タハミーネもじっと見ていた。
エクバターナの王宮からは、国王の使者が季節の祝祭ごとに贈物を持って訪れた。それらにはいつも、若い国王からの手紙が添えられていた。エクバターナの街の様子、祝祭の賑わいのこと、そして、タハミーネの娘を探しているが、まだ見つかっていないことなどが書き記されていた。
手紙を読み終えたタハミーネは、使者に視線を向け、労をねぎらった。
「陛下にお伝えすることはございますか」
長い黒髪に緑の眼を持つ、若く美しい使者は、タハミーネに尋ねた。タハミーネは「いいえ」と答えかけたが、ふと窓の外に眼を向けると、椅子から立ち上がった。庭へ出る扉を開け放つと、使者を呼んだ。窓からの風が、甘い香りを運んできた。
庭に造られた花壇一面に、白い可憐な花が揺れていた。
「伝えてくれますか。……あの花が咲いた、と」
タハミーネの視線を受け、使者は優しい微笑を浮かべた。
「はい、必ずお伝えいたします」