風の中の花のように





 王都にはうららかな春の気配が満ちていた。王宮の中庭にも、噴水を囲むように植えられた花々の芳香が溢れており、風向きが変わるたびに異なる花の香りがそよぐ。噴水の縁に腰を下ろしたギーヴは、数ヶ月ぶりに帰ってきたエクバターナの空気をしばし楽しんだ。

 ――帰ってきた、という気分になるのも不思議なものだ。
 旅から旅へ、さすらうことが常だったこの身が、しかも王宮などでそんな気分になるとは。

 ひとり苦笑する彼の耳が、軽やかな足音が近づいてくるのをとらえた。
「あれ、ギーヴ?」
 足音が止まり、意外そうな声が投げかけられた。ゾット族の若き長が、黒い瞳を丸くしてギーヴを見つめている。それも一瞬のことで、すぐに人懐っこい笑顔を浮かべて回廊からおりてきた。
「珍しいね、王宮にいるなんて」
「陛下に旅の土産話をお聞かせしていたのさ」
「ふうん」
 ギーヴの隣に腰を下ろしたアルフリードは彼を見上げ、悪戯っぽく笑った。
「また、どこそこの諸侯には年頃の美しい娘がいた、なんて話したんじゃないの?」
「してないさ、娘はいなかったからな。美しい侍女ならいたが」
「……もう、相変わらずだね。陛下にそんな話ばっかりしてると、ダリューン卿やルーシャン卿に睨まれるよ」
 あきれたように肩をすくめるアルフリードの耳元で、小さな青い宝石をあしらった耳飾りが揺れた。赤みをおびた髪に、鮮やかな青がよく映えている。宝石を縁取る銀の輝きから、まだ新しいものだと知れた。
「その耳飾り、なかなかいいな。よく似合っているぞ」
「ほんと?」
 ギーヴの言葉に一瞬ぱっと顔を輝かせたアルフリードだが、すぐに憮然とした表情になった。
「ギーヴに褒められてもあまり嬉しくないな。誰にでも言ってるんじゃないの?」
「何を言う、おれは真に美しいものしか褒めないぞ。――それに、おれに褒められて、じゃなくて、ナルサス卿に褒めてもらってないのが嬉しくないんじゃないか?」
「……うーん、あたり。最近忙しそうでさ、あんまり話してないんだ」
 アルフリードはため息をついて空を見上げた。その髪を撫ぜるように吹き抜けた風が、微かに花の香りを残していった。
 彼女自身も“年頃の美しい娘”であるのだが、年頃であることはともかく、美しさについてはあまり自覚していないようだった。くるくるとよく変わる表情から、無防備なほどの素直さがうかがえる。彼女にまったく色香を感じないのはそのせいかも知れない。

 花が花であることを知らずにいるのは、その美しさを賛美する者がいないからだ。
 己の価値を知らずにいる花には、それを教えてやらねばならない。お前は花なのだよ、甘い香りと美しい色を持っているのだよ、と。己の価値を知ることで、花の美しさはより高まるのだ。
 そして、美しい花にその価値を教えてやるのは、男の義務だ。ギーヴはそう考えている。

「まったく、軍師どのも野暮なことだな。恋の喜びよりも仕事のほうに夢中とは」
 アルフリードに調子を合わせるつもりで――半ばは本気でギーヴはそう呟いたが、アルフリードはギーヴに向き直ると、彼を睨みつけた。
「ちょっと、ナルサスのこと悪く言わないでよ」
「おや?」
「構ってもらえないからつまらないなんて……まあ、ちょっとは思ってるけどさ。でも、やっぱりナルサスはすごいんだから! 他の誰にもできないことをやってるんだからね!」
「わかったわかった」
 むきになるアルフリードを宥めつつ、ギーヴは苦笑した。ナルサス以上に野暮だったのは彼のようだ。
 回廊から、別の足音が近づいてくる。
「アルフリード、ここにいたのか」
 声の主を振り返るアルフリードの顔が、陽光をはじくように輝くのをギーヴは見た。
「ナルサス! どうしたの?」
「ファランギースどのと出かける約束ではなかったのか? 探していたぞ」
「あ、忘れてたっ」
 アルフリードは慌てて立ち上がり駆け出したが、回廊に上がる寸前で振り返った。
「新しい弓を見に行くんだ。ナルサスも一緒に行かない?」
「せっかくだが、陛下とルーシャン卿に相談をもちかけられているのでな」
「そっか、残念。夕食のときは?」
「そのときなら空いているが」
「じゃあ、ついでに市場で買い物もしてくるよ。今日はドルメを作ってあげる!」
 朗らかに笑うと、ナルサスの返事も聞かずに踵を返す。少し言葉を交わしただけだが、耳飾りを褒めてもらってないことはもう不満ではないようだった。現金なものだ、とギーヴは思ったが、それを滑稽とは感じなかった。
「軍師どのが行けぬなら、おれが一緒に行ってやろうか?」
「だめ。ギーヴをつれてったら、あたしがファランギースに怒られちゃうよ」
「なんだそれは。心外だな」
 わざとらしく拗ねた顔をしてみせるギーヴに楽しげな笑い声を立てると、アルフリードは今度こそ回廊を駆け出した。
「気をつけて行ってくるんだぞ」
「わかった!」
 諦めたようなナルサスの声に、ほんの僅かだがあたたかさがあった。アルフリードが一度だけ振り向いて手を振る。回廊に響く軽やかな足音が、あっという間に小さくなっていく。
「まだまだ子どもだな。あの様子では、軍師どのを攻略するのにあと十年はかかりそうだ」
 足音が聞こえなくなってから呟く。すぐ側で軽いため息をついたナルサスを見上げ、ギーヴはにやにやと笑って付け加えた。
「もっとも、子どもでいてもらったほうがありがたいのかな、軍師どのにとっては」
「……どういう意味だ?」
「別に深い意味はないさ。――さて、それじゃおれも出かけるとするか」
 当惑する軍師を横目に立ち上がる。
 王宮も悪くないが、やはり久しぶりに街の様子も見たい。どこへ行こう? 久しぶりに妓館へ――花々に負けじとエクバターナに咲き誇る、麗しき女たちの花園へ足を運ぼうか。

 ――否。
 愛らしく微笑みかけてくる数多の花を愛でるより先に、微笑みを投げることなくとも彼の心を酔わせる女神に一目会っておきたい。いつもどおり冷たい言葉しかかけてくれぬだろうが、彼女の言葉こそが何よりも旅の疲れを癒し、新たな活力をくれるだろう。
 結局のところ、男であれ女であれ、大人も子供も、大した違いなどありはしないのだ。
 ゾット族の娘も旅の楽士も同じこと。

「よし、おれも弓を見てこよう」
 内容とは関係なく、宣言するような口調の力強さにナルサスは思わず吹き出した。
「怒られるからつれていかない、と言われなかったか?」
「ついて来るな、とは言われなかったな」
「なるほど」
 回廊に上がる寸前でわざとらしく振り返る。勿論アルフリードの真似だ。
「ついでに、アルフリードに悪い虫がつかぬよう見張っていてやるよ」
「……余計なことは気にせんでいいから、さっさと行って来い」
 ナルサスは眉間に皺を寄せ、わずらわしげに手を振った。軽く手を振り返しておいて、回廊を歩き出す。吹き抜ける風に微かな甘い香り。

 ――花が香るのか、それとも。
 心を浮き立たせる恋が香るのか?
 どちらにせよ、華やかで良いことさ。

 溢れる春の陽射しの中、ギーヴは麗しきエクバターナの街へ踏み出した。




*ドルメ…キャベツやナス、葡萄の葉に、挽肉と米を炒めたものを詰めて煮込んだ料理。
光文社カッパノベルズ版『旌旗流転/妖雲群行』巻末特別掲載「パルスの食卓」を参考にしました。