旅路を行く




 あの頃のことは、どんな些細なことだって覚えている。
 目にした風景も、交わした言葉も、何もかも。

 その記憶のすべては、彼に繋がっていた。



 柔らかな髪の中へ指を滑らせる。アルスラーンは驚いたように目を瞠ったが、やがて穏やかに微笑んだ。初めて会ったときと変わらず、まっすぐにエステルを見つめる。美しい夜空の色の瞳に映る自分に気づいた瞬間、エステルの心臓が音を立てて跳ねた。吸い込まれそうだ、と思った。そわそわと落ち着かない気分にとらわれる。何故だろう、あの頃は彼にまっすぐに見つめられても、こんな気分にはならなかったのに。けれど、瞳をそらすことはできなかった。微かに震える指で、彼の頭をそっと撫でながら、ようやくエステルは口を開いた。
「そろそろかと思っていたけど、まだみたいだな」
「何が?」
「角と尻尾」
 彼女の返事を聞いたアルスラーンは、ああ、と頷き、ついで吹き出した。初めて言葉を交わしたときのことを、彼も覚えていたのだ、とエステルは知った。

 “異教徒の総大将というものは、二本のねじまがった角がはえていて、口が耳まで裂けて、黒いとがった尻尾があるものだぞ”
 今思えば、無知と偏見に満ちた、子どもじみた台詞だった。けれど、同じように子どもだったはずの彼は、怒りはせず、屈託なく笑って答えた。
 “ああ、そう? おとなになったら角も尻尾もはえてくるかもしれない”

 そこは、壁面に灯火がひとつ灯されていただけの、暗く冷たい地下牢だったはずだ。だが、あとからその情景を思い出すとき、その場所は、柔らかな光に満たされたあたたかい場所だったようにエステルには感じられた。
 ――ちょうど、今、この場所と同じように。

 柔らかな陽射しが差し込む、小さな庭園に面した部屋だった。傷を癒さねばならない身であるエステルには、王宮の外の様子は直接は分からない。ただ、かわるがわる部屋を訪れる仲間たちの話から、その活気に満ちた様子を、彼女は鮮やかに思い描くことができた。それは、数年前に彼女がこの国を訪れたときとは、全く違っていた。
 街のあちこちでその名を讃える声が聞こえるという彼は、一人であの暗い地下牢を訪れたときと同じように、屈託なく笑った。
「そうだね。一人前の異教徒の王を名乗るのは、まだ早いみたいだ」
「当たり前だ。わたしだってまだとても一人前の騎士とは言えないのに、先にお前に一人前になられてたまるものか」
 ぶっきらぼうな言葉に、何故かアルスラーンは嬉しそうに微笑んだ。寝台に腰掛けているエステルを正面から見つめながら、穏やかに言った。
「君は変わらないね。こうして話していると、あの頃に戻ったみたいな気がするな」
「……お前だって、変わっていない」
「そうかな」
 彼は微笑んだまま、髪の中へ滑り込んでいたエステルの手に、自分の手を重ねた。彼女の手より少し大きい彼の掌はあたたかく、優しさと力強さを感じさせた。その手が彼女の手を包み込み、わずかに力を込めた。彼女の心臓がまた跳ねた。彼女は初めて目を伏せた。右手を包むあたたかな感覚を、かえって強く感じながら、彼女は言葉を紡いだ。
「……変わっていないな、お前は。どんな姿になったって、わたしは見破れるから平気だと思っていたのに……あまりにも変わっていないから、拍子抜けした」
「そう? ひょっとして、がっかりさせてしまったのかな」
 思いがけず沈んだ調子の声が返ってきて、エステルは慌てて顔を上げた。
「ち、違うんだ、そうじゃなくて……」
 だが、顔を上げた途端、アルスラーンの瞳が変わらずまっすぐに彼女を見つめているのに気づいた。心臓は、先程からずっと跳ね続けている。頬が熱くなるのを感じた
「がっかりしたわけじゃない。お前が変わっていないのが……その……」
 声が掠れる。言葉がうまく出てこない。そんな彼女を急がせることはなく、アルスラーンは真摯な表情で続きを待っていた。エステルは深く息を吸い込んだ。
「……嬉しかったんだ。会えて、よかった」
 やっとのことで、エステルはそう口にした。アルスラーンは、エステルの右手に重ねていた手を、そのまま胸元へ導いた。両手で彼女の手を包み込むと、彼女を見つめたまま、柔らかく微笑んだ。
「私もだよ。君に会えて、すごく嬉しい」

 初めて会ったときは、互いに子どもだった。あれはもう、四年も前のこと。今はもう、二人ともあの頃のような少年と少女ではない。
 けれど、屈託のない笑顔の中に、穏やかで優しい言葉の中に、真摯な光を宿す夜空の瞳の中に、確かにあの頃のままの彼がいる。
 彼もそうなのだろうか、とエステルは思った。彼も、いま目の前にいる彼女の中に、あの頃の彼女の面影を見ているのだろうか。それを見つけたことを、嬉しいと感じてくれているのだろうか。

 けれど今、こうして彼と向かい合いながら、その表情や言葉に、まっすぐに向けられる眼差しに、包まれた手のあたたかさに、胸を高鳴らせている彼女自身は、決してあの頃と同じではなかった。意地を張ってはいたけれど、それでも思っていることを率直に彼にぶつけていた少女のままではなかった。
 きっともう、あの頃のようにはできない。胸を締め付けられるような痛みとともに、エステルはそう思った。

 わたしには、あの頃に戻ったようには感じられないよ、アルスラーン。
 だって、あの頃は、こんな痛みは知らなかった。

「そうだ、もうすぐ君に追いつくよ、エステル」
「え……?」
 ふいにかけられた言葉に、エステルは首をかしげた。アルスラーンは、戸惑う彼女を楽しげな表情で見つめながら続けた。
「もうすぐ私の誕生日なんだ。二ヶ月遅れで、君と同じ歳になる」
 エステルは目を瞠った。それも、あの地下牢でのことだった。君はそんなに小さいのに、と言ったアルスラーンを、彼女は怒鳴りつけたのだ。

 “わたくしのほうが二ヶ月だけ年長だ。妹あつかいされる筋合いはない!”

「そんなことまで覚えていたの?」
「もちろん。どんなことだって覚えているよ、君のことは」
 アルスラーンは笑った。その笑顔はやはり、あの頃と同じ、屈託のないものだった。
「そうか、おめでとう」
「もう少し先のことだよ、エステル」
「別に、今言ってもいいだろう? その日が来たら、また言う」
「ありがとう」
 アルスラーンは微笑んでそう言うと、ふと窓の外に眼を向けた。遠くを見つめながら、ぽつりと呟く声が、エステルの耳に届いた。
「早く一人前の王になりたいと思うのだけど、本当にいつまでも未熟だな、私は」
 窓からの陽射しに眼を細めるアルスラーンの横顔に、エステルは無言のまま視線を注いだ。

 “王太子殿下はいつも努力しておられる”

 それは地下牢ではなく、王都へ向かう途上でのことだった。アルスラーンに多くの者がつかえている理由を問うたエステルに、そう答えたのはファランギースだった。神ならぬ身とはいえ、完璧に近づく努力を怠らぬことこそが、王の条件だ、と。
 ファランギースがそう答えたことを、アルスラーンが知っているかどうかはわからない。けれど、今や国中からその名を讃えられながら、なお自分を未熟だと評するアルスラーンが、その努力を今も怠っていないことは、エステルにも明らかだった。

 追いつくなんて言ったけど、それは年齢だけのこと。この人はもう、わたしのずっと先を歩いている。
 ――もう十分に、立派な王だ。

「焦ることはない」
 口に出してはそう言った。振り向いたアルスラーンに、まっすぐ視線を注ぎながら、エステルは続けた。
「だってお前、やっとわたしと同じ歳じゃないか。未熟で当たり前だ。……それに、わたしは未熟なままでいるつもりはない。お前だってそうだろう?」
 言いながら、傷ついた自分の右膝に視線を落とす。ルージ・キリセの街で手当てをしてくれた医師は、もう杖なしでは歩けない、と言った。今も、動かそうとすれば痛みが走る。その痛みは、エステルにとっては、己の未熟さと浅慮に対する重い代償だった。

 そう、だからこそ、このままではいたくない。傷の痛みに耐えられずに、前へ進めなくなることは嫌だ。
 ただまっすぐに歩み続けているこの人の瞳に、そんな自分を映したくはない。

 唇を噛み締めながら睨み付けていた右膝に、そっと手が添えられた。顔を上げると、アルスラーンが彼女を見つめていた。優しい眼差しの奥に、強い決意の光が見える。
「……そうだね、このままでいるつもりはない。未熟であるのなら、一人前になる努力をしなければ」
 アルスラーンは力強くそう言った。それは、自分に言い聞かせるためだけの言葉ではなかった。アルスラーンはエステルの頬を両手で包んだ。あたたかい掌の感触に、瞳の奥がじわりと熱くなる。エステルの瞳を正面から見つめながら、アルスラーンは言った。
「一緒に頑張ろう、エステル」
「……うん」
 頷くと同時に、涙がこぼれた。あとはもう、何も言葉にならなかった。胸が締め付けられるように痛む。さっきの胸の痛みとは、比べ物にならなかった。けれど、その痛みの奥に、あたたかさが確かにあった。しゃくりあげるエステルの肩を、アルスラーンの腕が包んで、胸元へ引き寄せた。もう一方の手が、エステルの頭を優しく撫でた。

 今も鮮明に残る記憶。今はもう、あの頃のようにはなれない。
 けれど、今だからこそ感じられることがある。激しい痛みと、それでも歩き続けたいという意志。そして、願い。

 この人と一緒に、どこまでも行きたい。

 優しいぬくもりに包まれながら、エステルは強く願った。