TO THE NEW WORLD




 暗闇の中で、アルスラーンは目を開いた。真夏とはいえ、あたりの空気は冷たく、まだ夜明けが遠い時刻であることが察せられた。

 ……眠れない。

 身を起こして息をつくと、アルスラーンは寝台から降り、そっと部屋の戸を開けた。足音を立てないよう気をつけながら、暗い廊下を辿って旅宿の外へ出る。眠るように静まり返っている村の家々を見渡し、アルスラーンは深く息を吸い込んだ。肺を満たした清涼な空気が、全身を駆け巡る。指先にまで力が満ちていくようだ。
 北東へ目を向けると、星明りの下、影絵のように浮かび上がる険しい山の姿があった。デマヴァンド山。パルスで最も深い闇を閉じ込めた山だ。アルスラーンは唇を引き結んで、山の姿をじっと見据えた。
 夜が明けたらあの山へ向かう。休んでおかなければならないのは分かっているが、どうしても眠りに落ちることができなかった。それは、粗末な硬い寝台のせいなどではないし、“魔の山”へ向かうことに対する恐怖のためでもない。昨年の暮れ、ペシャワールへの途上で見たときには禍々しく感じられた山の姿は、今はあの時ほどには恐ろしくはない。無論、危険な山だということは充分承知しているし、侮るつもりはないのだが、恐怖とは違う何かがアルスラーンを昂らせ、駆り立てている。それが何なのか、アルスラーン自身にもはっきりとは分からなかった。戸惑いを感じながらも、デマヴァンド山をまっすぐに見据えたまま、アルスラーンはそこに佇んでいた。

 背後から人の気配が近づいてくる。足音を忍ばせてはいるが、悪意は感じられない。アルスラーンはゆっくりと振り返った。
「やあ」
 声をかけると、近づいてきた人物は足を止め、ばつの悪そうな表情を浮かべた。アルスラーンは笑みを向けた。
「起こしてしまったかな。すまなかった」
「……別に、起こされたわけじゃない」
 ぶっきらぼうな少女の声は、すでにアルスラーンの耳に馴染んだものだった。アルスラーンが先程まで見ていた方角に目を向けながら、エステルは尋ねた。
「あの山へ行くんだな」
「うん」
「危険な山なのか」
 エステルの口調が、少し不安そうな響きを帯びた。異国人である彼女は、デマヴァンド山にまつわる伝説を知らない。だが、険しい輪郭を見せる影絵の山が、危険な場所であることは想像できるだろう。それに彼女は、夕刻、白鬼と名づけられたルシタニア人騎士を怯えさせたものを知ったアルスラーン達の動揺も見ている。
「……うん、そうだね。パルス人なら誰でも知っている山だよ」
 アルスラーンが答えると、エステルは振り向き、請うような視線を向けた。
「長い話になるけれど、聞くかい」
 視線に促されるようにそう切り出すと、エステルは安堵したように頷いた。
「教えて欲しい。わたしだけが知らないのはいやだ」
「わかった」
 異国人であるエステルに、どんな風に話せば分かりやすいだろうか。アルスラーンは、言葉を探す途中でふと気がついた。エステルは、一緒にあの山へ行くつもりなのだ。彼女にはその必要はないはずなのに。けれど、そうだ、思い返してみれば、ギランで再会してから、エステルはずっとアルスラーン達と行動を共にしてきた。アトロパテネでギスカールが率いるルシタニア軍を破ったときも、エクバターナ近くのアンドラゴラス王の野営地で、タハミーネと再会したときも。他にとるべき方法はなかったとは言え、恐らく、ずっと戸惑いを抱えながらついて来ていたのだろう。最後まで行動を共にすることで、エステルはその戸惑いに決着をつけたいのかも知れない。
 アルスラーンにも、エステルの同行を拒むつもりはなかった。それに、アルスラーンも誰かに聞いて欲しいと思っていたのだ。いま、恐怖とは違う何かに駆り立てられている、この胸の内を。デマヴァンド山の伝説をエステルに語ることは、そのきっかけになるかも知れない。ひとつ静かに呼吸をして、アルスラーンは語り始めた。
「――パルスに、千年続いた暗黒の時代があった」



「……デマヴァンド山は、今でも恐れられている危険な山だ。それでも私は、行かなければならないんだ」
「王になるために?」
「うん」
 長い話をそう締めくくると、アルスラーンは再びデマヴァンド山へ視線を向けた。東の空が、薄いヴェールを剥ぐように少しずつ明るくなってきている。しかし、依然として山は影絵のようにその険しい輪郭を浮かび上がらせている。
「不思議だな」
 山を見据えていたアルスラーンの耳に、エステルがそう呟くのが聞こえた。
「パルス人が、あの山を恐れる理由は分かった。わたしたちも神の怒りや悪魔を恐れる。馬鹿にしようとは思わない」
 エステルは、ゆっくりとアルスラーンに視線を向けながら続けた。
「でも、お前は恐れてはいないんだな。どうしてだ?」
 確信に満ちた言葉に驚き、アルスラーンはエステルを振り返った。エステルの蜂蜜色の瞳が、じっとアルスラーンを見つめている。
「全く恐れていないわけではないよ。……でも、そうだな。恐れよりも、もっと強い気持ちがある」
 わずかな沈黙のあとで、アルスラーンは言葉を紡いだ。エステルは、言葉ではなく視線で先を促した。微かな笑みを返して、アルスラーンは続けた。
「どう言ったらいいのか、自分でもよく分からない。でも、早く夜が明ければいいと思っている。あの山へ、少しでも早く行きたいんだ。山を侮るつもりはないのだけどね。こんな言い方は良くないのかも知れないけど……そうだな、わくわくしているんだ」
「わくわくする?」
 意外そうにエステルが問う。アルスラーンは頷いた。

「私は今、生まれて初めて、自分の意志で選んでいるんだ。自分の往くべき道を」

 エステルはわずかに目を瞠ったが、再び無言のままアルスラーンを促した。ゆっくりと言葉を探しながら、アルスラーンは続けた。言葉にすることで、自分を駆り立てていたものが、少しずつ形を成していくのがわかる。
「王太子という地位は、誰かが私に与えたものだ。でも、本当は私はそれを与えられるべき資格を持っていなかった」
 アルスラーンの言葉に、エステルは一瞬戸惑った表情をしたが、やはり無言のまま頷いた。
「皆が私を支え、守ってくれていることは、本当に嬉しかった。でも、私に与えられるべきものではないかも知れないと思うと、つらかったんだ。……でも、今は違う」
 東の空を覆っていた闇は、すでに退却を始めている。
「決めたんだ。私は王になる。誰かに与えられた資格のためではなく、私自身の意志で。そのための第一歩として、あの山へ行くんだ」
 声に、自然と熱がこもった。白んでいく空の下、デマヴァンド山は少しずつその姿を見せ始めている。禍々しい影絵の山ではなく、奇怪な稜線をもった、けれど同じ大地に聳える山としての姿を。アルスラーンはもう一度、その山を見据えた。
「危険なことは分かっている。それでも、嬉しいんだ。自分の意志で道を選べることが。それを支えてくれる仲間がいることが。だから、恐くはないのかも知れない」
 それ以上は、言うべきことは何も残っていなかった。アルスラーンは山を見据えたまま、深く呼吸した。隣に並んだエステルが、小さな声で「そうか」と呟くのが聞こえた。
「色々聞けてよかった。……話してくれて、ありがとう」
 続けられた言葉に、アルスラーンは微笑んだ。エステルのほうへ視線を向けると、彼女もアルスラーンを見つめていた。明るくなってきた視界の中で、強い意志に輝くエステルの瞳が、正面から彼を捉えていた。

「それなら、わたしも選ぶ。お前と比べたらささやかな選択だけど、わたし自身の意志で、お前たちと一緒にあの山へ行く。その先の道も、わたし自身の意志で選ぶために。それが第一歩だ」

 力強い口調でそう告げると、エステルも山へ視線を向けた。その横顔に、アルスラーンは言った。
「ありがとう」
「礼を言われることじゃない。わたし自身のために行くんだ」
「そうだね。でも、君にも一緒に来てもらえるなら、私は嬉しいよ」
 背後から、幾人かの足音が近づいてくる。アルスラーンのよく知った人々のものだ。ゆっくりと振り返る。出立の用意を終えた仲間たちが、薄明かりの中に佇んでいる。黒衣の騎士が、恭しく片膝をついた。他の者もそれに続いた。
「アルスラーン殿下」
 ダリューンが口を開いた。

「殿下の往かれる道を、どこまでもお供いたします。我々自身の意志で」

 静かだが力強い声に、アルスラーンは頷いた。仲間たちを促して立たせ、一人ひとりの顔を見つめて笑みを向ける。最後に視線を向けたエステルが、眩しそうに目を細めた。淡い褐色の髪が微かに輝く。アルスラーンは振り返った。

 東の空から、光の矢が幾筋も天へ放たれている。デマヴァンド山の奇怪な山肌も、その光を受けている。光の中にある山は、やはり恐れるべきものではないように思えた。
 ひとりで往くのではないのだから。アルスラーンを支え、守ってきてくれた仲間たちが、これからも彼ら自身の意志で共に歩んでくれるのだから。そして、往く道はいずれ分かれるけれど、異国から来た新たな友が、同じ想いを胸に歩んでくれるのだから。

「すぐに出立の用意をする。すまないが、少しだけ待っていてくれ」
 アルスラーンはもう一度、一人ひとりの顔を見つめながら告げた。頷く仲間たちに礼を言い、宿の部屋へ駆け出す。すぐ後ろから、同じように駆ける足音がついてくる。アルスラーンと並んだエステルは、目が合うと力強く頷き、口元を少しだけ綻ばせた。アルスラーンも笑みを返した。

 駆けてゆく二人を、輝きを増した朝の光が包んだ。